大久保の主な功績は、3つあります。廃藩置県による中央集権化。武士身分の廃止。そして、武士の代わりに農民中心の軍隊をつくる徴兵令の制定です。

徴兵制について、大久保と西郷とで意見が割れます。大雑把にいうと、大久保は農民も含めた国民全体をどうまとめるかに腐心しようとした。それに対し、西郷は武士たちを大事にしようと考えた。

2人の考えの違いは、征韓論をめぐる争いで決定的になります。征韓論を唱えた西郷側が勝ちそうになったところを、大久保が逆転する。それで江藤新平や西郷たちが野に下って佐賀の乱、西南の役を起こすんです。

大久保は、国内政治が征韓論で揺れる中、岩倉使節団の一人としてヨーロッパを巡り、蒸気機関の発達を目の当たりにしました。帰国後、「殖産興業」を目指すようになります。しかし、当時の政府の上層部はほとんど理解を示さない。殖産興業を徹底させるためには独裁体制を敷くことが必要で、そのためには考えの異なる西郷、江藤が邪魔になった。征韓論をめぐる争いは、西郷を追い出すための大久保の策だったとも言われています。

大久保が独裁体制を敷いた目的は、日本を列強の植民地にしない、ということに尽きます。そのための殖産興業であり、富国強兵だったのです。

富国強兵の実現手段として、大久保は攘夷が使えるときは攘夷、幕府が使えるときは幕府を巧みに利用してきました。また、「人事の大久保」とも呼ばれ、私情や藩閥に捉われず、人材を起用する決断力があった。

こうして独裁体制が成立したと思われた矢先、リストラされた武士に暗殺されます。大久保49歳のときでした。

日本人は国の中心に立った成功者は嫌いなんです。源義経は好きでも頼朝は嫌い。鎌倉幕府をつくったのも、武家勢力をつくったのも頼朝だけれども、非業の死を遂げた義経を好きな人が多い。要するに判官贔屓で、成功者にはどちらかというと妬みを覚える傾向がある。

明治維新でも同じです。維新三傑の中で最も人気があるのは、言うまでもなく西郷。彼は西南の役で自刃するという非業の死を遂げた。大久保も暗殺されたけれど、明治維新を完遂した後だった。彼は政権の中心に立った成功者だから、悲劇の英雄じゃなくて妬みの対象になった。

大久保の得意とした権謀術数は、民主主義の世の中では悪とされます。権謀術数で恨まれないためには、自分が全部責任を取ることに加え、私欲を持たないことが大事。殺されたときに借金しか残っていなかったという大久保は、やはり真のリーダーと言えるでしょう。

(構成=西川修一 撮影=的野弘路)