230年前に黒田家の藩校として開校した「修猷館」。この九州随一の名門校には、学問を奨励した黒田官兵衛の思いが詰まっている。福岡で生まれ育った芥川賞作家が感じた修猷館の伝統と歴史とは。
修猷館高校の主な卒業生

博多湾に面した百道(ももち)浜は元寇の役で防塁が築かれたという歴史ある場所で、私が通った西南学院中学はそのすぐそばにあった。生徒たちは放課後ともなると、ベージュ色に輝く美しい砂浜にくりだし遊んだものだ。しかし今では、砂浜はアスファルトの下に沈み、海に遠くせりだした埋立地には、ホテルやドーム球場、マンションだらけの人工的で無機質な場所になってしまった。

私立だった私の中学には市内各地から生徒が集まっていた。だから進学する高校も別々だった。多くはエスカレーター式に西南学院高校に進んだが、グループを組んで遊んでいた同級生の渡辺君は県立筑紫丘高校(筑高)に、中村君は遠くの久留米大学附設高校に、そしてもっとも仲がよかった宮地君は県立修猷館高校(修猷)に進んだ。私は福岡市の東側、博多区にあり修猷のライバル校といわれた県立福岡高校(福高)に入った。

修猷は中学の隣にあった。私はその校舎を囲む古びた煉瓦塀を、登下校で目にするたびに、周囲から超越した独特の近寄りがたさを感じていた。私は郷愁と少しの緊張をもって、43年ぶりに修猷を訪れることになった。いつも近くにありながら隔絶された場所だったあの学校に、ついに足を踏み入れるのだ……。

しかし校門の前まできた私は、思わず落胆のため息をもらしてしまった。煉瓦塀はすでになく、そのむこうにはただただ平凡な校舎が無愛想に立っているだけだ。伝統や精神というものは時代の流れの中で消えていく。現代的に形を変えた校舎が、それを物語っていた。しかしその第一印象は、すぐにくつがえされることになる……。

福岡市の西に位置する修猷は、東の福高、南の築高とそれぞれ校区を分けている。3校は地元では進学校として知られているが、伝統と全国的な知名度では、修猷が一歩先をいく。たしかに広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎、団琢磨など、卒業生の名はどれも歴史の教科書で拾うことができるほどだ。

その前身は福岡藩の藩校だ。初代藩主の黒田長政は、父であり今は大河ドラマで有名になった黒田官兵衛の意向もあって、学問を奨励。その後、藩には貝原益軒という超有名な学者も出て、儒学を中心とする学究の気風が根づいていった。1784年に開設された修猷館の初代総受持(館長)は、福岡藩において儒学の大元締めだった竹田家の定良だ。つまり学問を究めようというベースがもともと福岡藩にはあって、修猷はその実践場だったのだ。