宗教学者・文筆家 島田裕巳氏

現代日本は「無縁社会」であるという。とりわけ東京などの都会では、地縁、血縁、社縁(職場縁)といった人間どうしの絆が希薄化し、多くの人が平生誰とも関わり合わずに生きている。そのため、誰にも看取られずに孤独な死を迎える人も少なくない。それは実に悲しいことではないかというのが、2010年1月にNHKが放送し、大きな反響を呼んだテレビ番組『無縁社会-無縁死3万2千人の衝撃』の趣旨だった。

孤独死の恐れがあるのは、未婚のまま1人暮らしを続けている「おひとりさま」だけとは限らない。最近の都会人は子供や配偶者に恵まれたとしても、子が独立し配偶者に先立たれれば、話し相手もないままたった1人の晩年を過ごすことになりかねない。独居者が自室で亡くなり、そのまま何日も気づかれなかったという話はいまや珍しいものではなくなった。番組はそうした風潮を悲しげなトーンで報告し、大方の共感を得たのである。

そもそも「無縁」とは何だろう。

仏教において重んじられるのが「縁」である。人間関係の縁だけではなく、物や物事の生じる原因や条件を指して縁という。人が救われるには縁が大切であり、それゆえ「縁なき衆生は度し難し」との言葉もある。つまり、仏縁のない者は仏でも救うことはできないという意味だ。

私たち日本人は、このような仏教の教えのもとに、縁を重視する世界観を育んできた。当然、「無縁」は好ましいことではないとされている。

たとえば、いまでもよく耳にするのが「無縁仏」や「無縁墓」という言葉である。無縁仏は、弔ってくれる縁者を持たない死者のこと。縁者がなければ十分な供養を受けられない。そのため生者に祟ることがあるとされてきた。お盆の「施餓鬼(せがき)」とは、そのような無縁仏に飲食を施し冥界に帰ってもらうための行事である。

また、無縁墓とは墓を守るべき縁者が絶えてしまったとか、行方不明になってしまった墓をいう。墓は継承者がなければ寺などに返すのが原則である。ある墓が無縁墓になれば、撤去工事など一定の手続きと作業を経て更地に戻され、遺骨だけは他人の骨と一緒に合葬墓などに収納される。遺骨は残るが、一般的な「墓」は消えてなくなるということだ。