慣れた道でも、毎日が違う

天台宗大阿闍梨 酒井雄哉

千日回峰行では毎日毎日、同じ道を歩いて同じこと(堂塔、霊跡、草木などへの礼拝)をやっているでしょう。だから普通なら、だんだん慣れてきて簡単になるんじゃないかと思うよね。でも、実際には1日1日が違うんだ。

千日回峰行も、1回満行したら「それでおしまい」ということはないんだよ。続けていくことが肝心なんだ。

極端にいったら、行というのは、大学で卒業論文を書いているのと同じだよ。論文がパスして、社会へ出ていく。あたりまえだけど、それからのほうが大事なんだよ。千日の修行よりも、「卒業」してからどう生きていくか。

僕は千日回峰行を満行したあとにもう1回、同じ行に入ったけれど、行で得たものを別の仕事に生かしていってもいいと思う。いままでは山を歩いていたけれど、そのときの気迫や気持ちを次のステップに生かすということだ。学問に振り向けて本を書いてもいいし、別の職業に就いてもいい。

今日の自分は今日でおしまい。明日の自分は今日の自分とは違うんだ。回峰行のときも、気温や湿度は毎日違うし、自分の体調とか細かいことをいえばずいぶん違う。だから「1日が一生だ」と僕はいうんだけれど、どんなときも1日1日を真剣に生きていくしかないんだよ。

商いだってそうでしょう。今日1万円売れたからといって明日も1万円売れるかというと、わからないよね。1万円以上売れるかもしれないし、9000円で終わるかもしれないんだ。

それと同じように、人間なんて歩いているときも、今日の気持ちが明日に通じるわけじゃない。だからその日その日は、1歩ずつ1歩ずつ、違っていかなきゃならないんだ。

僕なんか日吉大社のところをずうっと歩いていくんだけど、たとえば春先になれば1日1日、雪が解けていって暖かくなるし、桜のつぼみが見えたなあと思うと、2、3日して膨らんでいるのがわかるんだ。そのうち1輪がぱっと咲いて、気がつくと一面の桜になるわけだ。