どうやって信長のもとで出世したのか

秀吉が信長に取り立てられた際の逸話としてあまりに有名なのが、いわゆる「草履取り」のエピソードです。実際、秀吉が信長に気に入られるまでにはさまざまな紆余曲折があったのでしょうが、それを「草履を懐で温めて信長を喜ばせた」という物話にギュッと凝縮させているのだと考えます。

本当のところはどうだったかというと、おそらくいつの間にか織田家中に入り込み、如才なく仕事をこなして出世したと思われます。

「武辺をば今日せず明日と思ひなば、人におくれて恥の鼻あき(明日こそ功名を立てる、そうした考えでは人に後れをとり、人の鼻を明かすどころか恥の上塗りになってしまう。好機は今ここで掴みとれ)」という秀吉の言葉も伝わるくらいですから、仕事は早く、抜群に出来たのでしょう。

信長には古くからの譜代家臣が少なく、実力があれば新参者でも抜擢され、出世しやすい環境でした。同じく謎の出自から出世した織田家臣として滝川一益、明智光秀などもおり、秀吉の出世も不自然ではなかったのです。宿老が主君の脇をガッチリと固める武田氏なら、(信玄に見初められない限り)重臣の列に加わるのは難しかったでしょう。

人には言えない秘密の仕事

秀吉が信長に仕えたあと、どのような仕事をこなして出世したのかについても謎に満ちています。

有名な話としては、清須城の塀の修繕を3日で完遂させたとか、墨俣城を一夜で築いたというエピソードがありますが、これらも本当にあった話かどうかは定かでありません。

とはいえ、秀吉が短期間で出世したのは紛れもない事実です。「戦国時代あるある」として、信玄家臣の高坂弾正昌信のように主君の“お気に入り”で出世する例はありますが、秀吉はそういうタイプではありません。墨俣一夜城に匹敵する手柄や功績を挙げているはずですが、それははたしてどんな仕事だったのか――。

おそらく後年栄達した後も周囲には語りたくない働き、例えば、敵方を内部で対立させ、組織を切り崩す調略やスパイ工作活動、あるいはそれ以上の“裏の汚れ仕事”で信長の期待に応え、するすると出世していったのかもしれません。

稲葉山城を落とすために行った西美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)の調略も秀吉の仕事だったとされます。