2人で開いた理容店が木っ端みじんに…
夫、二郎さんの戦死公報が栃木の実家に届いたのは、昭和28年3月のことだった。言うまでもなく終戦は昭和20年8月15日だが、不思議なことに、二郎さんの戦死は昭和20年の8月19日、つまり終戦の4日後になっていた。場所は中国の吉林省。戦死の状況は一切わからないし、遺骨も返ってはこなかった。
シツイさんとふたりの子どもは、奇跡的に無事だった。奇跡的というのは、昭和19年12月27日、シツイさんが疎開の相談のために子どもを連れて栃木の実家を訪ねていたその日の晩に、下落合の「ヒカリ理容店」を500キロ爆弾が直撃したからである。店は木っ端みじんに吹き飛んでしまった。
「お父さんが、店の畳の下に防空壕を掘ってくれたんだけど、あの中に入っていたら、親子3人、蒸し焼きになっていたでしょうね」
終戦から戦死公報が届くまでの8年の間、シツイさん親子は二郎さんの帰りをひたすら待ち続けていた。
「うちの横に細い道が通っているんだけど、夜、人の足音がすると、『あっ、お父さんかな』って言ってね、3人でずっと待っていたんです」
焼け跡から拾った鏡で臨時の床屋を開業
ヒカリはすっかり焼けてしまったが、シツイさんには理容師という職があった。先述したとおり谷川地区はたばこの産地であり、農家はそれぞれたばこの乾燥場を持っていた。シツイさんは、ヒカリの焼け跡から拾ってきた割れた鏡を乾燥場にぶら下げて、臨時の床屋を開業したのである。
「東京で床屋をやっていた人が戻ってきたっていうんで、ぽつりぽつりとお客さんが来るようになりました。お寺に疎開していた学童のところに出張に行って頭を刈ることもありました」
やがて、シツイさん持ち前の明るさが子どもたちの間で人気になり、小学校で学芸会や運動会があると、大勢の子どもたちが押しかけるようになった。
しかし、近所には別の床屋があり、しかも、シツイさんは疎開のどさくさで免許を紛失していたこともあって、さんざんな悪口を言われる羽目になってしまった。
「東下りだとか、もぐりの床屋だとか、乾燥場床屋とかね……」
しかも、客のほとんどが農家だったから、散髪代の代わりに米や野菜を持ってくる。開業資金は一向にたまらなかった。