離婚と再婚

同じ年の8月、夫は「子どもに会いたい」と言って、夏季休暇を取って日本に来た。日向さんの実家近くのウィークリーマンションを借りて、時々そこに日向さんや子どもたちを呼んだ。夫がはるばる日本に来てくれたことが嬉しかった日向さんはすっかり機嫌を直し、「私の実家に泊まればいいのに」と言ってしまったほどだ。だが、夫はそれを丁重に断った。

「今なら分かります。夫は私たちが来ていない時間には、ウィークリーマンションに“みほ”を呼んでいたのでしょう」

夫の誕生日。日向さんは午前中から夫と子どもたちと過ごし、ランチ後に「ケーキを食べよう」と言ったが、夫は首を振った。かつて夫は自分の誕生日にケーキを食べることを楽しみにしていたため、日向さんは疑問を持つ。しかし子どもたちの世話に追われ、忘れてしまった。

夫は、その日の夜「東京のホテルに一泊してからアメリカに戻る」と言っていた。日向さんは夫と実家近くのJRの駅で別れた。

夜、子どもたちを寝かせた後、一人になった途端、日向さんは胸騒ぎに襲われた。夫が泊まると言っていた都内のホテルに電話をすると、「そのお客様は泊まっておりません」と言われた。冷たい汗が流れた。「あの後、女と会うから私たちとケーキを食べなかったんだ」。胸が締め付けられる思いだった。

次の瞬間、もしかしたらと、隣の同じ系列のホテルにも電話をかけてみた。すると信じられないことに、「○○様はダブルの×××号室にお泊まりです」と詳細に教えてくれた。日向さんは、「個人情報の扱いが緩いホテルだ」と思いつつも、動悸どうきが激しくなった。夫が一緒にいるのは、あの大病院の娘“みほ”に違いない。そう確信した。

ルームナンバー235のプレート
写真=iStock.com/JaysonPhotography
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時計は22時を回っていた。日向さんは実家の自分の部屋の隣にいた弟に声をかけた。「夫が東京で不倫している。お願いだから車で連れていってほしい!」。弟は「行ってもつらくなるだけだから行かない方が良い」と止めたが、日向さんは聞かなかった。

子どもたちを母親に預け、日向さんは数時間かけて弟と東京に辿り着き、×××号室の前に立っていた。コンコン、コンコン。いくらドアをノックし声をかけても、2人は出てこない。仕方がないので扉の前で「みほさん、出てこないようなので、お母さんに電話しますね」と言って、携帯電話で“みほ”の母親に電話した。すると深夜0時を回っているにもかかわらず母親は電話に出て、「すぐに行きます」と言い、すぐ切れた。

1時間ほど経った頃、“みほ”の前に現れた50代と見られる母親。深夜なのにエルメスのケリーバッグを持ち、金色のロレックスをし、シンプルな膝丈の上等なワンピースを着て、肩にかかる髪は上品にカールされていた。

母親は、「みほちゃん開けなさい」と強い口調で言った。いつしか集まっていたホテルの警備員は日向さんに耳打ちした。「手を出したら負けです。我慢してください」。ホテルではよくある光景なのだろうか。

瞬間、ドアが開いた。途端、母親が突入する。母親は“みほ”に平手打ちをし、娘の腕を強く握り、「連れて帰ります!」と引っ張った。すかさず、「それで済むわけないでしょう? ちゃんと説明してください」と同行した弟が言う。するとそれまで一言も言葉を発さなかった“みほ”の父親が、「うちに来てください」と言った。

外は夜が明け始めていた。都内の“みほ”の家は広大な敷地だった。日向さんは離れの応接間に通され、冷たい麦茶を差し出された。“みほ”は下を向きながら謝罪すると、あとは黙り込み、母親は「後は顧問弁護士に任せるので、お引取りください」と言った。

あやうく愛人と同じ名前を付けられるところだった娘が2歳になる直前、日向さんは夫に自分の分は記入済の離婚届を渡し、“みほ”に対しては慰謝料を請求した。

ところが、この後、信じられない展開となる。“みほ”の弁護士が提示した和解金は80万円だったのだが、日向さんは、それを一切受け取らなかったのだ。

実は、“みほ”との関係を強制終了させられた途端、夫は「あなたを愛している、家族が恋しい」と執拗しつようにメールを送ってきた。腸が煮えくり返っていたはずの日向さんだが、元夫の薄っぺらいメール文を信じ、復縁の申し出を受け入れたのだった。大学時代、浮気された彼氏時代の夫に別れを告げたものの、バラの花束を贈られて元のサヤに収まったのと同じようなプロセスだった。

「この頃、私は1人で2人の子どもを育てていくことに疲弊して、食事も満足にとれず、精神を病んでしまっていました。私には、幼い子どもたちを1人で育てるのは無理でした。今思うと、感情のままに生きるばかな私でした……」

日向さんは娘が3歳になる直前、再び正式に夫と結婚。日向さんの父親は何も言わず、弟は反対したが、母親はほっとしていた。その後、夫は娘の幼稚園の入園式から大学の入学式までのすべての式典に出席した。