織田信長の妹であるお市の方とは、どんな女性だったのか。歴史学者の黒田基樹さんは「とても美しい人だったことは間違いない。しかし、最初の夫である浅井長政と死別した後、秀吉と柴田勝家がお市の方を取り合った、というエピソードは史実ではないようだ」という――。

※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

浅井長政夫人(お市の方)の肖像画
浅井長政夫人(お市の方)の肖像画(「浅井長政夫人像」)(画像=高野山持明院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「清須会議」で柴田勝家との再婚が決定

お市の方は、天正元年(一五七三)の浅井家滅亡ののちは、浅井長政後室として、実家の織田家の庇護をうけ続けていた。それは本能寺の変まで、ほぼ十年にわたるものであった。

その間に、お市の方が兄信長の命によって、他者に再嫁することはなかった。理由はわからないが、すでに三十歳をすぎていたから、よほどのことがない限りは、再婚が考えられることはなくなっていたのだろうと思われる。

ところが、本能寺の変後の「清須会議」による、新たな織田体制の構築にあたって、家老筆頭の柴田勝家に再嫁することになった。ではどうしてそのようなことが考えられることになったのであろうか。

秀吉もお市の方と再婚したがっていた?

お市の方がどうして勝家と結婚することになったのか、その理由を示してくれる当時の史料は一つも存在していない。これについてこれまで、羽柴秀吉がお市の方との再婚を要望していたとか、柴田勝家がお市の方との再婚を要望していて、「清須会議」後の織田家での主導権確保を狙う織田信孝と柴田勝家による画策である、といったことが取り上げられている。

この話は現在、ドラマや小説でも必ず取り上げられるエピソードといえるであろう。しかもこれは決してドラマや小説での創作ではなかった。元になる話が存在している。ただしそれは当時の史料によるのではなく、江戸時代前期後半に成立した史料にみえているものになる。

その一つは、「村井重頼覚書」である(『大日本史料十一編一冊』八二五〜六頁)。これは織田家有力家臣であった前田利家の晩年の近臣で、利家の家老・村井長頼(一五四三〜一六〇五)の子であった村井重頼(一五八二〜一六四四)による覚書とされている。

成立年代は判明していないが、その晩年におけるものとみられている。作者の村井重頼は、天正十年の生まれであるから、その時期についての内容は、後年に誰かから伝えられたものであることは間違いない。