自分の顔にコンプレックスを抱えていたワケ
本書の6つのテーマの1つである「病」といえば、なんといっても夏目漱石です。
「病気のデパート」と呼ばれるほど、実に多くの病歴があります。
まずは3歳のとき、当時としては致死的なウイルス感染症の痘そう(天然痘)に罹患します。これは発熱とともに全身に発疹ができる病気で、致死率が極めて高く、たとえ死を免れて治ったとしても、顔面に発疹の跡が残ります。
「あばたもえくぼ」ということわざがありますが、これは本来「好きになれば、天然痘の発疹跡が残った醜いあばたさえ、かわいらしいえくぼに見える」という意味です。
漱石の顔には発疹跡のくぼみが残ってしまいましたが、これがコンプレックスとなり、ロンドン留学中に神経衰弱になった一因とされています。漱石は、できるだけあばたが目立たないように、写真を修正したこともありました。
作品に投影されたさまざまな心身の病巣
また、17歳のときには虫垂炎(俗称・盲腸)、20歳のときにはトラホーム(伝染性の結膜炎)、中年以降には胃潰瘍や痔、糖尿病を患っています。神経質でストレス耐性が低い漱石の性格は、こうした病歴によって助長されたともいえるでしょう。
糖尿病になった漱石は、インスリンや経口薬が開発されていなかった当時、「厳重食」と呼ばれた最新の食事療法、いわば近年認知度が高まった「糖質制限食」をとり入れたのですが、ストレスからくる過食傾向もありました。
特に甘いものを好み、ジャムをそのまま舐めることもあったそうです。こうした食生活が糖尿病に悪影響を及ぼしたことでしょう。
漱石が43歳の夏の日、胃潰瘍が悪化して多量の吐血をして、30分ほど意識を失い、死の淵をさまよったこともあります。
胃潰瘍による大量出血で49歳の若さで亡くなるまで、さまざまに抱えた心身の病巣が、漱石の作品にどんどん投影されていきました。
人生の節目節目で「病」に振り回される
漱石は慶応3(1867)年生まれで、明治の年号と満年齢が重なります。慶応4年が明治元年となり、このとき漱石の年齢は1歳。明治2年に2歳、明治3年に3歳……というように、まさに明治時代とともに成長したわけです。
漱石の人生は、幼いころから波瀾に満ちていました。
そもそも漱石は、生まれてすぐに養子に出されます。ところが、養父母の間で問題が起こり、9歳のとき、また夏目家に引きとられることになります。どこにも居場所がないなかで幼少期を過ごしたのが、漱石なのです。
その後、帝国大学英文科に進学しますが、23歳のときにコレラ(細菌性の感染症)が大流行。漱石自身はコレラの罹患を免れたのですが、前述のように20歳のときにトラホーム(伝染性の結膜炎)にかかっています。
初恋の相手は、24歳のときに通院していた眼科の待合室でひと目惚れした女性でした。
とにかく人生の節目節目において、「病」が漱石を振り回します。
座禅で精神を鎮めようとするも挫折、留学で神経衰弱が悪化肉体的な病が重なったことに加え、幼少期の精神的な負担の影響もあって、漱石には心理的なストレスが積み重なるようになります。
大学を卒業してから士官学校で英語の嘱託教師になりますが、この仕事がかなり厳しく、精神的に追い詰められたこともありました。
そのため、漱石は鎌倉・円覚寺で座禅を組むなど、自らの精神を鎮めようとしますが、結局のところ解決策は見つかりません。この体験は、漱石の神経衰弱や精神的な苦しみと結びついており、著作における本質的なテーマになります。
英語教師となるも生徒から反発される
32歳のときにはロンドンへ留学しますが、当時は黄色人種に対する人種差別が厳しく、漱石自身、外出することを嫌がりました。
また、留学費の不足や孤独感から、神経衰弱はますます悪化してしまいます。「夏目漱石がロンドンで発狂した」という噂まで広まったくらいです。
結局、2年の留学期間を終え、ようやく日本に戻ります。ところが、漱石のトラブルはまだまだ終わらなかったのです。
帰国後、漱石は明治政府の西洋学問の推進にともない、英語の嘱託教師として、第一高等学校(現・東京大学教養学部)で教壇に立つことになりました。
この仕事自体はよかったのですが、問題は前任の英語の先生のほうが、人気があったということです。
漱石の前任者は、ラフカディオ・ハーンという人物。帰化して日本人女性・小泉節子と結婚し、「小泉八雲」と名乗るようになった明治の文豪です。
アイルランド、フランス、アメリカ、西インド諸島、日本と放浪を続けた経験の豊かさと話のうまさが相まって、生徒たちの興味・関心を巧みに引き込んだのです。
それに対して漱石は文法や訳文に重点を置き、元来神経質なところも相まって生徒たちの人気は高まりませんでした。
結果として、生徒たちに人気のあったハーン先生が解雇され、人気のない漱石が新しい英語の先生になることに反発した生徒たちが、「前の先生のほうがよかった」と授業をボイコットしたのです。
漱石は、その反発を突っぱねて、生徒たちを厳しく指導しましたが、精神的に悪影響を及ぼしたことは想像に難くないでしょう。
しかし、漱石の悲劇はまだまだ終わりません。
叱った生徒の投身自殺で本格的な神経症に
漱石が教えていた生徒のなかに、藤村操という生徒がいました。成績優秀で、中学校を飛び級で進学。普通は18〜20歳で入学するところ、16歳で第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入った秀才です。
あるとき、漱石の英語の授業に出席していた藤村に、漱石が訳文の課題を出しました。
ところが、藤村は不遜な態度で「やってきませんでした」と言い放ちます。漱石は驚きましたが、怒りを抑えて「なぜやってこなかったのか」と尋ねました。すると藤村は「やりたくないからやってこなかった」と反発したのです。
漱石は怒りを感じましたが、冷静に「次回までにやってくるように」と注意するにとどめました。しかし、次の授業でも藤村は、同じように「やってきませんでした」と反発してくるではありませんか。
2度目ということで、さすがに癇癪を起こした漱石は、「勉強したくないなら、もう教室に出てこなくていい」と、藤村を叱りつけました。
これで済めばよかったのですが、なんとその数日後、16歳の藤村は栃木・日光の名瀑、華厳滝に投身自殺をしてしまうのです。
藤村は「巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる楽観に一致する」などと哲学的な問答を書いた遺書を残しました。
これは世間でも大きなニュースになり、新聞などでも報じられます。この話は、当時「煩悶青年」という流行語まで生み、もだえ苦しむことを哲学的な自殺ととらえる議論も盛んになったのです。
胃潰瘍、痔、リウマチ、糖尿病とさんざんな晩年
さて、「自分は生徒を叱っただけ、自殺は彼自身の問題だ」などと、わり切って考えられる漱石ではありません。自分が藤村を叱ったことが原因だと気に病んでしまいます。
その後、教壇に立つなり、最前列の生徒に「藤村はどうして死んだんだい」と尋ねるなど、神経衰弱を抱えていた漱石の心に、また新たなストレスがのしかかります。
小説家として活動してからも、胃潰瘍、痔、リウマチ、糖尿病などさまざまな病気に悩まされ、ついに胃潰瘍で血を吐いてしまいます。
療養や入退院を繰り返し、それでもまた小説を書き始めるのですが、そうすると、今度は胃潰瘍が再発してしまう。それから、痔の手術もしなければならなくなるという、さんざんなあり様です。
胃潰瘍は毎年のように再発し、最終的にはリウマチの治療もあって療養していた神奈川・湯河原で倒れ、さらに糖尿病も悪化し、さらにさらに胃潰瘍がどんどん悪化。もはや、何が原因かわからないくらい病に侵され、49歳で亡くなってしまいます。
明治以降の国民の病気を一身に背負う
漱石は「新しい日本語」をつくり上げ、明治を牽引してきた作家です。
明治の日本は、西洋の文明、文化の影響を受け、古いものを壊していき、新しいものをつくり上げるという作業を繰り返しました。それ自体が、日本人という民族にとって、非常にストレスだったわけです。
明治維新で西洋列強の植民地になることからは逃れられたものの、それでも、なんとかして西洋に追いつかなければならない。だから、古いものはどんどん捨て、近代化しなくてはならない。
そうやって日本の国民たちは、ものすごく無理をしてきました。その国民的ストレスを、近代文学の第一人者たる漱石は、個人のストレスのように引き受けてしまった。
国民の病気を一身に背負ったと言っていいかもしれません。巨大なストレスを背負い、闘い続けた漱石の作品は、仕事でつらい思いをしているビジネスパーソンにもぜひ読んでもらいたいと思います。