現在、約100万人が高齢者向けの介護施設に入居している。東京大学名誉教授の黒木登志夫さんは「認知症で高齢者ホームに入った私の妻は、施設内で転倒し再骨折、大出血した。介護施設が安全な場所とは言えないことを痛感した」という――。(第3回)

※本稿は、黒木登志夫『死ぬということ』(中公新書)の一部を再編集したものです。

シニア女性と介護士
写真=iStock.com/byryo
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高齢者の骨折は、ときに命に関わる重大な「合併症」

高齢になると、筋肉が落ち、骨はもろくなる。特に骨粗しょう症になりやすい女性にとって、骨折は生活の質(ときには命)に大きく影響する重大な「合併症」である。そのことはよく知っていたが、骨折、それも信じられないような重症の骨折が一番の身内に起こるなど予想もできなかった。

私の妻は、コロナ禍と時を同じくして、タウ・オ・パチーという進行の遅い認知症になった。記憶力に問題はあったものの、それなりに2人で平和に暮らしていた。高校生の頃はソフトボールの選手であったし、骨太の体格でリズム感もよい彼女が骨折するなど、家族はあまり考えていなかった。

彼女が、91歳のとき、タクシーに乗る際、縁石につまずいて転び、大腿骨頸頭部を骨折した。メタルの骨頭で置き換える手術を受け、さらにリハビリ病院でリハビリを受けた。まだ車椅子が必要な状態で、全国展開をしているBの介護付き高齢者ホーム、その中でも一番立派なAに入所し、介護を受けながらリハビリを続け、ようやく車椅子を卒業することができたところであった。これで安心と思った。

大事故、大出血なのに8時間も救急車を呼ばずに放置された

ところが、夜間に起きて転倒し、同じ骨折部をまた骨折したのである。今度は最初の骨折以上に重症であった。骨折直後の2日間は意識がなく、私は最期を覚悟したほどであった。4単位(800cc)の輸血をしてようやく意識が戻った。そんな重症なのに、介護施設は8時間も放置した。

退院の4日前にレントゲンを撮ったところ、骨折部位がさらに広がり、大腿は「く」の字に折れ、骨端は皮膚を突き破りかねない状態にまでなっていた。写真を見た私はあまりのひどさに驚いた。対応方法については整形外科のなかでも、手術か温存かで意見が分かれたという。さまざまな要因を考慮し検討した結果、幸い痛みもなく、本人も落ち着いているので、侵襲の高い手術ではなく、そのまま装具で保護し、車椅子で生活することになった。

今回の事件で、高齢者ホームは、決して安全、安心の場所ではないことを、骨身に沁みて知ることとなった。どんなに見かけが立派であっても、安全という点では大きな問題があるのだ。第一に夜間の救急対応ができていない。

施設の夜間担当者のトレーニング不足があったのでは

大事故、大出血であったのに8時間も救急車を呼ばずに放置されたのは、夜間担当者のトレーニング不足と危機意識の欠如のためである(介護施設にマニュアルの開示を求めたが応じてくれなかった)。第二に、入所者にとってもっとも大事な安全対策を「身体拘束」として徹底して排除しているからである。介護老人福祉施設基準第11条第4項に次のように記載されている。

「……身体的拘束その他入所者の行動を制限する『身体的拘束等』を行ってはならず……」

私と長女(医師)は、入所前に、繰り返して安全対策について施設に質問し、対策を依頼した。ベッドの脇に勝手に下りられないよう、病院と同じ保護柵をおくこと、夜間ベッドから下りたときに分かるように、センサー付きのシートをベッドの下に置くよう頼んだが、聞いてもらえなかった。24時間見守りするのでご安心下さいという説明だけであった。上記の施設基準には、「生命又は身体を保護するため緊急やむを得ない場合を除き」と付記されているのに、その手続きを取ろうとしてくれなかった。

「身体拘束」はベッドだけではない。車椅子の安全のためのシートベルト、衣服を勝手に脱ぐのを防止する介護衣、点滴を抜くのを防ぐミトンの着用など、すべて「身体拘束」として禁じられている。

介護施設のベッドで眠る男性
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安全のための「拘束」が必要なケースもある

私は、若い頃、精神科病院で当直をしていたことがあったが、その頃の「身体拘束」は確かにひどいものであった。しかし、上に述べたような措置は、「拘束」と言うより「安全策」である。車のシートベルトは疑いなく「身体拘束」であるが、もっとも有効な「安全策」として、法律で着用が義務化されている。

私の妻のような悲劇を二度と起こさないためにも、上記の施設基準は次のように書き改めるべきである。

「入所者の安全のために必要な場合は、医療関係者(医師、看護師、介護士など)の了承と入所者および家族の了解の下に、行動制限を含む必要な安全策を講ずることが出来る。」

現在、妻はそれほど立派ではないが、安全対策を取ってくれる施設に入っている。今回の事故で、高齢者ホームはホームページの立派さなどの見かけで選ぶものではないことが分かった。どこまで、入所者の安全を考えてくれるかが大事なのだ。

女性の8人に1人、男性の22人に1人が骨折

介護施設が少なくとも高齢者の転倒と骨折に関して安全でないことは、鈴川芽久美らによる通所介護施設利用者の大規模調査によって明らかになっている。8335人を調べた結果、1年間の転倒率は25.3%。男女間では、転倒率はほとんど差がなかったが、骨折率は男性4.5%に対して、女性12.2%、女性の方が2.5倍も高かった。

介護度では、ある程度動けるような要介護度3から4がもっとも多かった。入所者の4人に1人が1年に1回転倒し、女性の8人に1人、男性の22人に1人が毎年骨折しているのだ。介護施設こそ転倒、骨折対策を真剣に考えねばならない。「拘束」しないという「除外的な対策」から、安全策を取り入れる「前向きな対策」に変更すべく、介護関係者は厚労省に声を上げてほしい。厚労省も誠実に対応してほしい。

高齢者の病院・施設では向精神薬が大量に使われている

さらに、今回の「事件」で分かったのは、高齢者の病院、施設では、向精神薬が安易にしかも大量に使われていることであった。妻がリハビリ中に意識がもうろうとしていることが多いため、投薬を確認したところ、精神科医が驚くような量の向精神薬(クエチアピン)を朝昼晩のまされていた。これは、目に見えない「拘束」ではなかろうか。

転倒の多くは朝方に家の中で起きる

イメージとしては、骨折は外で転んだときに起こると思うであろう。ところが、東京消防庁の救急車の「高齢者の事故」記録によると、普段住んでいるところが60%を占め、道路、交通施設は31%であった。

日本の救急車(東京消防庁)
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家の中で転ぶ場所は、居室・寝室がもっとも多く76%であった。辻一郎によると、転倒する時間は、意外にも疲れが溜まっている午後ではなく、早朝の3時から増えはじめ、午前6時にピークになるという。

ここで見えてくるのは高齢者が朝早くトイレに行くときに、床に置かれていた物に引っかかり転倒する姿である。床の物を片付けることが、転倒防止にとって重要であることが分かる(と書いて、机の周りを見たら、本と書類が山積みであった。今晩寝る前には片付けよう)。

介護の充実は、国にとって大きなメリットになるはず

2000年に導入された介護保険はわが国の介護に大きな貢献をした。被介護者の生活の場として、特養、老健、高齢者ホームのような施設を作った。デイサービスのように、自宅生活をしていても介護サービスが受け入れられるようにした。自宅のバリアフリー化にも補助が出るようになった。自宅介護と看取りも保険が助けてくれる。介護の司令塔としてのケア・マネジャーの役割も大きい。介護保険の財政問題を云々する人は、介護保険による医療費の節減を評価すべきである。

黒木登志夫『死ぬということ』(中公新書)
黒木登志夫『死ぬということ』(中公新書)

介護保険は、40歳以上の国民に義務化されている保険である。その基本的な考え方は介護を社会の問題として捉えたことである。ともすると、儒教による家族観の下に、介護は家族がするもの、妻、嫁、娘の義務のように考える人がいた。それが日本の美徳であるかのように発言した政治家もいた。有吉佐和子でさえ、『恍惚の人』の介護を嫁の昭子に任せっぱなしにし、商社勤めの夫の信利には介護させなかった。

残念ながら、介護保険ができて20年以上経つのに、そのような古い考えはまだ残っている。介護休暇、介護離職は、やむを得ない事情があるにしても、本来であれば、介護保険がカバーすべき問題である。介護の充実は、国にとって大きなメリットになるはずである。働き手不足の解消にもつながる。

介護保険法は3年ごとに見直すことになっている。見直しが、財政だけを考えた改悪にならないよう、介護法を介護していこう。