※本稿は、木村朗子『紫式部と男たち』(文春新書)の一部を再編集したものです。
和泉式部と彼女を雇った道長は男女の仲だったか
和泉式部が道長と恋人関係にある召人である気配は濃厚である。道長は彰子の父なのだから彰子サロンの女房たちと近いところにいて、しかも道長の采配で女房たちが雇われていたとすれば道長に気にいられる必要があった。中宮彰子サロンで花開いた文芸の才能というのは、和歌でいえば当意即妙なやりとりといったことも含んでいたわけだから、男女の仲らいと密接に関係することでもあった。
数々の浮き名を流し、恋歌の名手であった和泉式部に道長が興味を惹かれたとしても決して不思議ではない。和泉式部は、公の歌会にも招かれその才能を発揮していたことが『栄花物語』からもわかる。
巻第13「ゆふしで」では、寛仁2(1018)年正月に彰子の産んだ後一条天皇が元服の祝いの品として絵にともなう和歌を寄せた屏風がつくられたことが書かれている。ここに道長の和歌とともに和泉式部の歌が選ばれている。
道長に「あなたを想っている」という歌を送った和泉式部
道長と近い関係にあったことは『和泉式部集』472番歌に道長が「尼になるといっていたけどどうしたの?」といってきたので送った歌というのが載ることからわかる。
海人舟にのるのをためらっている、与謝の海に生えているだろう海藻は、という歌。「海人」に「尼」が、海藻を意味する「海松布」と君を「見る目」がかけられていて、あなたを思って尼になるのをためらっているという意味になる。
『和泉式部続集』953番歌には別に「なほ尼にやなりなまし、と思ひ立つにも」と詞書がついた次の歌がある。
出家してこの世を捨ててしまおうと思うだけで悲しくなる、あなたに馴染んだ我が身なのだと思うと、という歌。この歌は、和泉式部が(恋愛関係だった)敦道親王の死後に挽歌つまり追悼歌として詠んだ歌とされているが、「なほ尼にやなりなまし」の「なほ」がそれでもなお、という意味だとすると、「尼になるといっていたけど、どうしたの?」と問いかけてきた人へのさらなる返答にもみえる。すると「君に馴れにし我が身」の「君」は敦道親王ではなくて、問いかけてきた道長ではないかという気もしてくる。
『和泉式部日記』では道長の歌に直接に返歌したという記述も
『栄花物語』巻第15「うたがひ」の巻で道長は出家する。寛仁3(1019)年3月21日のことだった。出家した道長は四月の夏衣への衣更えに彰子をはじめ宮たちに衣装を送ってきた。彰子宛ての唐の衣に添えられた歌。
唐衣に着替えてください。私は出家者として春の色、華美な色を断つ身となっていますが、という歌。彰子の返歌。
このように世の中変わってしまった春に、どうして花の色を楽しめましょう、という歌である。道長が出家してしまうという世の寂寥感に花の色のあでやかさは似合わない。道長の歌を聞いて、いてもたってもいられなくなったのだろうか、和泉式部は彰子に歌をおくっている。
君が断った衣の色だと思うと、春の色の衣を脱ぎ替えるのは悲しい、という歌。つづいて大宮の宣旨とよばれる彰子付きの女房の次の返歌が続く。
道長が出家してしまってすっかり変わってしまった浮世/憂き世では夏衣の袖に涙がとまらないのだという歌。
和泉式部が彰子に歌を送り、それに対して彰子の女房が返歌してきたわけだが、『和泉式部続集』では彰子の歌が省かれて、道長の歌に和泉式部が直接に返歌したかたちになっている。実際に和泉式部の歌は、「君がたちける衣」と詠んでいて、「君」たる道長に応えているのである。
紫式部が道長をめぐって和泉式部と三角関係だった可能性
道長は紫式部と恋人関係にあったという説がある。それもまた召人の女房という意味になる。『紫式部日記』で、和泉式部をけしからん人だと言ったのは、道長との関係のことをさしていたということはないだろうか。
和泉式部と彰子との関係も良好で、和泉式部の娘、小式部内侍が亡くなったときには彰子は和泉式部に文を送ったらしい。和泉式部がそれに応えて彰子に送った歌。
そこにあると見ていた露がはかなく消えるように、はかなくなった人を何にたとえればよいのでしょう、という歌である。彰子の返歌。
袖においた露の形見として、互いに涙で袖をぬらすことになろうとは思いもしなかったという歌。かたみには「形見」とお互いにという意味の「かたみ」がかけられている。袖が濡れるのは泣いているからである。小式部内侍も女房出仕しており彰子もよく知る人だった。
彰子サロンのムードメイカーは和泉式部だったのか
和歌のやりとりをみる限り、和泉式部は彰子サロンの中核にどっしりと根をおろしているようにみえる。定子サロンにおける清少納言に匹敵する彰子サロンのムードメイカーは和泉式部だったのかもしれないと思えてくる。それを紫式部はどうみていたのだろう。『和泉式部集』には清少納言や赤染衛門とのやりとりは載るのに、紫式部と交わした歌はみえない。
藤原道長の政界での立場は、その父兼家に比べて順風満帆だった。一度たりとも政界から排斥されることはなく、娘の中宮彰子は無事に次代の天皇を産んだし、女院として政界に長く君臨し続けた。
道長にとって最大の難関は、定子出生の第一皇子ではなく彰子出生の第二皇子を即位させるときではなかったか。とはいえ、すでに道隆も定子も亡きあとなのだから政敵がいるわけではない。しかし誰もがその判断に納得できる裏付けが必要だったろう。その意味で彰子サロンがどこよりも知的で華やいでいなければならなかった。
中宮定子のサロンに対抗して娘彰子のサロンを盛り立てる必要があり、一般に清少納言と紫式部とが対立していたかのように想像されるけれども、実際には定子サロンは彰子が入内して1年余りで定子の死によって閉じられてしまうのだった。その意味では、失われた定子サロンのはなやいだ楽しさの幻影にこそ対抗しなければならなかったのである。
定子サロンのはなやかさの幻影を象徴した清少納言
邸に仕える女房たちというのは、主人が存命中であってもより条件のいいところへと鞍替えすることもあれば、主人が亡くなって別の主人のもとへと出向くこともあった。長く生活をともにした主人が出家したのにともなって出家することはあっても、まったく思いがけず主人が亡くなったとなれば次の出仕先を探すのがふつうだろう。清少納言が定子亡き後、どうしていたのか気になるところだ。
現在の『源氏物語』の本文を整理した歌人の藤原定家が加わって編纂された『新古今和歌集』には紫式部、赤染衛門、和泉式部らの歌がいくつも採られている。『新古今和歌集』1580番の赤染衛門の歌は清少納言に送られているのである。
清少納言の父、元輔が住んでいた邸に清少納言が住んでいるころ、大雪となって垣根が倒壊し、中まで見通せるようになってしまったというので送った見舞いの歌。彰子サロンにいた赤染衛門は清少納言と交流があったわけである。
そもそも定子の父道隆と彰子の父道長は兄弟なのだし、ごく近いところにいたわけだから親交があったとしても不思議ない。
和泉式部は赤染衛門や清少納言と交流したが、紫式部とは…
『新古今和歌集』1820番には、赤染衛門が和泉式部と親しく交わした贈答歌も載る。これはなかなか面白くて、和泉式部のもとに元夫の橘道貞が通ってこなくなって、ほどなく敦道親王を通わせるようになったと聞いた赤染衛門が、それはあんまりだと思って送った歌。
別れた男をめぐって歌のやり取りをしているとは赤染衛門と和泉式部は遠慮なくものを言いあえる間柄で、相当に仲が良かったのだろう。
それとも和泉式部がわりと誰にでも親しげに接する人だったのだろうか。和泉式部は清少納言ともやりとりをしているのである。
そのとき、和泉式部はまだまだ若いとおだてて、時流から流れ去ろうとしている清少納言を引きとめているようにみえる。『紫式部日記』で「されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と言っていた、そのけしからんところというのは、もしかして和泉式部が清少納言を彰子サロンへ引き込もうとしていたことをさしていたのだろうか。いずれにしろ、清少納言は、赤染衛門とも和泉式部とも和歌のやりとりをしていたのであって彰子サロンにいてもおかしくない人だった。