※本稿は、泉房穂『わが恩師 石井紘基が見破った官僚国家 日本の闇』(集英社新書)の一部を再編集したものです。
運命を変えた一冊の本との出会い
二〇代の一時期、私は東京都新宿区の高田馬場に住んでいました。ビルの谷間にある壊れかけのボロアパートで、家賃一万五〇〇〇円。電車と車の音がうるさかったことをよく覚えています。一九八九年、当時の私はテレビ朝日の契約スタッフとして、「朝まで生テレビ!」の制作や、「ニュースステーション」の取材に参加していました。
何冊かの著書でも書きましたが、私は一〇歳のときに、将来明石市長になることを決意しています。そんな私にとって報道の仕事は、あくまで政治を外側から報じるものであり、世の中を直接変えるために、政治の現場で力を発揮することとは違うと思っていました。
当時の私は、「社会を変えたい」という気持ちは誰よりも強かったけれど、「自分にその力はない」という現実に、日々悶々としていました。
ささやかな楽しみは、高田馬場駅前の芳林堂書店での立ち読み。そこで出会った運命の一冊が、石井紘基さんの『つながればパワー 政治改革への私の直言』(創樹社、一九八八年)でした。
誰と誰がつながればパワーになるのか
石井さんは中央大学の自治会委員長を務め、一九六〇年の安保闘争に参加。大学院進学後、冷戦時代のソビエト連邦に留学。モスクワ大学大学院で六年間学んだのち、法哲学の博士号を取得し、帰国後は社会民主連合(社民連)の事務局長を務めました。『つながればパワー』は、無名の政治学徒として下積みを重ねていた石井さんが、国政への立候補を決意して書いた本でした。
『つながればパワー』というタイトルですが、誰と誰がつながればパワーになるのか?
それは、市民と市民です。
一人ひとりの市民がつながり、その力が集まって大きなパワーになれば、社会を変えることができる。市民の力で政治と社会を変えていく。三六年前の段階で、石井さんは時代を先取りする考えを持っていました。
序章の「日本ペレストロイカの提唱」では、当時、崩壊寸前のソ連で行なわれていたペレストロイカ(政治の再編・改革)を引き合いに、「日本では、ペレストロイカは必要がないのか、日本では官僚支配がないのか、一部の特権階層だけが甘い汁を吸っていることはないのか」と、それまで誰も気づかなかった、ソ連と日本の「政治構造の相似性」について、鋭く指摘しています。
「選挙を手伝ってくれないかな?」
当時、私は二五歳で、石井さんは四八歳。悶々としていた二〇代の私からすれば、「つながるパワーで政治を変えたい!」というような青臭いことを、五十手前のいい年をした大人が本気で言っている。無名の立場で、国政にチャレンジしようとしている。単に「当選したい」という理由ではなく、「本当に社会を変えたい」と思い、しかもどこかの有力政党や大きな団体の力を借りず、「市民の力で変える」と真正面から語っている。
こんな人が世の中にいたのか!
この人はすごい。本当に正義が勝つ気でいるんだ。
そう思った私は感動して、「あなたのような方にこそ政治をやってほしい!」と手紙を書きました。
すると、思いがけず石井さんから返事が来たのです。そして喫茶店でいきなり会うことになって、さらにその場で「泉君、会ったばかりの人に言うのもなんだけど、選挙を手伝ってくれないかな?」と言うではありませんか。
「えっ、手伝ってって……お手伝いする人はいっぱいいるでしょう? あなたみたいな立派な方には」
「いや、たまに来るのはいるんだけど、ずっと一緒にいてくれる人はいないんだよ」
「誰もいないんですか?」
「誰もいないんだよ、ひとりなんだ。だから、誰かひとりいてほしいんだけど……君どうかな?」
「わかりました。私があなたを通します!」
初めて会って、ほんの一〇分ほどのことでした。
私はテレビ局の仕事を辞めて、高田馬場のアパートを引き払い、石井さんの事務所の近く、三軒茶屋に引っ越しました。私も石井さんもどうかしていますが、運命が動いた瞬間でした。
石井さんとふたりきりの選挙活動
こうして石井さんとの、選挙に向けた政治活動が始まりました。
朝五時に私が石井さんを起こしに行って、六時から八時過ぎぐらいまで駅頭で演説。石井さんがマイクでしゃべり、私がビラをまく、ふたりきりの活動です。
石井さんの演説は、決して下手なわけではないのですが、正直、朴訥な感じで、人が立ち止まって聞き惚れるというトーンではありませんでした。
「つながればパワー」と言って、「民衆とともに」と鼓舞しているわけですから、もうすこし情熱的な演説をしてほしい。そんな思いが溢れ、「もっと熱を持ってしゃべってくださいよ」と叱咤激励していました。
「石井さんは無名の新人なんですから」「当選する気あるんですか?」。私の辛口コメントに石井さんは「泉君、そんなきついこと言うなよ……」と困った顔をするばかりでした。
でも石井さんは、気持ちの奥には熱いものを持っている方です。彼の民衆への愛は、疑いようもありませんでした。
日米安保闘争とソビエト連邦の話
朝の演説が終わると、喫茶店で一緒にトーストを食べて、夕方からまた演説。日中は、他にすることもないので、石井さんからいろいろな話を聞きました。
石井さんがよく語っていたのは、日本社会党書記長だった江田三郎のこと。そして自分が留学していたソビエト連邦の話です。
一九六〇年の日米安保闘争。国会に突入しようとするデモ隊の中に、中央大学のリーダーだった石井さんと東大のリーダーの江田五月がいて、警官とデモ隊が揉み合う騒乱状態がピークに達しようとしたとき、白髪の国会議員が飛びこんできました。他の議員はみな、安全な場所に逃げたというのに、その議員は「学生を殴るのなら、俺を殴れ」とばかりに警官の前に立ちはだかった。その人が、同志の江田五月の父親で、当時社会党書記長だった江田三郎でした。
年老いた国会議員が、体を張って学生を守ろうとしている。たったひとりで民衆の側に立っている。こんな政治家が日本にもいたのか! 感動した石井さんは政治家を志し、同志である江田五月を介して、江田三郎の秘書になります。
その江田三郎からのちに、「ソ連に行って政治を学んでこい」と言われて、石井さんはソ連に六年間留学することになります。一九六〇年代のソ連は、民衆のための社会主義が行なわれている「理想の国」と喧伝されていました。
「日本は官僚社会主義国家」と喝破した
ところが実際に行ってみると、聞いていた話とまったく違う。
実際のソ連は官僚が支配している独裁国家だったのです。秘密主義で支配層が利益を独占し、国民は事実を知らされずに、貧しい生活を強いられている。
石井さんは本心を隠しながら、逆に「ソ連の政治体制を調べてやろう」という気持ちもあって、ソ連の社会主義を称賛するような博士論文を書いた。でも自分の中では「それは違う」という思いが強まったと言っていました。「夢のソ連」は作り話だったという形で、石井さんは一回、夢破れているわけです。
そして帰国してまた愕然としたことがあります。
それは、「日本もソ連と同じように官僚が支配する国ではないのか?」ということでした。六年間見てきたソ連と重なり合うように、日本の社会も同じ構造をしていることに、石井さんは気づいたのです。日本も民主主義を標榜してはいるが、実際は官僚主導の国家で、一部の支配層のみが利益を得て、大多数の国民は苦しめられている。日本は実際には「官僚社会主義国家」ではないのかと。
悲壮感に満ちた強い責任感
その後も石井さんは一貫して、ソ連同様、官僚が支配する日本社会を、国民の手に取り戻したいと考えていました。その信念と民衆への愛は、死ぬまで変わらなかったと思います。
「弱い者を助け、民衆の側に立つ」「民衆と一緒に政治を変えていく」
私が石井さんに感動したのはそこで、私は会ったことはないのですが、おそらく彼の師である江田三郎も同じものを持っていたと思っています。
そして会った当時から石井さんには、すべてをひとりで抱えこむような、一種の悲壮感に満ちた強い責任感が感じられました。「ああ、この人は本物だろうな」という本能的な感覚です。一緒に活動してきた一年間、毎日行動をともにする中で、私は政治家・石井紘基の薫陶を受けていたように思います。