“株式投資預言者”尾上縫の「行」
大阪ミナミに「恵川」「大黒や」という料亭があった。
経営者の尾上縫はバブルのころ、日曜日になると「行」という奇妙な儀式を開いた。
そこで参加者が特定の銘柄を挙げて株価の見通しをたずねると、陶酔状態の(ふりをしている)尾上が「上がるぞよ」「まだ早いぞよ」などと答えた。これが神がかり的な株式投資予言者として評判を呼び、証券会社の営業マンが手数料欲しさに門前市をなした。その中に興銀大阪支店の行員がいた。
尾上は興銀が発行する割引金融債「ワリコー」を二千五百億円以上購入、そのワリコーを担保に複数の銀行やノンバンクから借り入れをして株式投資に振り向けた。中には興銀株も含まれていたので、尾上縫は興銀の個人筆頭株主となり、当時頭取だった黒沢洋が夫婦で恵川を訪れたりした。
一九九一年八月十三日、三和銀行系の信用金庫である東洋信用金庫が緊急記者会見を開き、「元今里支店長が特定の取引先と共謀し、三千四百二十億円におよぶ架空預金証書を発行していた。特定の取引先はこれを担保にノンバンクなどから融資を受けていた」と発表した。
「特定の取引先」とは尾上のことで、本人も同日、大阪地検に逮捕された。奇しくも山田が悩んだあげく商社への就職を断り、興銀に入ることを決めた時にケチはつき始めた。
「僕は想像のような興銀マンやない」
「担当者は尾上縫が怪しいとわかっていたはずや。でもワリコーをぎょうさん買ってくれるから持ち上げた。そればかりやない。バブルの時の融資を回収するのが本当は難しいのに、当局の検査時に作る資料では『回収可能』と書き、不良債権ではないと嘘をつき続けたわけです。そうした作業に長けている奴が偉くなっていく。その終着点が三行統合発表。もうあかん。これは僕の好きな興銀やない。はよ辞めなと思ったんです」
ちょうどその頃、山田は興銀の本店でサイボウズの社長(当時)の高須賀宣と面会した。サイボウズは二年前の一九九七年に創業したばかりで、当時の本社は大阪。社員は十五人。そんなベンチャーに融資ができないかと考えたから会ったのだが、そこで二人はすっかり意気投合した。
「興銀は嘘をついてばかりで肩身が狭かった。これからはお天道様の下で堂々と歩く人生にしたいと思っとったところにやってきた高須賀さんは『会社は公器で社会貢献のためにある』とか『売上高っていうのは社会への役立ち高なんですよ』とか言ったんです。響きましたね。正直に言えば、統合が発表になって興銀を辞めようと思っていた時に、付き合いがあった上場目前のITベンチャー企業とかからウン千万でどうだとかいう誘いがありました。けどサイボウズがええんやないかと思った」
「僕は嘘をつきません。裏切りません。でも想像しているような興銀マンやない。それでも良いですか?」
山田がそう聞くと高須賀は「構わない」と言った。こうしてサイボウズ入りは決まった。山田は三行統合発表から三カ月しか経っていない一九九九年十二月に退職を申し出て、翌二〇〇〇年一月には荷物をまとめ家族と社宅を出た。
サイボウズの東証マザーズへの上場
サイボウズに入社した山田の最初の仕事は、「ヤメ銀」だったからこそ成し遂げられたと言っても過言ではなかった。
東証マザーズへの上場だ。
上場にあたっては東京証券取引所や主幹事となった野村證券の審査を受けなければならなかったが、山田は興銀時代に事業会社の評価をしていたから、東証や野村が審査に当たってどこを見てくるかがわかった。
「審査の途中で東証や野村が『山田さん、資料に間違いがありますよ』とか言ってくるんです。嘘をついていたら辻褄を合わせなければならないから大変なんですけれど、単純な間違いだから『すんませーん』とか言ってすぐ直しちゃった。嘘つかんとええことあるんやね。当時、身ぎれいな会社を探しとった東証がサイボウズに目を付けて、マザーズ上場からわずか一年半で東証二部(当時)に指定替えになった」
山田はその後も管理業務を一手に引き受けた。財務を見る傍らで、ライバル企業に著作権侵害の動きがあれば弁護士と一緒に裁判所へ駆け込んだ。人手不足が問題になれば、採用活動に精を出した。そうしているうちに社員が増えたので人事評価制度も作った。
日経新聞の全面広告でガバナンス改革
副社長として最後に取り組んだ仕事がサイボウズのガバナンス改革で、これを実施するにあたり二〇二一年二月に社長の青野慶久、取締役の畑慎也と連名で日本経済新聞に出した全面広告は大いに話題となった。
何とも人を食ったような広告だが、実際に二〇二一年三月末、山田と畑は退任、代わりにサイボウズ社内で「我こそは」と手を挙げた十七人が新しい取締役に選任された。その中には二〇二〇年入社の新人、五人の女性、二人の米国在住者もいて社長の青野と共に新しいコーポレートガバナンスを探す旅に出た。
大胆な取締役制度を導入した仕掛け人は山田。きっかけは離職率の高さだったという。
経営陣の仕事とは何か
「何言うとんねんと思うかもしれませんが、僕は若い人たちに『君たちが早くサイボウズを辞められるようになってほしいと思っています』とか言うとるわけです。ところで辞める人は自分の市場価値が分からないと転職なんてできない。社内ばかり見ていたら市場価値は把握できないから外を向きなさいと言っています。あなたの給料を払っているのは人事部なんかやない。世の中やとも言っています」
「そこまで啖呵切っとって、じゃあ経営陣の仕事は何かと言えば、そうやって焚きつけている若い人たちが、それでもサイボウズにいたいという会社にすることでしょ。そんな問題意識があって青野さんと議論したんです。今のヒエラルキーで良いのか、株主との付き合いは今のままで良いのかと。それで思い切って変えてみようかとなった。デジタルトランスフォーメーション(DX)の次はコーポレートトランスフォーメーション(CX)と言われていますけれど、それを実践しているんです」
山田は二〇二一年三月の株主総会で取締役を退任したが、副社長の肩書を残した。二〇二一年九月には副社長からも退き、現在はサイボウズチームワーク総研風土コンサルタントとしてコンサルや企業研修などを手掛ける。サイボウズ入社後に手掛け、磨いてきた内部統制や人事、財務の知見を他社とシェアする試みだ。
「興銀にいたからこそ今がある」
「サイボウズでやってきた改革は、僕が興銀にいたからこそできたんやないかな」。山田はそう語る。確かにマザーズ上場で東証や野村證券と渡り合えたのは興銀で身に付けた実務がものを言ったのだろうが、山田の発言の含意はもう一つある気がする。
百人いれば百通りの働き方があるという主張、透明性のある組織の構築にまい進すること、そして社員には外を向けと発破をかけ、かく言う自分は取締役や副社長のポストをあっさり投げだしてコンサルタントとして働く姿。
それはいずれも社会における自分の位置づけを気にして、守秘義務に慣れるあまり隠すことを何とも思わなくなり、チャレンジよりも前例踏襲を重んじ、組織内の動きに目を光らせているバンカーの生き方を反面教師としている。「興銀にいたからこそ今がある」という主張にはそんな思いも隠されているような気がする。
「興銀に入った時の同期は百三十人です。僕はあの中で百三十一番目。僕よりもはるかに頭が良くて処理能力だってあるバンカーなんてたくさんいた。市場価値だってある。でも外の世界を知らない。知ろうともしない。バンカーの手を借りたい中小企業なんてなんぼでもある。こんなこと言うのは本当におこがましいけれど、僕みたいな人間が十人とか二十人とかいれば、もっと世の中の役に立てると思うんですけれどね」