※本稿は、上阪徹『彼らが成功する前に大切にしていたこと 幸運を引き寄せる働き方』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。
49歳で天命を知った北尾吉孝さん
49歳になって、ようやく天命を知った、という経営者もいました。
SBIホールディングスの創業者、北尾吉孝さんです。野村證券ではニューヨーク拠点などを経験、事業法人部を率いた後に、44歳でソフトバンクに転じ、49歳で独立しました。
野村證券では将来の社長候補として早くから異例の抜擢を得ていました。その理由は北尾さんが金融業界を選んだ理由を明快に語っていたことも大きかったのかもしれません。マーケットが非常に大きいこと、資本主義の歴史の中で新産業を作るリーダーシップを発揮してきたこと。
慶應義塾大学経済学部卒業後は銀行に行こうとしていた北尾さんでしたが、大変な熱意で野村證券から誘われることになります。土壇場になって、野村證券に決めるのです。
そして異例のキャリアが始まります。通常、新入社員は営業からスタートしますが、最初から総合企画部に配属になり、イギリス留学、ニューヨーク拠点、さらにはアメリカのM&A企業の役員なども務めるのです。
まずは人事を尽くして待つ
父親の影響もあって、中国古典の世界が精神的なバックボーンとしてあり、それが一つの人間的な強さになって表れていたのかもしれない、と語っていました。顔つき、物言いや風格など、他の人とは違うものがあったのかもしれない、と。
実際に大学時代、よく勉強していたし、たくさんの書物も読んでいたそうです。
だから面接で、「投機の経済的意義を述べよ」と言われても、はっきりと答えることができた。また最終の副社長の面接では、どんな仕事がしたいかと言われて、こう答えるのです。
「どんな仕事でも結構です。社命に従ってやらせていただきます。ただ、どこに行っても僕は、世界経済の中の日本経済、日本経済の中の金融機関、金融機関の中の野村證券という3つの位置づけを常に考えながら働きたいと思います」
副社長は「あいつはオレが直接指導する」と語ったそうです。そして北尾さんは努力を重ねて結果を出します。期待されている数字の1割、2割増しではなく何倍もの数字を自ら目標にするのです。成果には運、不運もある。しかし、まずは人事を尽くす。努力する。そして待つのだ、と。
利他は自分に返ってくる
ソフトバンクの孫正義会長からの誘いは、天の導きだと感じたそうです。
同社での経験が、起業につながっていきます。
人は、生まれたときから、この世の何かから使命を与えられていると思う、と北尾さんは語っていました。それを、起業した49歳で自覚するのです。すると、それまでに起きたことが、すべて与えられた天命に向かって起きていたことだったと感じたそうです。
だから、どんな仕事も一生懸命にやらないといけない。
どんな職場にいても、努力しないといけない。
それが、後の大事な肥やしになるからです。すべてを受け入れるのです。
こうも語っていました。正しく生きようとすること。人間性を磨くこと。それが、他を利する。いつかそれは、自分に戻ってくる、と。
アニメに関心がなかった鈴木敏夫さん
2024年3月、『君たちはどう生きるか』での2度目の米国アカデミー賞受賞が大きなニュースになった、スタジオジブリの宮﨑駿監督。その懐刀、プロデューサーの鈴木敏夫さんへの取材もまた、忘れられないインタビューの一つです。
通された応接間で大きなテーブル越しにインタビューをしていたのですが、鈴木さんの向こうにある大きなガラスの棚には、本やらDVDなどに混じって、何やらキラキラした金色に光るものがあったのです。
終わってからおそるおそる、「もしや、あれは?」と聞くと、なんと『千と千尋の神隠し』のときのアカデミー賞のオスカー像だったのでした。
しかも「あ、見ますか?」と棚から取り出し、「持ってみますか?」「写真に撮ったら」などなど、とんでもないものをあり得ないほど気さくに触らせてもらったのでした。このときの写真は家宝になっています。
そんな鈴木さんのキャリアのスタートは徳間書店。学生時代、特にやりたいこともなく、将来はどうしようかと悩んだ挙げ句に浮かんだのが、文章でした。アルバイトなどで書いたことがあって、上手い下手は別にして書けた。それで出版社を受けたら、通ってしまったのだ、というのです。
仕事は公私混同でやるべきだ
配属は週刊誌の『アサヒ芸能』。記者になりたいわけではなかったけれど、仕事は面白かった。芸能から政治、暴力団まで、あらゆるテーマの事件をリポートします。この仕事で、リアルにモノを捉えることの大切さを学ぶのです。
アニメにはまったく関心はなかったのですが、29歳のとき、先輩の名物編集長に呼び出され、アニメ雑誌の創刊を手伝ってほしいと言われます。これもまさに、偶然、の出来事でした。
なぜアニメ雑誌なのかと編集長に聞くと、息子が『宇宙戦艦ヤマト』のファンだったからだと言われます。鈴木さんは笑ってしまったそうです。仕事は公私混同でやるべきだと、このときに教わったと語っていました。
スタッフはみんなアニメの素人でしたが、自分たちが面白そうなものを記事にしていくと、部数はどんどん伸びていきました。
しかし、売れる雑誌はやりたいことがやりにくくなる。それで部数を落とそうと、まだ無名だった宮﨑駿さんを40ページの大特集で展開したそうです。
少ない努力で大きな成果になるから面白い
宮﨑さんを教えてくれたのは、アニメファンの高校生。
宮﨑さんの映画を観た鈴木さんはびっくりして、直接、会いに行ったそうです。
すると、とにかくウマが合った。気がついたら延々と2人でしゃべっていた。一緒に仕事ができたら楽しいだろうな、と思ったそうです。ただ、当時はまだまだ無名。宮﨑さんが世に出る可能性なんて、まったく考えていなかった。
映画の仕事をするようになったのは、自分たちで作品を作ったら取材も簡単だろう、という思いからでした。こうして生まれたのが、『風の谷のナウシカ』でした。
映画づくりは面白かった。少ない努力で大きな成果を挙げられる仕事が、鈴木さんは好きなのだと語られていました。その実現を目指しているのだと。
最初から映画を作ろうと思ったわけでもない。
アニメに関わりたいと思ったわけでもない。
偶然と小さな出会いを大切にしたことが、世界的な名作を次々に生み出すプロデューサーになるという驚くほどの結果を生んだのです。