※本稿は、海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
ドイツ語で雷という意味の「ドンネル」と呼ばれた北里
北里柴三郎(1853~1931年)を慕った人々は後年、彼を「怒」の人と認識し、彼の爆発をドイツ語で雷を意味する「ドンネル」と表現した。それは言い得て妙で、激しいが過ぎ去ってしまえばからりとして後に引きずらない、まさに雷である。北里の「ドンネル」は「怒り」ではない。彼は合理的で、論理的に納得できなくなると「発火」した。けれども一旦発火すればエネルギーは減衰し、その爆発は感情に根ざしていないから、尾を引かない。
その点、北里は軍人向きの性格だった。彼の両親は勧める職業を誤ったと言える。
しかし北里は強靱な肉体と精神で、自分と場違いな領域でも巨人になったのだ。
北里は上司に恵まれた。マンスフェルトに続き長与専斎という理想的な指導者を得て、ドイツではコッホに指導を受けた。北里の座右の銘は「任人勿疑、疑勿任人」(人を任ずるに疑う勿れ、疑いて人を任ずる勿れ)というものだった。
生まれ故郷・熊本の細川藩藩校に修学した時に世話になった栃原家が没落したと聞きつけると、看護婦になった娘を養生園で雇ったのはそのひとつの表れだった。
また、日本の医学教育を、英米系からドイツ主体に切り替えるという大事業を成し遂げた殊勲者、相良知安が零落していると聞くと慰問し、金品を置いて助けたりもしている。そんな北里だから、日本に帰国したら報恩と日本国民のため衛生行政の確立、伝染病予防のための研究に勤しもうと考えたのだ。
毒舌で恨まれ…ドイツから帰国した北里を医学界は冷遇した
だが日本では政府、文部省、帝国大学は、世界的医学者となって帰国した北里を冷遇した。日本政府の扱いは、コッホが心配した通り酷いものだった。天皇陛下の下賜金で留学延長をしたのに、帰国後に上奏しなかったのが何よりの表れだ。おまけに内務省の休職期限が切れた北里は無職になっていた。北里を衛生局に復職させるのは、2週間後の6月10日に帰国する盟友・後藤新平(医師で政治家)が手がける案件となる。
今の日本には北里が本格的に活動できる場はない。かつて緒方が所長を務めた、内務省の東京衛生試験所は化学衛生が主となっていて、最新鋭の細菌学研究の使用に耐えず、帝大の衛生学教室も規模が小さく活動に制約がある上、北里自身が大学に嫌悪感を抱いていた。内務省は帰国した北里をもてあまし、大学も北里を招聘しなかった。
それは留学時代、国際学会の懇親会で、容赦なく大学や政府を非難する毒舌をまき散らした北里の、謂わば自業自得でもあった。
北里は伝染病研究所の設立を訴える
そこで長与は伝染病研究所の創設を中央衛生会に打診した。その話はツベルクリンの凋落で凍結されていたが、北里の帰国で再始動する。6月1日、中央衛生会にて長谷川泰委員長、高木兼寛、石黒忠悳の賛同を得て伝染病研究所設立が建議された。
6月22日、北里は「大日本私立衛生会」(仙台)の例会で「伝染病研究所設立の必要」を訴え7月、内務省の中央衛生会の委員に任じられた。ツベルクリン治療専門研究所の設立は内務省から切り離し、宮内庁の援助で資本家の寄付を募ろうと考えた。
伝研と治療病院の連携は、コッホ研究所と同じ構図である。
7月1日、中浜東一郎が衛生試験所所長を辞職した。長与局長に衛生局に招聘されたが、ドイツ留学では北里の割を食い、衛生局局長の座も後藤に奪われる屈辱に耐えられなかったのだ。
中浜は「ツベルクリンは結核治療に有効ではなく、本邦の使用施設も激減し、指で数える程度になった」という調査結果を置き土産にした。
その後も彼は、衛生学者として、冷静で中立的な、優れたコメントを発し続けた。
明治25年に出会った福沢諭吉が北里の救世主になった
伝染病研究所を創設する話が中央衛生会で動き始めたこの時、文部省が、細菌学の研究機関を帝大に置く設立予算を計上した。またも文部省、ここで東大の横槍とは、と北里の苛立ちは激しくなった。
ところがここで、北里にとって思いもかけない救世主が登場した。
7月末、長与元衛生局長は北里と帰国直後の後藤新平を適塾の盟友、福沢諭吉を引き合わせた。何と福沢は、自前の研究所を寄付するという。
同席していた後藤新平が「大日本私立衛生会が建設を検討しているので、いずれ国立でやるべきです」と言うと、福沢は答えた。
「それだと早くても2年後になる。その間、この高名な大学者先生を遊ばせておくつもりかい? それでは宝の持ち腐れ、世界に恥を晒すぜ。政府頼みの昨今の風潮は、実に嘆かわしい。空威張りの役人なんぞ当てにせず民から自発的に実体を作り上げ、それを梃子に大きくしていけばいいんだよ。金なんてもんは旗をおっ立てれば、後から集められる。区々たる俗論に拘泥して、国家の大面目を損じてはならねえよ。聞けば文部省の連中も議会に働きかけを始めたという。ぐずぐずしていたらこの企画を持って行かれちまうぜ」
福沢は「これは俺の道楽さ」と北里に研究所をプレゼント
歯切れのよい福沢の啖呵を聞き、北里が「福沢先生のご厚誼に答えるべく一意専心、伝染病研究所の設立に邁進するとです」と応じると、福沢はからりと笑った。
「恩返しの必要はない。これは俺の道楽さ。お前さんの仕事で万民を幸せにしてくれれば、それでいいんだよ」
北里が早速、実験器具や設備を整える費用をねだると、同じ酔狂者の森村市左衛門が、施設建設費1000円を寄付してくれるという。福沢は、長与前局長の顔を見て言う。
「文久2年、幕府の遣欧使節団に潜り込み、ベルリンで病院や大学を見た後、長与は繰り返し日本をベルリンみたいな衛生大国にしたいと言い続けた。だからそれは俺の夢になった。小さな研究所を建てたらその先にでっかな計画もあるから楽しみにしてな」
啓蒙思想家、慶応義塾という教育機関を主宰する教育者の顔を併せ持つ福沢の提案を受け北里は10月、大阪私立衛生会の依頼で赤痢の調査をした。
この時に、帝大の緒方正規は短桿菌が原因菌としたが、北里はその細菌説を一笑に付し、アメーバ病原説を提唱した。ところが緒方も北里も間違えていて、赤痢菌の発見は北里四天王の志賀潔の登場まで待たねばならなかった。
こういう態度が無用の敵を作り、北里はあちこちで排除されてしまうのだった。
芝公園にある福沢の私有地に建てられた小さな研究所
明治25年11月19日、芝区芝公園5号3番地、御成門交差点の南東角の福沢の所有地に、建坪10余坪、2階建て6室の小さな研究所が完成した。
伝染病研究所の開所式の案内状は大日本私立衛生会が作成した。
内務省からツベルクリン療法実施の許可を得、午前8時から9時まで結核患者の診療にあたることになった。
開所式の招待状を福沢邸に持参すると、福沢はわがことのように喜んだ。
だが、その2日前の11月17日、衛生局局長に就任した後藤新平は、やはり個人の寄付という形は長続きしないと考え、ゆくゆく内務省の下に国立伝研を設置する構想を描き、その前段階として大日本私立衛生会に伝染病研究所設立案を起案させていた。
「大日本私立衛生会・伝染病研究所」の創設メンバーは長与、石黒忠悳、高木兼寛、金杉英五郎などの北里シンパで固め、委員長は「ドクトル・ベランメエ」こと長谷川泰を任命した。長谷川委員長は伝研経営のため大日本私立衛生会から3600円の支出を決したが、そのためには現在の建屋も土地も全て「大日本私立衛生会」の所有にしなくてはならない。
研究所を国立にする計画に、福沢は「政府と役所は信じるな」
その説明を受けた福沢は「北里が所長ならば、それでもいいよ」と快諾して、土地建物をさらりと寄付した。その上で、こうつけ加えた。
「ひとつ忠告しておく。政府と役所は信じるな。連中に寝首を搔かれないよう注意し、いつでも卓袱台返しに対応できるよう、常日頃から財を蓄えておくことだ。俺が好き勝手をやってこられたのも、政府や役人を当てにしなかったからだよ」
忠告は福沢自身の苦い経験に拠ったものだ。明治10年、西南戦争後に慶応義塾は経営難に陥り、福沢は政府に支援を打診した。彼は教育を通じ国に貢献していると自負していたが、役人はそんなことは全く斟酌しなかった。
この時は卒業生の寄付で急場を凌げたが、福沢は国家の真の姿を見たのだった。
そして「明治14年の政変」で大隈重信が放逐された時は、大隈と協調し役所に送り込んだ精鋭が尽く排除されてしまった。
これで福沢の役人嫌いは決定的になった。この時、福沢を懐柔しようとして、井上馨が福沢に官報の刊行を持ちかけたが、福沢は断固拒否して1年後の明治15年、満を持して天下の公報たらんとする「時事新報」を創刊したのだった。
北里を絶賛したドイツ皇帝の言葉を聞いた天皇が勲章を授与
明治25年12月3日、「大日本私立衛生会・伝染病研究所」が開所した。
所長の北里は内務省内務技師として伝研内で研究することを許された。兼職である。
それは福沢が「ちっぽけな研究所」の種を蒔いたおかげだった。思えば北里がドイツから帰国した半年前、研究成果以外は徒手空拳に等しい状態だった。それがあっという間の急転回は、北里がドイツ留学を決めた6年前を彷彿とさせた。
北里の周りには時の流れを速める特殊な磁場があるようだった。
そんな北里に更なる追い風が吹く。
12月、陸奥宗光外相は、日本に着任した新任のドイツ公使から皇帝ヴィルヘルム二世が北里を絶賛した言葉を聞いて、それを天皇に伝えた。もちろんそれはコッホの気遣いだった。その影響か29日、政府は北里に勲三等瑞宝章を授与した。
そんな世俗的な栄誉に加えて、北里を心底勇気づけてくれる援軍も現れた。
ベルリンで再会した同郷、同窓の石神亨(海軍軍医)が、伝研へ移籍してきたのを皮切りに、北里の強烈な磁場に引き寄せられるように、綺羅星の如き俊英が集まってくる。