自動車を購入するとき、販売店でよく言われてきた「実際の燃費はカタログの七掛け(カタログ値の70%しか走れない)」という説明。立命館大学経営学部准教授の中原翔さんは「2016年から発覚した三菱自動車、スズキなど6社の燃費不正事件は、日本独自のJC08モードという燃費基準が鍵となっている。そのため、当時の行政と企業のそれぞれの狙いを理解することが大事である」という――。

※本稿は、中原翔『組織不正はいつも正しい』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

車にガソリンを入れる人
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日本独自の「JC08モード」によって測定困難となった燃費

2016年から18年にかけ、三菱自動車、スズキ、SUBARU、日産自動車、マツダ、ヤマハ発動機6社の燃費不正が発覚し、問題となりました。

この燃費不正事件には、国土交通省と経済産業省による「JC08モード」において定められた惰行法ゆえに、三菱自動車とスズキなどは測定困難な状態となり、結果的にそれぞれ海外の測定方法を参考にせざるを得なかったという事情がありました。そう考えると、なぜわが国においては日本独自の燃費基準が設定されたのかを考えなければならないとも言えます。

ここからは私の見立てになりますが、このJC08モードが導入された背景には、とりわけ「わが国の消費者に対して諸外国よりも燃費を良く見せること」があったのではないかと思います。これはJC08モードが日本独自の燃費基準であり、かつ諸外国よりも比較的緩やかな基準であったことに起因しています。

とりわけ「わが国の消費者に」というのは、JC08モードが日本独自の燃費基準であるため、この燃費基準において燃費値を参考にするのは、わが国の消費者だからです。海外の消費者であれば、JC08モードに加えて各国の燃費基準も確認して、その差異を確認するはずです。

燃費値を消費者に対してより良く見せること

そのため、JC08モードに本来期待されていたのは、燃費値の差を防ぐこと以上に、「わが国の消費者に対して諸外国よりも燃費を良く見せること」があったと考えられます。事実、JC08モードへの批判として挙がっていたのは、同一車種であった場合に当時の米国における燃費基準より燃費値がかなり良くなる(良く見える)というものでした。

より良く見えた方が日本車を買う人は増えてきますから、国土交通省と経済産業省があえてJC08モードにこだわったのではないかとも推察することができます。このような背景があることを当時の日本経済新聞も社説にまとめていますので、次に引用してみたいと思います。

日本経済新聞の社説でも指摘された燃費の差異

日本の現在の燃費基準は、国交省と経済産業省の共管で導入された「JC08モード」という方式だ。これはエアコンやカーナビゲーション、照明などをすべて消した状態で燃費を測るので、実際の走行時よりも、かなり良い数字が出ることが多い。

一方、米国では「エアコンをつけた状態」や「寒冷地での走行」など複数の走行状態ごとにガソリン消費量を測り、それらを総合して燃費をはじき出す。

その結果は日米で大きく異なっている。例えばトヨタ自動車の新型「プリウス」の燃費は日本基準ではガソリンリッターあたり40.8キロメートルに達するが、米国基準では同24キロメートルにとどまる。

一般のドライバーから報告を集めて車種別のリアル燃費を調べるネットサイトの「e燃費」によると、プリウスの平均燃費は同20キロメートル台半ばで、米国基準のほうが乗り手の実感に近い。他の多くの車種も同様の傾向にある。

政府は2年後に新たな燃費基準の導入を計画している。米国方式も参考にしつつ、実態に近い計測方法を工夫すべきだ。自動車業界も燃費性能の数値上の悪化に抵抗はあるかもしれないが、消費者目線を重視する必要がある。三菱自とスズキの不正を燃費に対する信頼を取り戻す契機にしたい。

(日本経済新聞朝刊「自動車燃費への信頼を取り戻すために(社説)」2016年5月27日付け)

【図表1】自動車販売時の「JC08モードとWLTCモードの違い」
出典=経済産業省・国土交通省・一般社団法人日本自動車工業会「燃費の表示内容が変わります!

新しく設定された国際的な燃費基準でガラパゴス脱出⁉

ここで言及されている「新たな燃費基準」とは、現在設定されているWLTPモードのことです。これは国際的な燃費基準のことを指しています。WLTPとはWorldwide harmonized Light vehicles Test Procedureの略で、邦訳すれば「乗用車等の国際調和排出ガス・燃費試験法」となります(あるいは、WLTCモード)。

簡単に言えば、それまで各国・地域ごとに異なっていた燃費基準を国際的に調和させることによって開発から流通に至るまでを統一された基準に従って行い、消費者や取引先などに分かりやすく燃費値を表示するものと言えます。

つまり、日本独自の燃費基準ではなく、国際的な燃費基準を日本も採用することで、日本独自である種ガラパゴス化したJC08モードが変更を余儀なくされたことが分かります。先にも述べたように、日本独自のJC08モードは、惰行法という測定困難な方法を現場に促していました。その背後にあったのは、「わが国の消費者に対して諸外国よりも燃費を良く見せること」であったかと思います。

ガソリンスタンドの価格表示
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国際競争力を高めるJC08モードによって燃費測定が困難に

もし、これが本当であれば、国土交通省や経済産業省が燃費を意識してJC08モードにこだわったことが、ひるがえり両社の燃費不正を生んでしまったのではないかと思うのです。仮にわが国の消費者を意識していなかったとしても、JC08モードが設定されていたことで両社の燃費測定を困難なものにしていたことは事実ですから、両省はそのことについて何かしら説明を行ってほしいとも思います。

ただし、両省が国際的な視点からJC08モードを設定していたとすれば、私個人はそれも「正しい」判断だったのではないかと考えています。

というのは、もちろん自動車メーカーが各社競ってより良い燃費を求めていくだけではなく、わが国の国際競争力として(独自の)燃費基準を置くこと自体は、少なくともこの時点では容認されていたからです。

それはWLTPへの切り替えに対する裏返しで、各国・地域ごとに異なって燃費基準を設定することは日本に限らず行っていたことですから、日本もそれに追随することは何ら問題ないと思うためです。

しかし、その延長線上に測定困難な惰行法が現場に求められ、かつ現場では対応に苦慮した結果、現在の日本が参照しているような国際的な燃費基準を両社がやむを得ずに使用していたとすれば、それは不運以外のなにものでもないように思います。

結果的に、国土交通省や経済産業省がわが国の消費者に対して諸外国よりも燃費を良く見せることが、かえって国内の自動車メーカーの燃費不正問題を生み出し、国内で開発・製造される自動車の国際的な評判を落としかねない事態になった、ということなのです。

燃費の不正表示がされた三菱自動車のカタログ、2017年1月
写真=共同通信社
燃費の不正表示がされた三菱自動車のカタログ、2017年1月

産業を守るという「正しさ」を追求するがゆえに不正が起きた

ここまでの説明でお分かりかもしれませんが、少なくとも燃費不正とは、三菱自動車などが単に惰行法を使用していなかった、というものではありません。それらをまとめると、次のようになります。

1)JC08モードにおける惰行法は日本独自の燃費基準であり、その背後には「わが国の消費者に対して諸外国よりも燃費を良く見せること」というねらいがあった。
2)しかし、惰行法は少なくとも三菱自動車とスズキにおいてとても困難な測定方法であった。
3)そのため、三菱自動車は米国向けの高速惰行法を使用しており、スズキは欧州向けの装置毎等の積上げを使用していた。
4)しかし、結果的に(JC08モードという燃費基準の是非は問われることなく)両社の測定方法にばかり目が行き、燃費不正という問題が顕在化した。
5)その後、JC08モードはWLTPモード(あるいは、WLTCモード)への変更が行われた。

行政と企業がそれぞれ組織としての正しさを追求した結果

以上の5点を踏まえた場合に、この燃費不正とは国土交通省や経済産業省といった行政組織や三菱自動車やスズキといったなどの企業組織が、それぞれの「正しさ」を追求した結果、起きたものではないかと考えられるのです。

燃費不正というと、「燃費不正をした企業組織に原因がある(燃費不正をした企業組織に「危うさ」がある)」と考えられやすいのですが、しかしそうとは限りません。なぜなら、ここまで述べてきたように、その燃費不正とは「正しい」とされる燃費基準との差異においてあらわになるものだからです。

中原翔『組織不正はいつも正しい』(光文社新書)
中原翔『組織不正はいつも正しい』(光文社新書)

ただし、その「正しい」とされる燃費基準自体が日本独自のものであり、かつ(WLTPなどの国際基準からすると)アブノーマルなものであった場合にはどうでしょうか。それでも三菱自動車やスズキなどの企業組織だけに原因があるのでしょうか。

私は、そうは思いません。むしろ、そうやって「正しい」ことの一面ばかりを取り上げることに、やはり無理があると感じます。

そのため、私はむしろ行政組織も企業組織も「正しい」ことを追い求めた結果として燃費不正が生じた、と考えています。

全員が「正しい」ことをすれば、全体としては「正しい」方向へ向かうと考えられがちですが、そうでもないのです。全員が「正しい」ことをしているにもかかわらず、全体として「危うい」方向へ向かうことも当然ながら考えられるからです。