※本稿は、筒井清忠・編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部、菅谷幸浩「第八章『帝人事件』」を再編集したものです。
帝人事件をめぐる軍部陰謀説と平沼陰謀説
前記事で述べた中島(編集部註:商工大臣)と鳩山(文部大臣)に対する攻撃の背景として、軍部の関与を推測する先行研究もあるので、その正否から検討する。
満州事変後、陸軍では天皇親政による国家改造を目指す勢力として皇道派が生まれる。その領袖であった真崎甚三郎大将の浩瀚な(膨大な量の)日記が公刊されているが、そこには中島や鳩山の辞任につながる記述は見当たらない。
1934年1月、荒木貞夫陸相の病気辞任に伴い、林銑十郎大将が入閣し、3月には永田鉄山少将が陸軍省軍務局長に就任する。この林・永田ラインを軸として、陸軍内では反皇道派系勢力の結集が進む。4月11日、林陸相は実弟である東京市助役・白上佑吉が疑獄事件に関与して有罪判決を受けたため、辞表を提出する。
しかし、斎藤や参謀総長・閑院宮戴仁親王に慰留され、同月15日の陸軍三長官会議で留任が決定している(宮内庁編『昭和天皇実録』第6巻)。これは当時の斎藤内閣や天皇・宮中は林を陸軍統制回復の主体として認識していたためであり、この状況下で林や永田が斎藤内閣打倒工作を仕掛ける理由はない。
「平沼擁立を目指していた司法省行刑局長の謀略」という見方
また、帝人事件を枢密院副議長・平沼騏一郎(司法官僚出身)の策謀とする説も根強い。平沼は国家主義団体「国本社」の会長を務め、元老の西園寺と対立する一方、軍や右翼の中に平沼を慕う勢力がいたのは事実である。このため、平沼陰謀説は当事者の間でも囁かれていた。
1934年6月3日、番町会の渋澤正雄(昭和鋼管・富士製鋼社長)は、「目下本事件を担当せる検事等は平沼男〔爵〕の子分にして、政府打倒の目的を以て仕組まれたる策動」と述べており(甲南学園平生釟三郎日記編集委員会編『平生釟三郎日記』第15巻)、警視総監・藤沼庄平も戦後の回想録『私の一生』で、帝人事件は平沼擁立を目指していた司法省行刑局長・塩野季彦の謀略と述べている。
これに対し、近年では萩原淳氏による評伝的研究により、司法部における平沼閥や、1930年代の平沼内閣運動の全容が明らかになっている。そこでは平沼が帝人事件の捜査情報を知りえる立場にいたが、事件そのものに関与したと断定する根拠はないことが指摘されている(萩原淳『平沼騏一郎と近代日本』『平沼 騏一郎』)。筆者も史料状況からして、この見解が妥当であると考えている。
政党と軍部が連携した挙国一致内閣を求めた政友会久原派
基本的事実として、岡本の五月雨演説が政友会内部からの造反行為であった以上、帝人事件の背景として政界との関連性は除外できない。もともと武藤ら『時事新報』が支持していたのは、政友会元幹事長の久原を中心とする親軍的な大同団結運動であり、政民両党主流派による政策協定中心の政民連携運動には批判的な論調をとっていた(松浦正孝『財界の政治経済史』)。
この時期、久原房之助は、政党と軍部が連携した強力な挙国一致内閣樹立を求めていた。政友会久原派は党内で第3位の勢力にあったが、1934年4月以降、政民連携運動から離れていく(佐々木隆「挙国一致内閣期の政党」)。久原にすれば、総裁派主導で政民連携運動が進展し、鈴木内閣が成立することは決して望ましいことではなかったからである。
検察当局による帝人事件捜査は東京地方裁判所検事正・宮城長五郎宛の三つの告発状をもとに開始される。告発人の一人である中井松五郎には武藤山治の妻と親しい内妻がいた(大島太郎「帝人事件」)。のちの公判で、中井は自分自身に法律知識がまったくなく、大沼末吉弁護士に相談のうえで告発状を作成したことを認めている。
検察に出された告発状は、久原派が仕組んだものか
大沼は政友会久原派の代議士だった津雲国利(1934年2月16日、党紀紊乱により除名処分)と非常に懇意であった。帝人事件前後に行われた鈴木喜三郎や望月圭介への告発、それ以前の小泉策太郎に対する鉄道横領疑惑の告発はすべて大沼によるものであった(菅谷幸浩『昭和戦前期の政治と国家像』)。以上のことから、帝人事件の背後には久原派による政民連携運動への妨害工作が見え隠れする。
この年2月以降、鈴木ら政友会執行部は民政党との間で、運動目的を政策協定に限定した政民連携交渉に着手する。その狙いは久原派と床次派の抑え込みにあり、5月11日の両党政策協定委員会第1回会合までに総裁派が主導権を掌握するに至る(前掲『昭和戦前期立憲政友会の研究』)。同委員会は6月29日に第2回会合が開催されるものの、具体的成果を残すことはなかった。
7月3日、法相・小山松吉は閣議で帝人事件捜査の中間報告を行う。この報告は黒田大蔵次官の前月22日付嘆願書に基づくものであり、自らが受け取った帝人株式の一部が高橋蔵相の長男(貴族院議員・高橋是賢)に渡っていたと記されていた。
すでに2閣僚が失脚し、5月19日に黒田が起訴されたことは斎藤内閣が政綱に掲げた綱紀粛正の方針を根底から揺るがすものであった。そのうえ、重要閣僚の親族まで逮捕されれば、政治的影響は計り知れない。ここに斎藤は内閣総辞職を決断し、中間内閣としての2年余りの使命を終えることになる。
ついに斎藤内閣は総辞職、収賄疑惑が政局を崩壊させた
しかし、のちの公判で、右の嘆願書はアルコール中毒に苦しむ黒田が主任検事・黒田越郎の誘導により書かされたものであることが判明している(河合良成『帝人事件』)。黒田は島田茂への取り調べの際、「政党巨頭連中の内には兎角問題になる奴が居る、之等の奴等は国家非常時の此際何うしても葬らなければならぬ」と述べている(前掲『昭和戦前期の政治と国家像』)。
このように帝人事件と政党政治家を重ね合わせる見方は「番町会を暴く」と重なる。「紅葉館で中島君の御馳走を食つたのは政友床次君、民政町田君を始め、政民の錚々たる大幹部多数」であり、「政治家と実業家と棒組みとなって、良からぬ手段方法で資金を集め政界財界を腐敗せしむることは断じて許してはならぬ」(『時事新報』1934年1月27日)という言葉は、そのまま黒田ら担当検事の認識を代弁したものと言っていいだろう。
時事新報の武藤は1934年3月9日、神奈川県大船町の自宅を出た直後、かねてから原稿料支払いをめぐってトラブルになっていた相手に拳銃で撃たれ、翌10日に死去する。黒田越郎も6月22日に胆石病で倒れ、そのまま7月23日、築地の聖路加国際病院で死去する。このため、帝人事件の核心には未解明な部分が残されたままだが、時代背景として次のことが言える。
検事は世論に動かされ、一大疑獄事件で政治への信頼は失墜
この斎藤内閣期、1933年7月から五・一五事件の陸海軍側公判が始まり、メディアは陸軍の誘導する形で被告人たちの純真さや、政党と財閥の腐敗を強調する報道を繰り返していた(小山俊樹『五・一五事件』)。そして、続く岡田内閣期に至るまで、多くの選挙違反事件や自治体疑獄事件が国内各地で摘発されるが、警察や検察による強引な捜査手法も顕在化していた。そこには汚職撲滅に向けた正義感や、検挙実績への執着があったことは想像に難くない。帝人事件捜査に携わった検事たちもそのなかに数えられるだろう。
五・一五事件後、中間内閣として成立した斎藤内閣にとって、1933年から本格化する政民連携運動は政党内閣復帰に向けた足がかりとなるものであった。しかし、政友会の党内対立によって政民連携運動は破綻を迎えていく。斎藤内閣後半期の政治を方向付けたのは、軍部ではなく政党の動きであった。
こうした政治状況のなかで、帝人事件は世論に影響された検事たちの手も加わり、その構図が作られていく。綱紀問題への取り組みを非常時の重大使命と位置付けていた斎藤内閣の下で、政財官界にまたがる一大疑獄事件が発生したことは政治への信頼を大きく揺るがすものであった。
財界人や官僚を悪とし、検察を正義として報じたメディアの罪
最後に、帝人事件がその後の歴史に残した影響を挙げておく。
第一は天皇機関説事件との連続性である。検察当局による人権蹂躙疑惑は岡田内閣期の議会でも度々取り上げられ、とくに1935年1月23日の第67回貴族院本会議における美濃部達吉(東京帝国大学名誉教授)の質問演説は多方面から注目を集める。
しかし、帝人事件が政財界腐敗の副産物と目されていたなか、浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約批准を支持するなど、民政党に近いと思われていた美濃部が検察批判を展開したことの波紋は大きかった。斎藤内閣に続く昭和第二の中間内閣の成立に反発していた勢力にとっては、美濃部学説への批判を通じて、岡田内閣・宮中の排除を目指す運動の口実となる(前掲『昭和戦前期の政治と国家像』)。
第二は政党政治家や財界への不信感を強めたことである。大半のメディアは当初から事件に関連した財界人や官僚を悪とし、検察の側を「社会革正」の旗手として捉えていた。その結果、政党の後退、官僚と軍部の台頭に向けたポピュリズムが加速することになる(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。これは私益に対する公益の優位など、のちの日中戦争期における統制経済の思想を正当化するものになる。
現代にも通じる教訓「検察が公正さを見失うと何が起こるか」
帝人事件で起訴された被告人16名は266回の公判を経て、第一次近衛文暦内閣期の1937年12月26日、東京地方裁判所(裁判長・藤井五一郎)で全員無罪が言い渡される。当時法相だった塩野季彦は、黒田ら担当検事が「敏腕ではあるが奔馬的(編集部註:勢い余って乱暴な)捜査をする連中」であり、「捜査が長引いたのと、其間多少の無理があつたやうに感じられる。事件は半ば真実で、半ば架空であると思ふ」と述べている。
そのうえで、検察側が控訴しても勝算は見込めず、「事変漸く拡大したる今日、斯る闘争は速かに消散せしむるが、国家の為にも、司法部の為にも宜しからん」と判断したという(塩野季彦回顧録刊行会編『塩野季彦回顧録』)。
本来、公権力に求められるのは法的手続きの遵守と中立性である。検察が時代の空気に流され、公正さを見失ったときに何が起こるか。その恐ろしさを帝人事件は現代の私たちに伝えていると言えるだろう。