道長が紫式部を「北の方にはできない」と言ったのに違和感
――大河ドラマ「光る君へ」(NHK)では、主人公のまひろ、後の紫式部(吉高由里子)が、道長(柄本佑)と相思相愛となるも、まひろの身分が低すぎて、関白家の三男である道長との結婚をあきらめました。
【辛酸】道長には「妻になってくれ」と言われたものの、「北の方(第一夫人)にはできない」とも……。まひろは「妾になれってこと?」とショックを受けていましたね。
【大塚】この流れ、ちょっと違和感はありました。というのも、道長の父や長兄の結婚という前例を見ると、道長は、その気さえあれば、また、まひろが優れた女の子でも産めば、まひろを北の方にできるはずなんです。
【辛酸】そうなんですか? かなり身分が違うのかなと思っていたのですが。
【大塚】紫式部の父、為時はのちに越後守となりますが、道長の兄・道隆も受領(今でいう県知事のような地方官僚)階級の娘、高階貴子を北の方にしていますし、そもそも道長の母親も、受領の娘である時姫。地方官僚というのはたしかに身分としては中流、下流だけれど、現地で強大な力を持ち、財を蓄えることはできた。だから、藤原摂関家のような上流階級との縁組みはあったんですね。
【辛酸】父と兄はそういう結婚をしたのに、と……。ドラマの中では、まひろが道長に「世を正すため政でトップに立って」と言ったから、道長としては「トップに立つためには妻もセレブでないと」という理屈なんでしょうか。
【大塚】そういうことなんでしょうね。ドラマの道長はそうでもないですが、史実を見れば、むしろ道長こそが誰よりも妻の身分にこだわり、女の力で出世しようとした野心家ですから。
もし現代の女性が「第一夫人じゃない」と言われたら…
――現代では考えられないシチュエーションですよね。好きな男性に「結婚してくれ。でも、君は第一夫人じゃない」と言われるのは。
【辛酸】いきなり「あなたは2号ですよ」と言われたわけですもんね。
【大塚】一夫多妻の時代なので道長には正式な妻が2人いましたが、「妾」と言われると、そういう周囲に認められた妻より一段下なのかと思いますよね。現代なら「お前はセフレだ」と言われるような感じでしょうか。
【辛酸】例えばデヴィ夫人(インドネシアの大統領スカルノの妻)は第3夫人で、自分の上に2人いるという立場ははっきりしていたけれど、この言われ方では……。
【大塚】単なるお手つき、それを「召人」と呼んだのですが、そのぐらいの扱いになってしまいそう。
「一番愛している」なんて、言葉だけならなんとでも言える
――ドラマの道長は「北の方(正妻)は無理だ。されど、俺の心の中ではお前が一番だ」とも言っていました。
【大塚】そんなこと、口先だけだったら、なんとでも言えますよ(笑)。
【辛酸】その場しのぎに聞こえますよね。現代でもよく、おじさんが不倫相手に言うセリフです。
【大塚】正直に言えばいいというものでもないし、こんなことを言っている時点で、まひろとしては信じられないですよね。いつの世にも、男性にはまず行動で示してもらいたいものです。
もしセレブから「愛人になれ」と言われたら…
――実際には、下級貴族の娘が階級トップの男性から「妾になれ」と言われたら、どうしていたんでしょうか?
【大塚】もちろん、それに応じた女性もいたとは思います。
【辛酸】もし自分がそう迫られたら、絶対NOとは言えないですよね。自分の家が困窮し、相手がリッチだったら、悪くない話だと思うかもしれない。恋愛感情がなければ、たまに通ってくるくらいなら体力的にも負担が軽そうです。
【大塚】まひろの立場になれば「私と同じ受領階級の女性だって正妻になっているじゃないか」と思うでしょうから、そこに反発しただろうし、妻の立場もわりと流動的だったから、例えばたくさん娘を産んで正妻になったケースだってあるわけです。
【辛酸】なるほど、子どもの数が実績になるんですね。
【大塚】例えば、兼家の妻のひとり、『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱の母は、道綱という男子ひとりしか産んでいない。だから正妻になれなかったけれど、それに対して時姫は息子も娘も複数、産んでいるわけです。当時の貴族たちは、娘を天皇や東宮に嫁がせ、外戚として権力をつかむことを目指していたので、妻にはまず娘を産むことが期待されていました。
清少納言の「推し」は意外にも道長だった
――だから、ドラマで黒木華さんと瀧内公美さんが演じる道長の二人の妻も、どちらがたくさん子を産むかで競争しているわけですね。
【辛酸】でも、そんなにモテるとは、実際の道長ってドラマのようにかっこよかったんですかね。
【大塚】道長がイケメンだったと断定する文献はほぼないですね。お兄さんの道隆が美男子だったという記録は残っています。そして次男の道兼は毛むくじゃらで醜かったとか。
【辛酸】わぁ、ドラマのイメージと違いますね。
【大塚】でも、道長は若い頃、シュッとしていたようで、正妻・源倫子との結婚を父・雅信が反対したのに対し、母親は「時々、物見などに出かけてお見かけしたところ、ただ者とは思えません」と賛成しています。さらに、あの清少納言も『枕草子』で道長を褒めていて、女主人の定子に「いつものごひいきの人ね」とからかわれたりしています。
【辛酸】清少納言のような宮仕えの女房たちの間では「推し貴族」がいたんですね。現代と変わらない感じ?
【大塚】そうですね。清少納言の推しは藤原道長ということで(笑)。
平安時代のキスの方が現代より濃厚だったかもしれない
――ドラマのオリジナル展開ですが、まひろと道長はこの時点で体の関係があり、熱烈なキスシーンもありました。
【辛酸】ドラマを見て疑問に思ったんですが、平安時代、こんなにも濃厚なキスをしていたのでしょうか。
【大塚】していたと思います。江戸時代などにはキスを「口吸い」と言いましたが、平安時代も同じようにしていたはず。むしろ今より昔の方が、五感を重視し、肌の触れ合いなど、そういう行為もより繊細に感じていたのではということを、新刊『傷だらけの光源氏』(辰巳出版)で書きました。
【辛酸】まさにそう書かれていましたね。今の日本人は淡泊になったけれど、当時はもっと濃厚な行為をしていたかもしれないと……。廃屋で落ち合って、というのはどうですか? まひろと道長が最初にいたしたのも荒れ果てた廃屋でしたし、最後にキスしたのもそうでした。場所としてはちょっと怖いような気もするんですが。
【大塚】当時はラブホテルなんてないですから、廃屋(廃院)というのも十分ありえます。(紫式部が書いた)『源氏物語』でも、夕顔は廃屋で源氏とセックスしていますね。
実際問題、紫式部と道長には体の関係があったのか?
――ドラマのような結婚前の若き日ではなく、後年、宮仕えを始めた後だと思いますが、紫式部は道長と関係があったのでしょうか?
【大塚】私はあったと思うんですよ。よく引き合いに出されるのが、南北朝時代に編纂された『尊卑分脈』の紫式部の項に「御堂関白道長妾云々」と書いてあるということ。だから、道長の愛人だったと言われていますが、その記述は信用できないとしている研究者も多い。つまり、本当に関係があったかどうかは分からないけれど、「関係があった」と仮定して考えると頷けることがたくさんあるんです。
【辛酸】たしか『紫式部日記』には、道長に言い寄られたことが書いてあるんですよね。
【大塚】道長が「すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ」という歌を詠んで紫式部に渡した時のことですね。「すきもの」は「好色な人」という意味を含んでいて、「『源氏物語』のような恋愛小説を書いているのだから、あなたもいろんな人と関係しているんだろう」という、すごい歌を贈ったんですよ。
道長が紫式部に贈った歌は、現代ならセクハラおやじ
【辛酸】まるで現代のセクハラおやじみたい。そういう日本の男って1000年前からずっとセクハラしてきたんですかね。
【大塚】紫式部は「そんなことはありません(好き者ではありません)」といった意味の返歌をするけれど、その晩、道長が部屋の前に夜通しいて、今なら、ドアをノックされていたような状態になり、それでも私は部屋に入れなかったと書いています。
【辛酸】夜通しアタックされるなんて、恐怖でしかないですね。
【大塚】そんなことをなぜわざわざ書いたのかと考えると、逆に愛人関係にあったからではと。さらに、そんなふうに道長とやりとりしていた時期に、紫式部のお父さんが越後守という、いいポストを得ているんですね。
【辛酸】つまり、日記に書いた日は道長を部屋に入れなかったけれど、違うときには入れたのかもしれない。
【大塚】そういうことです。れっきとした妻にはなれなくても、お手つきになったことで父親の立場が良くなるなら、妾になるのも悪くないかもしれませんよね。
【辛酸】もしかして道長は紫式部の文学の才能に惚れていたのかも……。才能に惚れるってありますから。
【大塚】『紫式部日記』の記述にも見えるように、きっと、道長もそういう魅力は感じていたと思います。