※本稿は、藪下遊、髙坂康雅『「叱らない」が子どもを苦しめる』(ちくまプリマー新書)の一部を再編集したものです。
ネガティブな面と向き合うことができない子どもたち
子どもを叱ったり諫めたりする場面というのは、基本的に子どもが何か「良くないこと」になっている状況です。ですから、「世界からの押し返し」が少ないというのは、子どもにとって「良くないところ」を指摘される機会が少ないということを意味します。
本節では、こうした「良くないところ」を指摘される機会が少ないが故に起こってくる問題について詳しく述べていくことにします。
「みんな違っていて良い」という言葉を耳にする機会が増えた現代ですが、まったくその通りだと思います。言い換えるなら、他の人よりも「うまくできない」「劣っている」「上手じゃない」ということがあっても良いのです。そういった側面も含めて「存在を認める」ということが大切なのは言うまでもないでしょう。
ですが、大人たちが子どもの「ネガティブな側面」を隠蔽し、誤魔化し、加工することによって、自分のネガティブな面と向き合うことが困難な子どもたちを目にするようになりました。
「✓を付けないでほしい」という親
【事例1:✓を☆にした小学生】
小学校一年生の女子。知能の問題等は認められない。ある日のテストで「✓」が付いたため、家で泣いて困っていると親から電話が入る。「✓を付けないでほしい」という要求に対して担任が「✓」の代わりに「☆」を間違っている問題に付けるようにした。
その後、親からは「☆があるって喜んでいます」という報告が入る。
事例の状況は、問題を間違えたときに生じる怒り、不満、悲しみなどの不穏感情をどうやって納めていくかが重要な場面なのですが、不穏感情そのものが生じないように現実を加工」していることがわかりますね。親がわざわざ「✓を付けないでほしい」と学校に要求していることから家庭での関わりとして、子どもの耳が痛い情報を遠ざけていた可能性が考えられますし、不快な情報に直面したときの苦しさを関係の中で納めてこなかった歴史が透けて見えます。
加えて、私は学校が「✓」を「☆」にしたのも問題があると思います。もちろん、親との関係など色々な事情があったわけですが、やはり他の児童と同じように間違った問題には「✓」を付けて、それによって生じる不快感を教師など周囲の大人との関係性で納めていくという体験を子どもに積ませてあげることが大切です。
でも、もしかしたら「そんなのは厳しすぎる」「小学生なら仕方ないだろう」という人もいるかもしれませんね。そこで、次の事例です。
「私を当てないでください」という女子高生と母親
【事例2:私を当てないでくださいと訴える高校生】
高校一年生の女子生徒。授業で教科担任が順番に当てていき、その女子生徒も当てられたが答えられなかった。授業後、女子生徒が教科担任の前に来て「私を当てないでください」と訴えてくる。教科担任は、他の生徒も同じように当てているので一人だけ対応を変えるわけにはいかないこと、一人だけ当てないのはむしろ不自然になってしまうのではという懸念を伝える。女子生徒はその場では引き下がるが、その日の夕方、女子生徒の母親から学校に電話があり、「うちの子を当てないでください」と要求してくる。
こちらは高校生の事例ですが、先ほどの事例とほぼ同じ内容になっています。同じ内容であっても、年齢が上がるだけでずいぶんと印象が変わってくるのではないでしょうか。私が事例1のような小学生の「✓を付けられたくない」という反応に危惧を覚えるのは、そして、一歳過ぎという幼い頃から「世界からの押し返し」を重視するのは、高校生以降の年齢になっても「ネガティブな自分を認められない」という状態の人を見ることがあるためです。
ネガティブな部分を認めるには「こころの強さ」が必要
「ネガティブな自分」に出会ったとき、それも「自分の一部だ」と認めるにはそれなりの「こころの強さ」が求められます(こうした「こころの強さ」を心理学では「自我強度」と呼んだりします)。この「こころの強さ」は、もともと備わった能力も影響しますが、小さい頃からその年齢に合わせて「心理的衝撃」を経験し、その「心理的衝撃」を身近な大人との関係の中で納めているという連続した体験群も重要になります。
「心理的衝撃」と聞くと大袈裟な印象を受けるかもしれませんが、たいしたことではありません。その年齢の子どもの大半がするような失敗を体験してもらうというだけのことです(例えば、よちよち歩きの子どもが転ぶような体験です)。事例2における「先生に当てられて答えられない」という状況は「その年齢の子どもが自然の流れで経験する心理的衝撃の一つ」だと言えるでしょう。
特定の科目で体調不良になる小4女子
こうした「ネガティブな自分を認められない」という特徴があったとしても、学校をはじめとした社会的な場にある程度は適応して留まることができているのであれば、それほど問題視する必要はないかもしれません。ですが、この特徴が発端となって不登校に至る事例が最近は増えてきています。
【事例3:特定の科目で体調不良になる】
小学校四年生の女子。学力は平均的。進級後、ある科目のある単元でつまずき、その科目の前の休み時間に腹痛を訴えることが多くなる。次第に、その科目が時間割にある日の朝に行き渋るようになる。担任が母親にそうした状況を伝えたところ、「本人が嫌がったら休ませてください」という対応を望む。早退が増えるので、遅れのなかった科目や単元にも苦手意識が出てきたり、行事の練習に参加できないことが多くなり、それがまた早退や欠席の理由になってしまっている。
こうした「ネガティブな自分を認められない」ために、その状況を回避していると見立てられる場合には、安易に「ゆっくり休ませる」という方針を選択するのは考えものです。状況を回避するという判断をする場合、その状況は一過性のものだから回避するだけで済むのか、回避することで更なる問題を呼び込むのか、きちんと見立てておくことが重要です。この事例においては、状況を回避した先にあるのは更なる「自分がうまくできない状況」になりますから、早退や欠席が増加するのは当然と言えば当然の結果と考えられます。
「ネガティブな自分を認められない」が不登校の低年齢化の一因に
近年、不登校の低年齢化が指摘されています。
私は不登校の低年齢化の要因の一つとして、この「ネガティブな自分を認められない」という特徴があると予測しています。
小学校一年生のような、新しい社会に参入する場合、すでにお話しした「思い通りにならない状況への拒否感」の強い事例が多く見受けられます。問題はそれにとどまらず、子どもが学校に慣れてきて、勉強が本格的になってくると「勉強がわからない」という場面が出てきます。こうした「勉強がわからない」という状況は、そのまま「ネガティブな自分」に向き合う体験になりますが、この体験への耐性が不十分なまま小学生になった子どもが多くなっているのです。特に、小学校三年生から四年生ごろになると学習内容の質と量が上がるため、学習面の苦手さを感じる子どもが増え、そこから登校の難しさにつながる事例が見受けられます。
最近の不登校は勉強への意識が低い事例が多い
かつての不登校では、成績に問題はなく、勉強もするという事例がそれなりに存在しました(現在もそういう不登校の子どもは少数ながら存在します)。ですが、「ネガティブな自分を受け容れられない」という不登校の場合、成績は事例によって差がありますが、勉強に対する意欲が低い事例が非常に多いと感じます。
もっと詳しく言えば、「ネガティブな自分を認められない」という特徴をもつ子どもの場合、元々の成績は良かったり、教師からも「頭が良い」と評される子どもも少なくありません。しかし、彼らは「わからない問題」に出会ったときの心理的衝撃を回避しようとするため、その心理的衝撃に耐えつつ粘って問題を解くことをしません。「わからない問題」に向き合って解いていくためには、どうしても「その問題が解けないネガティブな自分」に触れることが求められるわけですが、それが彼らにとって「苦しくて苦しくてたまらない」のです。ですから、彼らは「元々頭が良くても、成績が下がってくる」という憂き目にあってしまいますし、そういう「低い自分」のあり様を認めること自体がまた「苦しくて苦しくてたまらない」わけです。
学びの前提は「未熟であることへの不全感」
思想家・武道家の内田樹先生は「自分の無知や幼児性が自分の成熟を妨げているのではないかという漠然とした不安」が学びの起動になると述べています。自分の未熟さに苦しんでいる人だけが導き手(先生や師匠など)に出会うことができ、その出会いによってそれまでの価値観や世界観がリセットされ、ブレイクスルーが起こる。そうやって「学び」は起動するのです。
これは考えてみれば当たり前のことです。「自分は未熟だ」という前提を抱えられない人は、未熟じゃないわけですから学ぶ必要が無いわけです。「自分は未熟だ」という認識を持つことによって、何ができていないのか、どこを改善すればいいのか、どういう手段が必要なのかを現実的に考えていくことができます。
「学び」の流れ
学びの意欲を語るときに「理解できたときの喜び」を挙げる人も多いのですが、この喜びが意欲として機能するのも、あくまでも「未熟であることへの不全感」を感じている人になります。自分の未熟さに漠然とした不安を感じている。不安を解消するために、何かを学んだ結果、未熟さが解消され、目の前が拓かれるような感覚を持つ。これが「学びの流れ」です。もちろん、いったん未熟性が解消されたとしても、今度は「一段階成熟したからこそ見える未熟性」がまた目の前に立ち現れることになります。この繰り返しの体験群が「学び」であるというのは、勉強に限らず、あらゆる成長の機会に共通するものです。
自身の未熟性から目を逸らしてしまう…
私が危惧するのは「ネガティブな自分を認められない」という状態になると、こうした「学び」の基本的な過程自体が生じなくなるということです。
「ネガティブな自分を認められない」とは、言い換えれば「自身の未熟性から目を逸らす」ということです。自らの未熟性から目を逸らす人にとって、学校は「未熟であるという不全感」を解消する場ではなく「耳にしたくない情報を与えられる」ところになりますし、教師は「未熟であるという不全感から解き放ってくれる導き手」という尊敬の対象ではなく、「不快な情報を送ってくる人間」に成り下がってしまいます。
不登校の要因として「学校が面白くない」「勉強ばかりさせられる」といった意見も耳にします。そのために学校は「魅力ある学校にしよう」「わかりやすく教えよう」「子どもが自らの学習内容を選択できるようにしよう」などとあの手この手を打っています。
もちろん、そのような学校側の工夫は大切ですが、「学びの受け手」である子どもたちの「学びに対する基本的なスタンスの問題」が学びの意欲を阻んでいる可能性を冷静に考えてみる必要があるのではないでしょうか。
子どもたちが抱く「万能的な自己イメージ」
さて、「ネガティブな自分を認められない」というあり様について、もう少し詳しく考えていきましょう。なぜ彼らは「ネガティブな自分」に触れることが、それほどまでに苦しいのでしょうか?
「ネガティブな情報」を送られた経験が少なかったり、「ネガティブな情報」を送られたときの不快感を大人との関係で納めていくという経験をせずに育った子どもは、自分に対するイメージを創り上げていくときに、「失敗のない」「叱られるようなことのない」「いろんなことが上手くできる」などのような良い面だけで自己イメージを構成することになってしまいます。「ネガティブな情報」が少ない自己イメージは、どうしても「現実の姿」よりも優れたものになりやすく、子どもは「現実の自分よりも良い自己イメージ」を抱えることになるのです。
※参考
内田樹(2018)「学びとは「不全感」より始まる」
全国不登校新聞社(編)『学校に行きたくない君へ』ポプラ社(pp199–220)