※本稿は、成田奈緒子『子育てを変えれば脳が変わる こうすれば脳は健康に発達する』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
脳が育たない子育ての典型
子供のためと思いきや、実は逆効果になっていることがあります。
たとえば、共働きのご夫婦は「子供に十分に手をかけられていない」という罪悪感から、休日にたくさんの「おけいこ事」をさせてしまうことがあります。
「専業主婦なら、私がもっと色々教えてあげられるのに」
「これでは小学校に入ったあと、勉強が遅れてしまうかもしれない」
と焦って、外注で脳育てをしようとするわけです。
しかし、これは「脳が育たない子育て」の典型例です。
子供はただ寝かせる、起こすだけでいい
からだの脳を育てるには五感を繰り返し刺激することが重要です。
朝の光を浴びる、夜は真っ暗にして早く寝る。
同じ時間に3度のごはんを食べる。
子供の顔を見て表情豊かに、明瞭な声で語り掛ける、など。
これらの刺激はすべて、日々の「生活」を通して行われます。
平日は保育園に任せるしかないとしても、週末や休日はお父さん・お母さんがそれを行えるチャンスです。その貴重な時間をおけいこ事に費やしてしまうのは、子供を疲れさせるだけで、何のメリットもありません。お金も時間も、非常にもったいないです。
我が家の場合、お金を払うのは塾や教室ではなく、ベビーシッターさんでした。
娘の幼少期は夫が単身赴任中で、私も仕事で多忙とあって、夜、なかなか早くは帰れない日がありました。そんなときはベビーシッターさんに面倒をみていただきました。
そのときももちろん、「夜8時就寝」は厳守。でもそれ以外に、娘に何かを学ばせたり、習わせたりしたことはありません。
5歳までの子供は、ただ寝かせる、起こす。これだけでいいのです。
わざわざ新しく用事を増やさずとも、むしろ増やさないほうが、からだの脳の成長が促されます。
教育熱心なお父さんたちの誤解
近年、育児に参画する男性が増えているのはとても喜ばしいことです。母親の負担が減ること、子供が父母双方と密なコミュニケーションをとれることなど、その効用は計り知れません。
しかし一方で、育児に積極的な「意識高め」の男性にはときどき、子育てを誤解している方がいます。
子育てを、「学習」「教育」とイコールだと思っているのです。
たとえば、先ほどお話しした「習い事のハシゴ」も、お母さんではなく、お父さんの方針で行っているケースをよく目にします。
「お受験」に熱心なお父さんも増えています。母親は「子供はのびのび育てればいい」と思いつつも、夫の熱量に押されてしぶしぶ従う、という構図もよく目にします。
教育熱心なお父さんたちは、子供が小さいうちから「知的なこと」に触れさせなくてはならない、と思いがちです。
1970年代の「早期教育ブーム」以来、日本では教育の開始を過剰に早く始めたがる親が、どの世代にも一定数います。「最初の5年で才能が決まる」といったフレーズに急かされ、子供を勉強やスポーツなどに駆り立てるのです。
そこにはしばしば、親が、自分が叶えられなかった夢を子供に託す「リベンジ」の心理が働いています。自分より良い大学に行かせるためにせっせと塾に通わせたり、自分が習いたくてもできなかったピアノをやらせたり。
ちなみに、高学歴な親でも「リベンジ」に走ることは珍しくありません。
一流商社で働いているお父さんのリベンジ
一流大学を出て一流商社で働いているお父さんが、「自分は、本当は医者になりたかったのになれなかった」「だから子供はぜひ医学部に入れたい」と、毎日会社から帰った後、子供の横に張り付いて猛勉強させていた例もあります。
これが、子供を無視した子育てであることは明らかです。子供に自分の希望を叶えてもらおうとするのは、子供に依存し、かつ子供を支配することです。
この手の「早すぎる教育」を強いられた子供は、幼児期~学童期ごろまではおおむね成績優秀で従順ですが、その後かなりの高確率で、うまくいかなくなります。思春期を迎えるころ、成績の伸び悩みや人間関係トラブルに見舞われ、引きこもりや非行に走ることが多いのです。親に対しても、通常の反抗期のレベルを超えた、「断絶」に近いほどの拒否反応を示す子もいます。
「教育」は、そのようなリスクをおかしてまで行うべきことでしょうか?
「いい教育を受けさせるのが『子育て』だ」という誤解から、一人でも多くの親御さんが抜け出すことを願うばかりです。
何代もの親子を振り回す「愛情」というワード
間違ったアプローチをする親に、もちろん悪気はありません。みな、子供のためを思ってしていることです。
「子供のために自分の時間を削るのが愛情だ」
「お父さんの帰りを待って、コミュニケーションを持たせるのが愛情だ」
「早くから教育を受けさせるのが愛情だ」
と、皆さん思っているのです。
この「愛情」というワードは厄介です。愛情自体は素晴らしいことですが、何をもって愛情とするかの解釈は、ひとりひとり違います。日本における子育て論は、かれこれ50年以上も、客観的な指標なしに「愛情を注ぐべし」と世の親に言い続けてきました。
その端緒は、1960年代にあります。イギリスの精神科医・ボウルビィの「愛着理論」を下敷きとした「三歳児神話」というものが、日本の親たちの間で熱く支持されました。3歳までは母親がつきっきりでスキンシップをとるべし、という「掟」を守って生きたお母さんたちが、「愛情」にとらわれた第一世代です。
彼女たちは、高度経済成長期における「モーレツ社員」の妻たちです。サラリーマンとして働く父親と、家事育児に専念する母親という組み合わせが、当時はもっともポピュラーな家族のかたちでした。
その子供たちは、現在40代~50代を迎えています。興味深いのは、2000年代以降にさかんになった、いわゆる「毒親本」の著者が、だいたいこの世代に該当することです。母親の愛情が重かった、何かにつけて束縛された、過保護にされて苦しかった、といった恨みつらみが、大人になってから噴出した形です。
子供たちがひずみを見せ始めている
一方でこの世代も、自分たちが思うところの「愛情」を子供たちにかけています。
彼らが親になった平成期は、お受験ブームに象徴されるように、教育と愛情が分けがたく結びついた時代です。しかし、教育熱心な親に育てられた子供たちが道を踏み外しやすいのはすでに述べた通りです。10代後半~20代となった子供たちがそのひずみを見せ始めたことで、教育偏重の育て方の弊害も顕在化しています。
では、これからの世代はどうすべきか。現在子育て進行中のお父さん・お母さんが注ぐべき「愛情」とは何か――ここまで読み進めてこられた皆さんなら、もうお分かりでしょう。
最初の5年間に必要なのは、大人の我慢と根性
私はよく、乳幼児の親御さんたちに「とにかく、我慢して待とう」と言います。
早くから「お勉強」の類を身に付けさせたいという思いをぐっと我慢して、最初の5年間はひたすら、早く寝て早く起きられる脳をつくることに専念しよう、という意味です。
最初の5年は、この本でお伝えするシンプルな子育ての中で唯一、「根性」が必要な時期です。「早く寝かせよう」と口で言うのはたやすいですが、実際に子供が生活リズムを身に付けるまでは、それなりに労力がかかります。
それは、生まれたての赤ちゃんという無力な存在を、「原始人」レベルに育て上げるプロセスとも言えます。
「原始人に育てる」とは、日の出とともに活動を開始し、日没とともに休息するという「昼行性動物」の基礎を備えさせることです。文字通り原始的ではありますが、これこそが生きる力の源。「人間未満」の状態からそれを備えさせるのは、かなりの大仕事です。
しかしこの時期さえ乗り切れば、もう根性は要りません。
「子育ては、後になるほどラクで、楽しくなる」。これも、よく親御さんに語っていることです。
こう言うと「逆では?」と感じられる方がいるかもしれません。
私は2014年より親子支援事業「子育て科学アクシス」を主宰し、子育てに悩む方々の「脳育て」をサポートしていますが、こちらに来られる親御さんからも、「昔はかわいかったのに、どんどん生意気になって」「5歳のころに戻ってほしい」と嘆く声をよく聞きます。
しかしそれは――厳しい言い方になりますが、子供を「ペット」のように見ているせいかもしれません。大人の思うがままに動いてくれることを「かわいさ」だと思っている親は、本人に自我が芽生えてくるに従い、落胆や苛立ちを覚えがちです。それは子供を別個の人格として尊重していない、ということではないでしょうか。
5歳までは別段かわいくはない
私に言わせれば、5歳までの子供は、別段かわいくはありません。原始人ならではの「面白さ」は始終感じますが、文明人たる大人と通じ合う部分はわずかです。
そんな子供が、近代人、現代人へと「進化」をとげていくのです。そのさまは一種感動的とさえ言えます。
ですからまずは我慢と根性で、子供を「立派な原始人」に育て上げましょう。
からだの脳という、「生きる力」の基盤を堅固に備えさせ、その後の目覚ましい変化を待ちましょう。我慢と根性の後には、「楽しい子育て」が待っています。