漫画やアニメでも人気の呪術バトル。史上最も有名な陰陽師である安倍晴明はどんな術を使っていたのか。祭祀・呪術の研究者で、佛教大学歴史学部教授の斎藤英喜さんは「式神の術を使ってカエルを殺したという逸話も残る安倍晴明だが、実際には仕えた藤原道長や頭中将・藤原実資のために、呪われたとき、それを解除する儀礼を行っていたようだ」という――。

※本稿は、斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

「不動利益縁起絵巻」に描かれた安倍晴明、南北朝時代
「不動利益縁起絵巻」に描かれた安倍晴明、南北朝時代(東京国立博物館蔵) 出典:国立博物館所蔵品統合検索システムを加工して作成

安倍晴明が創出した「陰陽道」とは何か

テレビや映画、小説、マンガでも大活躍する陰陽師・安倍晴明の名前は、いまや知らない人はいないだろう。平安時代で知っている人の名前は? という質問に「安倍晴明」と答える中学生も多いという。

けれどもその歴史的な実像を知っている人は、そういないだろう。彼はあまりに伝説に包まれた、神秘的なイメージが強いからだ。しかし安倍晴明とは平安時代の有名な人物たち、藤原道長や紫式部、清少納言たちと同じ時代を生きた実在の人物であり、「陰陽道」なるものの創出も、じつは安倍晴明と深い関係があったのだ。

陰陽師・安倍晴明が繰り広げた陰陽道の祭祀さいし、占い、呪術の現場へと迫ってみよう。

物語のように貴人に仕掛けられた呪詛を祓っていたのか

呪詛、呪い、調伏……。その言葉を聞くだに身の毛もよだつような禍々まがまがしく、おぞましい禁断の呪術は、安倍晴明をめぐるエピソードには欠かせない話題であろう。もちろん、物語や説話のなかの晴明は、呪詛を仕掛けられた貴人の身を守り、呪詛を祓う役回りだが、では同時代の史料のうえでも、そうした晴明の活動は見いだせるのだろうか。また呪詛を除去し祓う儀礼はどのように行われるのだろうか。

たしかに晴明が仕えた藤原実資さねすけや道長といった貴族たちの身辺で起きた呪詛事件(とくに道長には)は、多数確認されている。一方、呪詛祓えについては、清少納言『枕草子』の「すそのはらへ……」が有名なところ。陰陽師が賀茂川(鴨川)の河原に下りて呪詛の祓えを行っているのは、貴族たちにとって日常的な風景であったのだろう。

晴明も天延てんえん2年(974)6月に「河臨御禊かりんごけい」に携わった記事があるが、これは典型的な呪詛祓えであったようだ。また寛和かんな元年(985)4月19日に、藤原実資の妻の産期が過ぎたのに出産の兆しがないので、晴明が「解除」という儀礼を行っている。出産が遅れている場合は、呪詛の可能性があった。生まれた子が女子ならば天皇のもとに入内じゅだいし、父親が外祖父になる可能性があるからだ。権力者の出産は、きわめて政治的な意味をもつのである。

藤原実資の妻の出産が遅れ、晴明が「解除」の儀礼を行った

たとえばこんな例がある。晴明が生まれる以前の時代、延喜3年(903)のこと。醍醐天皇の女御・穏子おんしの出産が遅れたので占ったところ、殿舎の板敷きの下で白髪の老女が折れた梓弓あずさゆみを使って「厭魅えんみ」をしていたことが発覚した。梓弓とは、死霊降ろしなどで使うシャーマニックな呪具。厭魅とはヒトカタなどを使う呪詛法のことだ。出産が遅れたときに晴明が行った「解除」も、こうした呪詛への対処、祓えと見てまちがいないだろう。

ところで「解除」とは陰陽師の行う祓えのことで、もともとは呪禁道じゅごんどう系の呪術をさす用語であったようだ。古代中国では刀杖を使って鬼神を駆逐することを「解除」と呼ぶ。だが、平安時代の史料に出てくる「解除」は、呪詛が掛かったときの祓えの場合が多い。

たとえば寛弘かんこう9年(1012)、(編集部註:藤原氏の館がある)東三条院で「厭物」が発見され、晴明の息子の安倍吉平、保憲の息子の光栄が協同して「解除」を行っている。

晴明は道長や彰子に呪詛をかけた陰陽法師と対決していた

ではこうした呪詛を仕掛けるのは誰なのか。たとえば、法成寺ほうしょうじに出かけた藤原道長に仕掛けられた呪詛を安倍晴明が察知して、道長を助けるという、有名な話がある。このとき呪詛を仕掛けたのは、堀川左大臣藤原顕光あきみつから請け負った「道摩どうま法師」という人物であった。呪詛が発覚したために道摩法師は故郷の播磨国に追放となった。

この話の舞台となっている「法成寺」の建立は晴明の死後なので「史実」ではないが、道長に呪詛を仕掛けた「道摩法師」は、後に「蘆屋道満あしやどうまん」の名前で、晴明のライバルとして仮名草子や浄瑠璃、歌舞伎などにも登場してくる、有名な敵役である。晴明に弟子入りしながら、晴明の妻と密通し、晴明を謀殺してしまう悪役だ。これまで「蘆屋道満」あるいは「道摩法師」は、フィクションの人物とされてきたが、歴史学者の繁田信一氏の研究によれば、この人物が史料のうえに登場してくることが確認されている。

晴明の死後、寛弘6年(1009)の2月、一条天皇の中宮・彰子しょうし、第二皇子の敦成あつひら親王、そして道長にむけた呪詛事件が発覚した。その経緯は『日本紀略』や『百錬抄』などの史料から円能えんのう源念げんねんという「陰陽法師」が関与していることがわかったが、さらに『政事要略』巻71に収録されている寛弘6年の呪詛事件の「罪名勘文」(裁判記録)には、陰陽法師のグループのなかに、なんと「道摩法師」の名前が出てくるのだ。蘆屋道満はまったくのフィクションではなかったようだ。

歌川国貞作「芦屋道満大内鑑」の芦屋道満、江戸時代
歌川国貞作「芦屋道満大内鑑」の芦屋道満、江戸時代(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

紫式部や清少納言も書き残した「陰陽法師」の存在

ここからは、平安貴族社会において呪詛を請け負う「陰陽法師」あるいは「法師陰陽師」と呼ばれる集団がいたことがわかる。道摩法師が播磨出身だったことから、同国には多数の「陰陽法師」がいたらしい。そもそも僧侶たちこそが、「陰陽道・前史」の段階では「陰陽」「暦」「天文」の担い手であったのだから、彼らのなかに「陰陽師」の呪術、占術に長けているものがいるのも、なんら不思議ではない。

斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)
斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)

それにしても「陰陽法師」または「法師陰陽師」とは、いかなる存在なのか。そう、言葉のとおり法師でありながら陰陽師の仕事をしているものである。たとえば『今昔物語集』には、「陰陽師をる法師」、すなわち僧体の陰陽師たちが複数登場している。それは陰陽寮とは無関係な、民間や地方に在住する陰陽師であった。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、紙の冠を被って河原で祓えをしている法師陰陽師が、妻子を養うためにやむを得ず行っていると弁解するエピソードが載っている。また『春日権現験記絵』には、法師陰陽師らしい人物の姿が描かれている。

彼らが呪詛の請け負いだけではなく、祓えにも携わっていたことは、清少納言『枕草子』の「見苦しきもの」のリストのなかに、「法師陰陽師の、紙冠して祓したる」ことが出てくるし、あるいは『源氏物語』の作者の紫式部の歌集『紫式部集』の「……法師の紙を冠にて、博士だちをるを憎みて」という題詞のついた歌からもわかる。

裏で「呪い」も請け負う陰陽法師たちを貴族女性は嫌った

晴明クラスの上級陰陽師を雇うことができない中下級の貴族たちは、法師陰陽師たちを雇って祓えをしてもらっていたことが繁田氏の研究によって明らかになった。そうした光景が日常的に見られたのだろうが、紫式部や清少納言などの貴族女性たちの目には、嫌悪や軽蔑の対象でもあったようだ。法師陰陽師たちが、裏では「呪詛」を請け負うことが、彼らの常識となっていたからだろう。

それにしても、なぜ陰陽寮官人とは別に僧侶たちが「陰陽師」の仕事をしたりするのだろうか。それは晴明のような「陰陽師」が、陰陽寮という公的な役所機関を離れたあとも、自前の「陰陽師」として活動して、それが貴族社会に受け入れられる時代になったことと対応するだろう。法師陰陽師とは、じつは晴明たち「職業的陰陽師」のもうひとつの姿、裏の姿であったともいえよう。そして、彼ら法師陰陽師の末裔まつえいたる民間の陰陽師たちこそが、晴明伝承を語り伝えたものであった。