食品業界トップの教育研修費
「人への投資」が叫ばれ、今年春の賃上げが注目されている。それと並んで重視されているのがリスキリング(学び直し)などの社員の教育研修投資だ。
産労総合研究所の調査によると、従業員1人あたりの研修費用の平均は3万2412円(2022年度)。20~21年は3万円を割ったものの、この10年は3万円超から4万円弱で推移している。また、上場企業に限定した東洋経済の調査(『CSR企業総覧(雇用・人材活用編)』2023年版)の2021年度の全体平均は5万6627円となっている。
上位100社のランキングにはトップの三井物産の46万円、2位の野村総合研究所の40万5000円と破格の研修費用を投じているが、14位に食品業界トップのサントリーホールディングスの23万円がランクイン。そのサントリーの2022年度の1人あたりの教育研修費用は30万1000円(サントリーHDとサントリー食品インターナショナルの計約7000人)と、前年度を大幅に上回っている。もちろん金額の多寡だけで社員の人材育成にどれだけ熱心であるかはわからないにしても、一つの指標には違いない。
新浪社長自ら学長を務める「サントリー大学」の全貌
サントリーの人材育成の中核となるのが、同社ホールディングスの新浪剛史社長が学長を務めるサントリー大学だ。新浪社長といえば、今年春の賃上げで定期昇給分を含む7%の賃上げをめざすことを表明するなど、人材への投資に積極的だ。サントリー大学は全世界を含むグループ内の企業内大学として2015年に開校。世界の社員約4万人を対象にe-ラーニング、通信教育、応募型研修などを展開し、そのコンテンツは約8万4000にも上る。
従来の新入社員研修や新任マネージャー研修などの階層別研修はもとより次世代経営者研修、企業理念の浸透を目的とした森林整備体験、福祉施設訪問をはじめ、リベラルアーツ教育にいたる幅広い研修メニューを揃えている。さらに経営課題を意識した「グローバル学部」「デジタル学部」「100年キャリア学部」を設け、学部内の多様な講座を社員の誰もが自由に選んで受講できる。
AIが適した講座を紹介してくれる
社員はイントラネット上の「MySU」(マイエスユー:My Suntory University)から、大学内の学習コンテンツにweb上でアクセスできる。
同社ピープル&カルチャー本部の長政友美部長は「最初の登録の段階で、マーケティングやファイナンスなど自分が伸ばしたいスキルやレベルをいくつか選ぶと、AIがお勧めのコンテンツを紹介し、学べば学ぶほどAIが学習し、その人に合った内容の講座を紹介してくれます。また、SNSに似た機能もついており、自分がフォローしている人から新たなコンテンツを紹介してもらったり、利用者同士でラーニンググループをつくり、学習内容の共有化など学びを深める効果もあります」と語る。
また、マネージャーは自分の部下がどんな領域に関心があるのか、部下の学習状況を一覧で把握できる。「メンバーの志向や学習の進捗状況を見た上でタイムリーに的確なアドバイスもできる」(長政部長)。23年10月にリニューアルしたMySUの利用者は世界で約1万4000人(23年12月末時点)に上り学びへの関心は高い。
50歳以上の社員全員に生成AIの研修を実施
さまざまなプログラムの中でとりわけ注目を引くのが中高年の学び直しに注力している点だ。他の企業では伸びしろのある20~30代の教育を重視する傾向があるが、サントリーは若年層だけではなく、中高年層のリスキリングにも意欲的だ。その典型が新浪社長肝いりで23年11月にスタートした50歳以上の社員必須の生成AIの研修だ。
「年齢に関係なくデジタル領域の学習は今後重要になると考えているため、50歳以上の社員全員が受講する生成AIの研修を始めました。最初は導入編として、どういう利用の仕方ができるかを学び、実際に使ってみるところからスタートし、今年は興味を持った人向けのコースを追加します。50代以上が生成AIを使えるようになれば、短縮勤務でも同質の仕事ができるようになり、仕事の幅が広がるかもしれません」(長政部長)
65歳定年の先を見据えたキャリアデザインが必要
サントリー大学の学部の1つである「100年キャリア学部」は23年4月に設立。40代以上をメインターゲットに自らのキャリアをデザインするマインドセットとスキルセットの獲得を支援する目的で設立されたものだ。
長政部長は「人生100年時代になれば80歳ぐらいまで働く人が増えるなど、キャリアや職業人生も長くなります。当社は65歳定年ですが、ここで終わりではなく、その先を含めて自分のキャリアをデザインし、そのために必要なスキルを身に付けながら、アップデートしていくことが求められますし、それを支援するのが学部の目的」と語る。
学部の講座はキャリア自律やメンタルタフネスなどのマインドセットの講座や、資格取得などのスキル学習だけにとどまらない。社内で活躍し続けるシニアの事例紹介や業務外で社外のNPO法人業務に携わる「越境学習」、地方自治体にミドル・シニア社員を2年間出向させる「地方創生人材制度」の紹介や体験記も掲載するなど多彩なコンテンツを揃えている。さらに関心のある人はデジタル学部など専門的知識も自由に学ぶことができる。
ただし、どれだけ豊富なメニューを揃えても目の前の仕事に忙しく、将来のキャリアを考える余裕のない人もいれば、今さらリスキリングなんてと敬遠する中高年も少なくないだろう。そんな人たちを誘導するのが同社の「キャリアワークショップ」だ。人事部内のキャリア推進センターが主催し、入社3年目と10年目、43歳と58歳等の節目に社員全員が自分自身のキャリアを考えるワークショップを受講、その後キャリアコンサルタントの資格を持つ社員の個別面談を受けるなど、全員がキャリアオーナーシップを持てるような機会を提供している。
43歳の社員に実施する重要な研修
実は以前は53歳になった社員を対象にしていたが、10歳前倒しし、2021年から43歳時に全員を対象に実施することになった。なぜ43歳なのか。その理由について長政部長はこう語る。
「社員のキャリアが多様化するなかで53歳では遅すぎると考え、もっと早い段階で先々を見据えてキャリアや人生について考える機会を設けることが必要と判断し、折り返し時点の43歳にしました。マネジメント職に就いていてポストを退く方、プレーヤーとして50代を迎える方など、50代社員のキャリアはさまざまですので、最適なタイミングとして43歳での実施としました」
43歳のキャリアワークショップでは、今までの自分のキャリアを振り返り、モチベーションの源泉について考える外部講師によるマインドセットのセミナーを受講。その後、自社のキャリアコンサルタントによる1対1の面談を通じて後半の人生をどのように歩んでいくか、そのために何を学ぶ必要があるのかを考える。その際に100年キャリア学部の講座を紹介し、学習したい講座を自ら選んでもらうなど、自主的な学びに誘導する仕組みになっている。
なぜ、定年後のキャリアのことまでサポートするのか
多くの企業では中高年のリスキリングの優先順位は低いが、定年後も見据えたキャリア形成の支援を行うことに企業としてどんなメリットがあるのか。長政部長はこう語る。
「若いときはそれこそ昇進をめざして先に進みたいという思いもありますが、40代半ばになると、この先何をめざすべきなのかがわからず、人によっては仕事に対するモチベーションが下がることもあるかもしれません。そのときに自分と向き合い、やりたいことを見つけて社員一人ひとりが進化していくことは会社にとっても大事なことです。サントリーを卒業するまでだけではなく、その先を含めて生き生きと働きたいという社員がいることは会社にとってもプラスになるはずだと考えていますし、そのためにも前向きにチャレンジし続ける環境をつくり応援していきたいと考えています」
大企業から地方自治体へ出向して見えたこと
キャリアワークショップ面談をきっかけに能力開発の大切さに気づいた一人が同社の上田俊二氏(62歳)だ。これまでにキャリアコンサルタントの資格を取得し、工場の人材育成などに携わってきた。2022年に「地方創生人材制度」に応募し、現在、岐阜県飛騨市役所に出向している。飛騨牛や長良川の鮎などの農産物をはじめ飛騨市の特産品を市外に紹介する「シティブランディングディレクター」を務める。仕事のやりがいについてこう語る。
「飛騨市の事業者の方と連携し、商品にどういう付加価値をつけて見せていくか、パッケージを含めて提案する仕事ですが、一番大事にしたのは市役所のスタッフや事業者の方との信頼関係を築くことです。サントリー時代は上司と部下という関係の中で仕事を進めてきましたが、今はそうした権限がないなかで横のつながりを大事にし、アドバイザーとして事業者のモチベーションを上げていく仕事にやりがいを感じています。60歳を過ぎて今後のことを考えると、こうした役割を経験できたことは私にとってもプラスになると考えています」
上田氏は65歳の定年後も見据えている。「今回、地方創生に携わり、地方の現場の裏側を支える仕事の経験をしながら、こういうものが必要だとか、こういう人材がいたらよいとか、いろいろなことを学ぶ機会をいただきました。定年後は地方創生という枠組みの中で自分にできる仕事があればやりたいと考えています。そのためにも残り3年間、サントリー大学など会社が与えてくれる機会を活用し、学びたいと思っています」
2022年の総務省「労働力調査」によると、就業者のうち45歳以上の比率が56%を占めている。いずれ50代以上が半数以上を占めるのは時間の問題だ。中高年層が自発的に学び、生き生きと働く仕組みをつくることは企業の持続的成長に不可欠な重要な課題となっている。