幸せで穏やかな人生を全うするには何が必要なのか。『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』が話題の現役トレーナー・ソネジュンコさんが、実家の倒産、がんの闘病を経て得た大事な気づきとは――。

※本稿は、ソネジュンコ『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。

幼少期は裕福な家庭で不自由なく育った

私は1952(昭和27)年、大阪市で生まれました。

新大阪駅
写真=iStock.com/Sanga Park
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日本が戦争から復興して高度経済成長期に入ったのが1955年ごろですから、日本の成長と歩みを同じくして大人になりました。

父母と私の下に弟と妹のいる5人家族です。

建設資材販売会社を経営していた父は、今思えば、かなりのやり手だったと思います。

1964年の東京オリンピックと同時に東海道新幹線を通す計画が持ち上がり、新大阪駅ができることになりました。

現在の新大阪駅といえば、父の会社があった場所です。駅ができるというので周辺の土地開発が始まり、地区開発審議会が発足することになりました。

そこで父は審議会の委員に立候補して、トップ当選を果たします。

父は若き日の石原慎太郎さんに似たイケメンで押しも強く、口も達者でした。思い切った決断もできる人だったので、「これは土地の価格が上がる!」と見込んで、新大阪駅周辺の土地をかなり大量に買っていたようです。

これがのちのバブル崩壊時に奈落の底へ転落するきっかけとなるのですが、それはまだ先のことです。

私の前半生は目端めはしが利いて商才のある父のおかげで、物質的には何不自由ない恵まれたものでした。

両親の前では「いい子」を演じていた

妻子に経済的な不自由をさせないという点では、父は立派に一家のあるじの務めを果たしていましたが、だからといって家庭人として立派だったかというと決してそうではありません。

ソネジュンコ『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)
ソネジュンコ『71歳、団地住まい 毎朝、起きるのが楽しい「ひとり暮らし」』(ダイヤモンド社)

きっと私と同じ年くらいの方ならご理解いただけると思いますが、何しろ父は大正生まれの「ザ・昭和の男」です。

「男は金を稼いで妻子を食べさせられれば上等。贅沢ぜいたくをさせられれば最上級」という意識の持ち主で、「たくさん稼いでくる俺様の意見が絶対。妻子は服従していればいい」と頭から信じて疑いませんでした。

だから、高校生になっても、私の門限は午後6時。

高校に入ってから繁華街で遊ぶことを覚えた私は、いつまでも友達と遊んでいたかったのですが、父が帰宅したときに私が家に帰っていないと、母が父にひどく怒られてしまいます。

何しろ「昭和の男」なので、カッとなったら妻に「お前のしつけが悪いからだ!」と手を上げるのです。

優しくて父に口答え一つしない母が、私のせいで殴られるのは忍びなく、自分の気持ちを抑えて両親の前では「いい子」を装わなくてはなりませんでした。

人とは違った進路を選びたい

やがて高校3年生になり、進路を選択する時期がやってきました。

当時はまだ女性の大学進学率が低い時代で、進学したとしても「文学部」を選ぶ人がほとんどでした。

ここで私の“人と違うことをしたい病”がむくむくと頭をもたげます。

71歳の現役トレーナー、ソネジュンコさん
撮影=川瀬典子
71歳の現役トレーナー、ソネジュンコさん

不動産業という仕事柄のせいか、父は法律に詳しく、仕事関係で家にやって来た人と法律関係の話をすることがありました。

内容はわからずともその話に興味を持っていた私は、「法学部」へ進学することにしたのです。

大学進学を理由に親元から離れて、東京でひとり暮らしをする気満々。珍しく親もそれに賛成してくれていたのですが、いちばん入試日程の早かった神戸の甲南大学に合格したとたん、手のひらを返されてしまいました。

「近場の大学に合格したんだから、もうほかを受ける必要はないだろう。東京にはやらない」という父の言葉で万事休す……。

従うしかありませんでした。

とはいえ、大学生活は満喫できました。

父の仕事がよりいっそう忙しくなり、ほとんど家に帰って来なくなったからです。そうなると、もう私の天下です。

ジャズボーカルに興味を持った私は、知人の紹介で、キャバレーやジャズバーに出入りして歌わせてもらうようになりました。

一方で、そのころデザイナーズブランドのブームが始まりました。オシャレをするのが好きな私は、見よう見まねで流行の最先端の服を手づくりするようになります。

昼は大学と服づくり、夜は遊びとジャズシンガーの活動と、毎日があっという間にすぎていきました。

同じ家庭環境の人との出会い

そんな大学時代、私はひとりの男性と巡り合いました。

彼は神戸の某老舗のひとり息子。生まれて初めて自分と同じ家庭環境の人とおつき合いしてみて、とても心が楽になるのを感じました。

いやみったらしく聞こえるかもしれませんが、ある時期、私はどうやら自分の家が裕福らしいと気づいたのです。

たとえば、大学生になると車の免許を取りに行く人が多いですよね。でも、免許を取りたての大学生の娘や息子に、「免許の次は車ね」とポンと車を買ってくれる家はそう多くないと思います。

ところが、私の家はその少数派の「免許の次に車をポンと買ってくれる家庭」だったのです。

今となってはとんでもない贅沢だと感じますが、当時の私は裕福な生活が当たり前になってしまっていて、「車の色が気にくわない。私に選ばせてくれればよかったのに」なんて思っていました。

本当に罰当たりな話です。

そんなことを堅実に生活している家庭で生まれ育った人には言えません。小娘の私にも、それくらいはわかりました。

ところが、彼には言えたんです。私と同じか、それ以上に裕福で、欲しいものはなんでも与えてもらってきた人だったからです。

そういう意味で、彼といるのはとても気持ちが楽でした。「この人とは価値観が合う」と感じたのです。

夏休みにはお互いの親が所有する別荘で過ごすなどして、ごく自然な流れで大学を卒業して半年後には結婚しました。

恵まれた結婚生活だったけれど……

新居は結婚相手の親が所有していた、神戸の一等地に建つ100m2以上ある広々としたマンションでした。

3人の子宝にも恵まれました。結婚相手は家事育児を手伝ってくれることはなかったので、それなりに忙しかったですが、基本的な生活は結婚前と何も変わってはいませんでした。

結婚して子どもが3人いる主婦になったというのに、なんと私は生活費がどこからどう出ているのかすら考えたことがなかったのです。

ちょっと生活費が足りないなと感じたら、「今月、お金ないの」と実家に駆け込んでいました。

どこに行くにも車を使っていましたが、ガソリン代を払ったこともありません。「ガソリン券」というのを持たせてもらい、支払いをそれですませていたからです。

30歳をすぎてもそんなことをしていたのですから、我ながら情けなくなってきます。

失恋
写真=iStock.com/Valentina Shilkina
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性格の違いに耐えられなくなっていった

そんなふうに何不自由なく過ごして、子どもたちもすくすくと育ち、順風満帆な結婚生活が続いていきました。

ところがそんな中で、私は結婚相手との関係に少しずつ違和感を覚えるようになったのです。それは相手も同じだったのではないかと思います。

結婚生活の中で私は、自分には衣食住すべてに「自分はこうしたい」というこだわりがあり、それを実行しないではいられない行動力の持ち主だということに気づき始めていました。

ひと言でいえば、常に何かを変えたい、変えていきたい、自分が変わり続けていたいという願望を持っているのです。それは今でも変わりません。

それに対して夫は、「これでいいじゃない」が口癖でした。私のすることに対して「なぜわざわざそんなことをするの?」と疑問に思い、納得ができないようなのです。

たとえば、こんなことがありました。

当時、私たちが住んでいたマンションのリビングには、比較的大きな扉つきの収納棚がありました。

その扉の裏側がむき出しのシナベニヤ合板で、私はそれがイヤでイヤでたまらず、ある日、ホームセンターでペンキと刷毛はけを買ってきて、ペールグリーンに塗ってしまいました。

結婚相手には、その私の行動がまったく理解できなかったようなのです。

なぜそのままではいけないのか、どうしてわざわざ塗る必要があるのか……さらに言えば、こんな気持ちもあったのではないかと思います。

「男の僕だってしないような、そんな手を汚すようなことを、なぜ女の君がしなくちゃならないのか」。

もちろん、これだけが原因ではありません。これと似たような無数の性格の違いが積み重なって、いつしか私は「ここにいては自分らしく伸び伸びと生きることができない」と感じるようになっていきました。

「普通の奥さんみたいにしていてくれ」

いろんな工夫をして、家の中や生活をどんどん変えていきたい。私自身も変わっていきたい。変わっていくからこそ人生は面白い。

そう思う私に対して結婚相手は「変わらないこと」をよしとする人でした。「このままで十分幸せじゃないか。何をそんなに変える必要がある?」というのが彼のスタンスだったのです。

本書で詳しく書いていますが、“自分らしさのオリジナリティ”が大切だと思っている私は、洋服もちょっと変わったものを好んでいました。

当時の私の交友関係は、いわゆる神戸の山の手の奥様方が中心でした。みなさんは、シャネルタイプのスーツや、ジュンアシダなどの上品なブランドに代表されるコンサバで、きちんとしたファッションに身を包んでいました。

ところが私ときたらそういうきちっとしたファッションよりも、モダンでとがったロックなファッションを好み、なおかつそれを自分流に気崩して着るのが好きだったのです。

もう見た目だけで周囲から「浮いてしまう」わけですね。

結婚相手からは「頼むから普通の奥さんみたいにしていてくれ」とくぎを刺されました。

17年の結婚生活に終止符

自分を責めた時期もありました。「普通の主婦になれない私が悪い」と思い悩み、結婚相手のいう「上品な奥様風の服」を着たこともあります。

でも少しも楽しくないばかりか、居心地の悪さばかりを感じるのです。いかにも借り物の服を着ている感じ。

そのことに気づいてからは、もう夫とは一緒にはいられないのだと実感するようになりました。

「もう無理かも」と感じ始めた1年後、私は結婚生活が確実に破綻に向かっていることを強く感じるようになり、夜も満足に眠れなくなりました。

「もう離婚するしかない」「でもこれは私のわがままでしかないのでは?」という心の葛藤を繰り返すようになったのです。

3人の子どもたちを父親から離すことには罪悪感を覚えずにはいられません。しかし、私はどうしても、自分らしく生きることを諦めることができなかったのです。

そうして17年間の結婚生活に終止符を打つことになりました。

離婚届
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子ども3人を連れて離婚

離婚をすることになって、子どもたち3人を連れて実家に戻った夜、私は久しぶりに熟睡することができました。

とはいえ、夜も眠れないほど悩んだ末の離婚を、「人生最大の挫折」と思い込んでいた私は、まだとてつもない“甘ちゃん”でした。

離婚後に住んだのは、会社を経営する父が所有していた150m2のマンションです。父が経営する会社の役員に名を連ねていたので、役員報酬が支払われ、それを生活費に充てていました。なんて恵まれていたのだろうかと思います。

とはいえ、妹や弟の手前、実家に戻ってきた姉がいつまでも親がかりでいるのはよろしくありません。

そこで以前から興味のあった整体の仕事をしたいと思い、見習いのアルバイトとして働き始めました。

この経験がのちに私の人生を支える屋台骨となることを、この時点ではまだ知るよしもありません。

マッサージの台
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頼りにしていた実家が倒産の憂き目に

バツイチで子ども3人の母子家庭とはいえ、実家が裕福であるがゆえに、経済的に困ることもなく、それまでと同じような暮らし方をしていた私ですが、2001年、ついに最大の試練が訪れます。

私の大きなよりどころであった父の会社が倒産したのです。

すでに父から代替わりして社長を務めていた弟から「とうとう会社がダメになった。姉さんの住んでいるマンションも売りに出すことになったから、1カ月以内に引っ越し先を見つけて出て行ってくれ」と言われたときの衝撃を、私は一生涯忘れることはないでしょう。

私には長男・長女・次女と3人の子どもがいますが、ちょうど末っ子の次女が高校に進学するタイミングでの出来事でした。

まさにこれから子どもにお金がかかるようになる時期に、それまで「あって当然」と思っていた後ろだてを完全に失うことになったのです。

それまで親の持つ財力にどれだけ依存してきたか、初めて突きつけられた瞬間でした。

お金がないことの切なさ

実は当時のことを私はあまりよく覚えていません。

ショックが大きすぎたことと、少しでもお金をつくるために売れるものは全部売るなど、1カ月以内に引っ越しをするためにしなければならないことが多すぎて、自分に考えること、覚えることをあえてストップさせたのではないかと思います。

その上、私は生来の見えっ張りときています。どんなにつらいことがあっても顔色一つ変えず、「私は平気よ」という顔をしていたいというのもありました。

イヤなやつですよね……。

でもそんなかっこつけのイヤなやつだからこそ、人生最大の局面、それも天国から地獄に突き落とされるような局面を、なんとかやり過ごせたのではないかという気もするのです。

そして自分の弱さを認めることが苦手で、どんなことでも乗り越えられる人間だと思っていたい私は、あえてつらい感情にふたをしてきたのではないかと思うのです。

今だから正直に言えます。あのときは本当につらかったです。

もの心ついてからお金の苦労を一度もしてこなかった私にとって、毎月当然のものとして入ってきていたお金が入ってこなくなるというのは、恐怖以外の何ものでもありませんでした。

49歳にして時間をすべて仕事に捧げる生き方に

もう49歳にもなっていたのですが、お金について、まったく自立できていないことに気づかされたのです。

お金がなくなるということは、頭ではわかっていたつもりです。

今まで住んでいた広々としたマンションに住めなくなるとか、車を手放さなくてはならなくなるとか……真剣に取り組んでいたつもりではありましたが、副収入のつもりでいた整体の仕事を生活のためにしていかなくてはならなくなる。

堅実な生活をしている人なら当然知っているはずのことを、私はまったく知らなかったのです。

実家が倒産したあとは、ただがむしゃらに前に進むしかありませんでした。

整体院に勤めるかたわら、すでに個人でお客様の施術もしていたのですが、それこそ子どもたちの用事があるとき以外、ほとんどすべての時間を仕事に捧げていたと言っても過言ではありません。

次に訪れた試練は末期寸前のがん闘病

幸いなことに勤めていた整体院で経験を積むことができ、多くのお客様に恵まれました。数年たったころ、円満に退職して独立しました。

仕事は一貫して上り調子でした。

縁あって東京にもごひいきにしてくださるクライアントが増え、出張施術メインの生活をしていたこともありますが、やがて本拠地を構えたくなって新大阪の駅前に大きなスタジオを構え、インストラクターを何人も育てるようになります。

仕事量に比例するようにお金がついてきたので、かつて住んでいたような高級マンションに住む余裕もでき、週に何日もランチやディナーの約束が入る日が続きました。

こと仕事に関していえば、着実に拡大路線を歩んでいたのです。

クライアントやインストラクター志望の生徒さんたちが喜んでくれればそれでいいという気持ちで、ひたすら仕事にまい進しました。

しかし「好事こうじ魔多し」というのは本当ですね。

2012年の秋ごろから、とても疲れやすくなってきたのです。元気だけがとりえで、前日の疲れなどどこへやら、毎朝、「さあ、今日はどんな1日になるだろう!」と、起きて活動を始めるのを楽しみにしていた私が、どういうわけか「いつまでもこうしてベッドに入っていたい」と思う日が続くようになりました。

ちょうど還暦の60(数え年61)歳を越えたということもあり、「年齢のこともあるし、たまった疲れが出る時期なのだろう」と思っていましたが、年が明けても一向に体調が優れません。

さすがに自分でもおかしいと思って病院で検査を受けたところ、「子宮けいがん」を発病していることがわかったのです。

しかも、がんのグレードは「IIIC」。末期の一歩手前で、すでにがん細胞が骨盤内に散らばっており、手術は不可能な状態にまで進行していました。

その後の人生を決める貴重な試練

どこまでも悪運が強いというべきでしょうか。投薬治療のかいあって、私は末期寸前のがんから生還することができました。

大きな試練ではありましたが、この経験は私にとって、その後の人生を決めるとても貴重なものだったと思います。

それまで私は人間関係や食生活、睡眠といった健康の維持に関係することに対して、最大限の努力をしてきたつもりでした。

でも大病をしてみて、その努力が本当は必要のない努力だったり、見当違いだったりということが多々あったことに気づかされたのです。

死の淵をさまよって気づいたこと

死の淵をさまよいつつも、再び生の世界に戻ってくることができた私は、「楽しく生き切ることが自分に課された使命なのではないか」と思うようになりました。

なにかトラブルが起こったとしても、「どうやったら楽しみながら乗り越えられるだろう」と考えるようにもなったのです。

もともと工夫するのが好きなこともあり、それまでの生活習慣を見直し、自分の心や体にいちばんフィットするように変えていくことにしました。それは、私にとって、とても楽しいことでもありました。

ご家族と同居している方にはちょっと申し訳ないのですが、その中にはひとり暮らしだからできたことが少なくありません。

いまは大阪市の郊外にある大規模な団地の一角で、1DKの賃貸住宅にひとり暮らしをしています。

ソネさんが一人暮らしをする1DK
撮影=川瀬典子
ソネさんがひとり暮らしをする1DK

自由気ままにいろんなチャレンジをして「あれ、失敗した」と思っても、影響が及ぶのは自分だけ。家族を巻き込んだり、迷惑をかけたりすることはありません。

ひとり暮らしだからこそ、堂々と失敗できるんです。失敗したら次にまたチャレンジすればいいだけですから、気楽なものです。

そんなトライアル&エラーの末にたどり着いたのが、等身大の71歳、ひとり暮らしの生活術です。

もちろんこれで完成ではありません。これからも私はどんどん生活に工夫をこらしながら変えていくつもりです。

だって、変化するのってすごく楽しいですから。

年をとるということは経験を重ねながら変わっていくということ。だから私は年齢を重ねることが少しも怖くありません。むしろ大歓迎なのです。

そんな私の生活の楽しみ方を、これからすべてお伝えしたいと思います。

みなさんにも知っていただき、参考にしていただければ幸いです。