2023年の大河ドラマ「どうする家康」が完結。徳川家康の生涯を描いた内容には賛否両論があったが、2016年の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者の黒田基樹さんは「『どうする家康』は、ここ20年で進んだ家康研究を反映しており、見応えがあった。築山殿の描き方も、大名の正室について調べた私にとってはドラマとして楽しめた」という――。
2023年5月5日、浜松まつりで行進する大河ドラマ「どうする家康」の家康役・松本潤
撮影=松島優喜
2023年5月5日、浜松まつりで行進する大河ドラマ「どうする家康」の家康役・松本潤

「どうする家康」には40年間の研究の進展が反映されていた

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康を主人公にしたものだった。家康を主人公としたものは、1983年の「徳川家康」以来であり、実に40年ぶりになる。私は前作をリアルタイムで視聴し(高校生だった)、いまではDVDで時折視聴している。今作についても毎回視聴し、Blu-ray BOX(まだ2巻までしか発売されていないが)を購入して、繰り返し視聴し、ドラマとして楽しんでいる。もっとも同じ家康の75年におよぶ生涯を取り上げているにもかかわらず、作品の内容は大きく異なっているところが多い。それはすなわち、この40年における家康をめぐる研究の進展によるといってよい。

前作の内容は、『三河物語』や『徳川実紀』といった江戸時代成立の史料が下敷きになっていた。それは江戸時代に作り上げられた家康像であり、それが現在でも通説として流布しているものになる。

ところが今作では、それら江戸時代に成立したエピソードについて、作劇上、効果的となるものはそのまま取り入れられているが、随所に近年の研究成果が取り入れられていて、大河ドラマ好きとしてだけでなく、一人の歴史学者として視聴しても、大いに見応えのあるドラマに仕立て上げられていると感じている。

家康像の再検証は20年前から、まだまだ研究は進んでいない

家康に関する研究は、実は現在でも十分に進んでいる状態にはない。50年ほど前までは『徳川実紀』を基にすれば、家康の生涯を把握できると認識されていた。ところが40年ほど前から戦国時代研究は、当時の史料を基に実像の解明がすすめられるようになり、それによって江戸時代成立の史料の内容には、事実にそぐわないところが多くあることが認識されるようになった。

そうして家康についても、20年ほど前から当時の史料に基づいた研究がおこなわれるようになったが、本格的に進められるようになったのは、ここ10年ほどのことでしかない。しかもその成果が、一般書として広く普及する状態にはいたっていなかった。家康研究は、実はまだまだ新しい領域なのである。

今作の放送にともなって、そうした近年の研究成果を集約したような、家康の生涯を概観した著作がいくつか刊行された。それによって世間はようやく、最新の研究成果を把握することができることとなったであろう。

築山殿のような正室には側室や庶子の認知決定権があった

さらには家康あるいは戦国時代史を専門にする研究者によって、あらたな研究もすすめられ、一般書として刊行された。特筆されるものとしては、誕生から今川家時代、武田家との抗争状況、正妻・築山殿(ドラマの役名は「瀬名」)をめぐる状況、今川氏真との関係、秀吉死去から将軍任官までの政治状況、が挙げられる。

それらは多く、放送を機に刊行されたものになるので、その内容が今作のドラマの内容に反映されることは少なかったが、そのなかでも築山殿をめぐる状況については、随所に取り込まれていることは特筆したい。実は築山殿に関しては私の研究(『家康の正妻 築山殿』平凡社新書)成果が多く反映されていた。

築山殿の肖像
築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

私は近年、戦国大名家の女性の政治的地位や役割についての研究を進めていて、そのなかで今作の放送を機に築山殿についても追究した。そこでは、戦国大名家の正妻(ドラマでは「正室」と表現)は、当主の「側室」(正確には別妻および妾)や子どもの認知権を有していたことを指摘した。ドラマではそれを受けるようにして、築山殿が家康の「側室」を選定したり、「側室」となることを承認していなかった者を追放したことなどが取り上げられていた。

大河の築山殿の描き方は大胆だったが、研究者としても納得

また家康と築山殿との関係についても、江戸時代以来、不仲と認識されていたが、築山屋敷での別居は、築山殿のほうが身分が高かったため同居しなかったこと、築山殿は死去まで、家康の正妻としての権力を有していたこと、築山殿の死去は、家康による殺害ではなく、自害と推定されることなどを指摘したが、ドラマではそれを、ドラマ展開に見合うかたちで取り込んでいるように思えた。それらの内容は、これまでの通説的な理解とは大きく異なるものであったことからすると、大胆な取り組みであったといえるかもしれないが、私にとっては納得のいく内容であった。

家康の生涯は、三河の一国衆にすぎない立場から、「天下人」にまでなり、かつその後二百数十年にわたる戦争のない平和な社会を築き上げるものであった。1983年の「徳川家康」は、早くから戦争のない平和な社会の構築を志向し、それを不屈の精神で実現していく内容であった。それが当時における一般的な家康像でもあった。

秀吉政権に入るまでは何度も滅亡の危機にあった家康

それに対して今作は、平和の構築というテーマは根底に設けられているものの、その実現は、危難を何とか乗り越えてきた、という側面を重視している。実際にも家康は、秀吉に従属するまでは、いくどか滅亡の危機に陥りながらも、そのつど幸運によって切り抜けてきた、類いまれな強運の持ち主であった(このことは拙著『徳川家康の最新研究』朝日新書を参照)。今作のタイトルが「どうする家康」というのは、まさに現時点での等身大の家康を表現したものとして、巧妙というほかない。数年前の制作発表の際に、このタイトルに接して、大いに感心したものであった。

「どうする家康」の放送を機に、家康研究はさらなる進展をみせた。とはいえ家康の生涯は75年の長きにおよんでいる。しかも最終的には「天下人」として、日本全国を統治する存在になっているのだから、その事蹟は膨大である。そのためいまだ、そのすべてについて本格的な研究がおよぼされるにはいたっていない。

現在の家康研究は、秀吉に服属するまでの動向についてと、秀吉死去から将軍任官までの動向については、かなり研究が進展しているものの、いまだ秀吉政権期や、将軍任官後の動向については、従来の研究内容を完全には克服するまでにいたっていない。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康は大坂の陣で羽柴家を滅亡させてから、わずか1年後に死去

また今作では、「徳川四天王」をはじめとした徳川家臣団がクローズアップされていたものの、それらについての本格的な研究は、実はほとんど進んでいない。酒井忠次、石川数正、大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、本多正信、といった人々について、現時点で史料集や評伝書が刊行されているのは井伊直政だけにすぎない。

黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)
黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)

今作の放送を機に、部分的には本格的な研究が開始されるようになってはいるものの、その成果が大成されるところまではいたっていない。それらについての研究が、本格的に進展していけば、家康とそれらの具体的な関係が明確になり、それは家康の人物像にも大きく影響していくことになるに違いない。

家康は将軍任官後も、13年生きた。しかしその時の年齢は、秀吉の没年齢をすでに超えていた。私は近著『家康の天下支配戦略』(朝日選書)で、将軍任官後の外様国持大名との結婚政策についてまとめたが、そこでは20家以上と結婚を結んでいた。これは驚きであった。余命を思いながら、いかに徳川政権の安泰に取り組んでいたのか、その思いを強くした。

「天下人」となったものの、家康は最期まで薄氷を踏むがごとく、危難の人生を歩んでいたのであった、と思わざるをえない。大坂の陣で羽柴(豊臣)家を滅亡させてから、わずか1年後に死去しているのは、家康の人生を象徴しているといってよい。家康は死去する直前になって、ようやく安心を感じることができたように思われるのである。