淀君の子・豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣で夫や淀君と死別することになる千姫。作家の濱田浩一郎さんは「千姫は夫を祖父の家康に殺されたことになるが、それで家康を恨んでいたという記録はない。家康は死んだ年にも千姫に『会いたい』という手紙を出しており、関係は良好だったのではないか」という――。
「千姫姿絵」弘経寺(茨城県常総市)所蔵、江戸時代
「千姫姿絵」弘経寺(茨城県常総市)所蔵、江戸時代(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

家康の孫娘として生まれ、1歳で豊臣秀頼と婚約

千姫は、徳川家康の孫娘です。大河ドラマ「どうする家康」では、原菜乃華さんが千姫を演じており、松本潤さん演じる家康にかわいがられる様が描かれていました。では、千姫の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。千姫は、家康の三男で後継者の徳川秀忠の長女として生まれます。慶長2年(1597)のことでした。

千姫の母は、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」(上野樹里主演)の主人公にもなったごう。北近江の戦国大名・浅井長政と、お市(織田信長の妹)の間に生を受けたのが、江(三女)です。千姫の運命は、豊臣秀吉によって定められます。慶長3年(1598)7月、天下人・秀吉は病床にありましたが、自らの死を悟り、有力大名に遺言を残しています。遺言は、家康や秀忠にも残されました。家康への遺言には「秀頼を孫婿にして、秀頼を取り立ててほしい」とありました。

そして、秀忠への遺言には「秀頼の舅(配偶者の父)として、内府(家康)が老齢となり、病となったとしても、家康と同じように、秀頼を盛り立ててほしい」との内容が記されました。つまり、このとき、家康の孫娘であり、秀忠の長女である千姫が、秀吉の子・豊臣秀頼(5歳)に将来嫁ぐことが決定されたのでした。

【図表】千姫をめぐる家系図
作成=プレジデントオンライン編集部

夫の母は血のつながった伯母でもある淀君

ちなみに、秀頼の母は、淀殿。淀殿もまた江と同じく、浅井長政とお市の娘(長女)です。それにしても、千姫は慶長3年当時、1歳になるかならぬかの幼子。そうした幼子の運命(結婚相手)が既に決定されたということは、現代から見たら、悲劇と言えましょう。秀吉の胸中には「家康の孫娘とわが子・秀頼を結婚させれば、豊臣と徳川は縁戚。そうなれば、自分が死んだ後も、家康は秀頼を邪険には扱うまい」との思い、願望があったのでしょう。千姫は生まれて間もなく、自らの知らぬところで、政略結婚を運命づけられたのです。

慶長8年(1603)7月、7歳となった千姫は、大坂の豊臣秀頼のもとに嫁ぐことになります。伏見より、船で大坂に入った千姫。御供の船は「数千艘」(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)あったというから、すごいものです。途上では、諸大名が警固をしていました。厳戒体制と言うべきでしょう。

大坂夏の陣の時も大坂城内にいた千姫はどうしたか

徳川家と豊臣家が対立せず、戦に発展しなければ、千姫は、政略結婚の犠牲になったとはいえ、幸せな生涯を送れたと思います。しかし、方広寺鐘銘事件や大坂城の浪人問題などが重なり、ついに、両者(徳川と豊臣)は戦端を開きます。慶長19年(1614)、大坂冬の陣です。いったん、和議が結ばれますが、翌年には再び戦(大坂夏の陣)が勃発。豊臣方は追い詰められて、豊臣秀頼と淀殿にも最期のときが迫っていました。

『徳川実紀』によると、千姫は「秀頼母子助命」を徳川方に請うため、大坂城を出たとあります。その途上に千姫一行が出会ったのが、徳川方の坂崎出羽守直盛(成政)でした。直盛は、石見国津和野藩主です。直盛は、千姫を無事に、家康の本陣がある茶臼山に送り届けました。豊臣家の家臣・大野治長も家来を派遣して、秀頼の助命を請いますが、家康は「将軍家(秀忠)の意向に任そう」と返答したとのこと。

現在の大阪城天守閣
撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の大阪城天守閣

「秀頼と淀君の助命嘆願はいったん聞き入れられた」という説も

一説によると、方々からの助命嘆願は聞き入れられ「秀頼母子出城」が一時は定まったとされます。徳川方の近藤秀用と豊臣方の速水守之が出城の件について交渉。速水は「御母子の乗り物(輿のこと)を頂きたい」と提案しますが、近藤は「急遽のことで、乗り物など用意できるはずはない。馬にて出城されよ」と一蹴いっしゅう

すると速水は「御運の末となったといえども、右大臣殿母子(秀頼と淀殿)を馬にて、出城させるわけにはいかぬ」と憤然として、交渉を打ち切ってしまうのでした。そして、秀頼や淀殿らは自害してしまうのです。夫の助命を願っていた千姫としては、こうした結末になってしまったのは、断腸の思いだったでしょう。

秀頼と正室である千姫との間には子はありませんでした。が、秀頼には側室がおり、側室との間には子がいたのです。それが、国松(男子)と天秀尼てんしゅうに(女子)です。国松は男子ということもあり、大坂城落城後程なくして捕えられ、六条河原で処刑されてしまいます。8歳でした。一方、天秀尼は、千姫の養女となり、仏門に入ることによって、助命されました。

夫を亡くし、傷心の千姫に転機が訪れたのが、元和2年(1616)9月のこと。この年、千姫は本多忠刻(徳川家臣・本多忠政の長男)に再嫁することになるのです。ちなみに忠政の妻は、松平信康(家康とその正室・築山殿の子)の娘でした。

千姫を救出した老武将は、姫の再婚を妨害しようとした

忠刻のもとに嫁ぐ千姫。その千姫が乗る輿を狙う1人の武将がいました。坂崎直盛です。そう、千姫が大坂城から脱出した際、家康の本陣まで彼女を送り届けた武将です。一説によると、直盛はその功績を誇り、千姫を自らの妻にしたいと懇願したとのこと。だが、千姫は20代で、直盛は50過ぎの老年。また、譜代大名でもない直盛ごときに千姫を嫁がせるのはいかがなものかという見解もあり、結局は本多忠刻に嫁ぐことになるのです。

直盛は、そのことを深く恨み、千姫の輿入れのとき、彼女が乗る輿を奪い、刺し違えて死ぬ覚悟であったといいます。剣術家の柳生宗矩やぎゅう・むねのりらが直盛をなだめようとしたとのことですが、直盛は引きこもって面会せず。そんな直盛の「狂気」は既に徳川幕府に露見していましたので、幕府は直盛の家人に次のような命令を下したといいます。「お前たちの主人の挙動は狂気である。直盛が自殺して果てたならば、一族の者に家督を継がせよう」と。この命令を聞いた直盛の家臣は、主人である直盛を自殺させて、その首を進上したと言われます。

また、一説によると、直盛を泥酔させて寝ているところを、家臣らが薙刀なぎなたで襲い、首を取ったとされます。いずれにしても、直盛は千姫を奪うことかなわず、死んだのです。坂崎家の所領は没収され、同家は断絶します。

徳川四天王・本多忠勝の孫と再婚し2児に恵まれる

さて、千姫は無事に本多忠刻のもとに嫁ぎます。そして、長女の勝姫、長男の幸千代を産むことになるのです。しかし、元和7年(1621)、幸千代は3歳で亡くなってしまいます。寛永3年(1626)には、夫の忠刻も31歳で病死します。千姫は忠刻と共に姫路城に居住していましたが、夫の死により、娘と共に江戸城に戻ることになります。そして、出家し、天樹院と号するのです。

「本多忠刻の肖像」
「本多忠刻の肖像」(写真=橋本政次著『新訂姫路城史 中巻』臨川書店/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

寛文6年(1666)、最期まで秀忠の長女として徳川将軍家や大奥にも発言権を持っていた千姫は70歳で病死。波瀾万丈の生涯を閉じます。既に4代将軍・徳川家綱(3代・家光の子、千姫にとっては甥)の治世となっていました。一方、無事に成人した娘、勝姫は姫路藩主・池田光政の正室となり、その子孫は最後の将軍、徳川慶喜まで千姫の血をつなげていくのです。

家康は千姫をかわいがり、死去直前にも「会いたい」と連絡した

思えば千姫の母である江も、落城による悲劇を経験しています。一度目は、父の浅井長政が織田信長と対立し、居城の小谷城を攻め落されたとき(1573年)。長政は自刃します。二度目は、義父の柴田勝家が羽柴秀吉により越前北ノ庄城を攻められたとき(1583年)。このとき、江は義父の勝家と、実母のお市を亡くしています。そして、江の子の千姫も、大坂の陣において、夫の秀頼を失う。親子2代にわたる悲劇。千姫はどのような思いで日々を過ごしていたのでしょうか。

大坂の陣の後、家康は千姫の侍女「ちょぼ」に宛てて、手紙を書いています(実質的に、千姫に宛てた書状)。病となった千姫を気遣う内容です。元和2年(1616)1月にも、家康は千姫の侍女に手紙を書いていますが、そこには、千姫の病が癒えたことを喜ぶ言葉が記されています。駿府にいる家康は、秋になり、江戸に下向して、千姫に是非とも面会したいとも書いています。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかし、同年4月、家康は75歳で病没するので、孫娘との対面を果たすことはできませんでした。千姫は夫・秀頼を失い、傷心の日々だったでしょうが、祖父・家康のことを恨みに思っていたようにも思えません(複雑な感情はあったかもしれませんが)。自分の体調を気遣ってくれる祖父をありがたいと感じていたのではないでしょうか。家康が亡くならなければ、秋に対面していたでしょう。2人は何を話したでしょうか。