伊達政宗の軍は前代未聞の鉄砲装備率だった
奥州の独眼竜・伊達政宗──。
政宗は大名レベルの最終戦争「大坂の陣」において、それまでの常識を覆す大胆な軍隊編成を実行した。
とてつもない数の鉄砲を用意させたのである。
そしてその強烈なインパクトが、徳川幕府を焦らせて、幕府軍の軍制を変えさせた。
政宗以降、幕府は旗本の鉄砲装備を抑えさせ、ある程度の長柄鑓を持たせることを考え、ある意味で平凡なその装備率は幕末まで大きく変わることがなかった。
大坂の陣において、政宗は何をしたのだろうか?
慶長19年(1614)10月4日、徳川家康・秀忠は、豊臣秀頼が立て籠もる摂津国の大坂城を攻めるため、「奥州関東中に江戸より陣触れ」を発した(『当代記』)。
陣触れはやがて日本中に伝達され、幕府軍は総勢20万を動員することになった。東西南北の名だたる武将たちが大坂に向けて進軍していく。
一方、主力を牢人(浪人)に依存する大坂軍の人数は、その半数にも満たなかった。
しかも衰勢であるため意識統一が図れず、全軍がひとつの目的と作戦に統制されることも難しい。独立心の強い牢人頼みでは無理もないだろう。
このため、さしたる対応もできないまま大坂城を攻囲されてしまう。大坂冬の陣の始まりで、翌年には夏の陣も勃発した。
今回は、大坂の陣における破格の人の動きを見てみよう。
仙台藩初代藩主・伊達政宗である。
遅れてきた英雄・伊達政宗の並々ならぬ競争心
徳川二代将軍・秀忠は江戸在府の大名たちに「大坂御陣」の幕命をくだす。
秀忠はその「御先手」として、一番・伊達政宗(陸奥仙台藩主)、二番・上杉景勝(出羽米沢藩主)、三番・佐竹義宣(出羽久保田藩主)を選出した。
伊達・上杉・佐竹の三氏は、天正末年に開始された豊臣秀吉の朝鮮出兵においても、徳川軍のもと「十六番衆」として同陣したことがある。
しかし、いずれも一筋縄ではいかない取り扱い注意の顔ぶれだった。
上杉景勝は、かつて徳川家康に真っ向から盾つき、関ヶ原争乱(慶長庚子の大乱)を引き起こした元・謀反人である。
佐竹義宣も、同争乱において、徳川に中立的な姿勢を見せてなお生き延びた驍将(勇ましい武将)である。
伊達政宗は、いわずと知れた暴れん坊大名である。
二代将軍・秀忠は暴れん坊の政宗を統率しようとした
秀忠にすれば、これら一癖も二癖もある東北きっての曲者大名たちを統制してみせることが、おのれの大器を天下に示す絶好の機会だった。
また、徳川と過去に悶着のあった上杉・佐竹にすれば、今後の浮沈を占う重要な戦役である。両者とも奮戦せざるを得ない。
伊達にすれば、どちらも油断ならない大名である。無理をする必要はないにしても、ある程度の武功を立てなければ、安泰とは言い切れないのだ。
動機は違えど、大坂の陣において、それぞれ株を上げあうための共闘が期待されていた。
さて、「一番手」に任じられた伊達政宗の反応を見ていこう。
政宗は仙台城にいた。
伊達家の記録によると、10月7日に「大坂御陣触」が届いたようである。上杉や佐竹も同じ頃10月初旬に陣触れが届いて、ぞろぞろと動き始めている。
これについて、水戸藩士・小早川能久『翁物語』は、この時の伊達家中のできごとを伊達家臣と思われる「須田伯耆守」から聞いた話として、少し気になる記述をしている。
陣触れが届いた日付を「九月廿七日(27日)ト覚エシト云ル也」と記しており、政宗も「来月朔日(1日)出陣」すると述べたというのである。政宗は通説より10日も前から動き出しているのである。
「秀忠御先手一番」としての政宗の意気込み
須田の証言によると、政宗は早朝から城内の馬場で騎馬武者たちの調練を見ていた。そこへ秀忠から「天下ノ御用」を伝える火急の「飛脚」がやって来た。
政宗は将軍からのご奉書を見るなり、険しい顔をして、広間に移動した。そして評定を開くなり、「3日後に出陣する。急ぎ、鉄砲6000と馬上120を集めよ!」と家臣たちに命じた。
このため、伊達家は上へ下への大騒ぎになったという。
ところが先にも述べたように、秀忠からの出陣命令は10月4日に発せられ、政宗の動きは7日からであることが当時の文書からも看取される。ほかの大名の記録を見渡しても、9月中に陣触れが届いたと伝えるものはない。
するとこれは須田の記憶違いということになりそうだが、実は須田の証言を裏付ける伊達政宗の書状写がある(『伊達政宗記録事蹟考記』20巻所収文書)。
九月廿八日
美作(伊達忠宗)殿
この政宗書状は写のみで、原本は現存しないが、意図的に創作または改変される理由のない内容である。信頼度は一定度あるものと仮定できよう。
政宗が大坂の陣が始まることを知ったのは通説より早い
ここで政宗は、江戸城にいる15歳(数え年)の嫡男・伊達忠宗に「ちょうどいいので手紙を送る。そちらでは変わりないか? 〈もしも〉のために備えて、奉行と鉄砲衆200人をそちらに向かわせた。表向きには〈建築作業のため〉ということにしている。徳川秀忠様のお考え通りだ……」というようなことを伝えている。
当時の書状は背景やニュアンスで読み方が異なるので細部の誤読があったら恐縮だが、ここで政宗は秀忠方面からこっそりと豊臣相手の戦争が起きそうなことを伝えてもらっていたのだろう。
さらに言えば、政宗は不穏な情勢を読み取って、江戸城の情報を適宜仕入れていたのである。
9月27日に来たのは秀忠方面からの非公式の「飛脚」で、10月7日に来たのは将軍の老中からの正式の使者だったのだ。
政宗の中では、戦いはすでに始まっており、抜け目なく将軍・秀忠とのパイプを強化していた。上杉景勝や佐竹義宣ごときに負けてはいられなかったのである。
10月10日、政宗は寵愛する家臣・片倉重綱を先手に兵を率いて国許を発った。13日、跡備の伊達安房守も進発。
だが、政宗らが下野国小山に着陣すると、思わぬ客が待ち受けていた。秀頼から派遣された祐筆の和久宗友(是安)である。
宗友の父は旧秀吉家臣で、当時は政宗の家臣となっていた。
和休は政宗に「秀頼様が豊臣家と徳川家の仲立ちを頼みたいと言っています……」と申し出た。
鉄砲の数は3430挺で66%という高い鉄砲装備率
だが、内実は豊臣方に味方するよう促す密使で、「秀吉様の御恩を忘れて豊臣家に弓を引けば、世間に顔向けなどできませんぞ」と寝返りを迫っていたのだ。
政宗はのらりくらりと即答を避けて、秀頼からの直書をちゃっかりと将軍・秀忠に送り、江戸への行軍を進め直した。もはや勝負は決まっていた。
江戸では、この短い期間に政宗が軍備を集められるかどうか疑う声があったが、政宗は下総・武蔵の境目である栗橋宿に、約束通りの人数で現れたので、出迎えの江戸横目衆を驚かせた。
17日、江戸に入った政宗は、本多正信らに「思いの外の早いご到着で」と手を取られ、秀忠のもとへ案内された。
10月20日、政宗は仙台から増援に送られた1000騎と合流して、江戸を進発する。
このときの陣立書が伝わるので、見てみよう。
陣立書にある兵の総数は5200人。割と控えめである。だが、注目すべき点がある。先鋒の片倉重綱、伊達宗実、伊達定宗より後方に続く27隊のうち20隊が鉄砲隊で占められているのだ。鉄砲の数は3430挺。なんと66%もの高い鉄砲装備率である。
大坂夏の陣の道明寺合戦で鉄砲を撃ちまくった政宗
上杉家でも密かに鉄砲の製造がされていたが、政宗ほどの装備率には至っていない。ここまで鉄砲を集中装備した大名は政宗だけだろう。
その後、鉄砲装備率が政宗ほど上がらなかった理由の一端は徳川幕府の施策にある。大坂落城後、徳川秀忠が諸藩の軍制を見直し、統一基準を定めて、長柄鑓の装備率を大幅に上げさせたからである。
政宗は「冬の陣」では戦闘も控えめで、あまり目立ってはいなかったが、翌年の「夏の陣」で薩摩の島津義弘(惟新公)から「諸大名衆笑物にて比興」と酷評されるとんでもない伝説を残す(『薩摩旧記』)。
幕府が装備率を指定するに至った理由は、まさにこの大坂夏の陣にあった。
政宗は冬の陣同様、先鋒を除く諸隊を鉄砲隊ばかりで固めた。
そして大坂城総掛かりの前日に起こった道明寺合戦で、大坂方の勇将・後藤基次と交戦した際、政宗は大量の銃撃を浴びせて基次を退かせた。そのはげしさは異常で、政宗は敵味方構わず撃ち放ったという。
おかげで勝利をもぎ取ったが、味方であるはずの大和国衆神保隊は政宗の銃撃で全滅。しかも交戦中に弾切れとなった。このため、大坂から後藤勢の救援にやってきた真田信繁を追撃することができなかった。
決戦のときは弾切れで家康を真田軍から守れなかった
そして翌日の決戦において、信繁が家康本陣に決死の突撃を仕掛けた。政宗は家康のすぐ側に布陣したが、前日の弾切れで政宗は継戦能力を完全に喪失していた。
このため、真田隊の猛攻を阻止することもできず、家康本陣が崩壊するのを傍観していたらしい。諸隊の奮闘により、信繁は討ち死に。家康は何とか一命を取り止めた。そして、その日のうちに大坂は落城し、豊臣家も滅亡。ここに日本は元和偃武と呼ばれる天下泰平を迎えることができた。
だが、さすがに秀忠も政宗の編成に疑問を抱いた。
政宗は調子がよく、これまで厚遇してきたつもりだが、打ち上げ花火のようにパッと煌めいて、その後は弾切れで安全圏から合戦を傍観する。こんな振る舞いが許されていいのだろうか。そう考えて編成の基本ルール作成を検討したのであろう。
翌年、秀忠は軍役の基準を発し、幕府軍の基礎を築く。
ここで秀忠の定めた兵種の比率は、大坂の陣で政宗が使った陣立とは全く異なり、新時代に適しているはずの鉄砲の大量投入が控えられ、代わりに長柄の装備率が高いものとなった。もちろん将軍旗本だけの基礎編成であるが、おおむね諸国の大名もこれに近い編成を使うようになり、政宗のような飛び抜けて偏った装備の配分は消えていく。
しかも、この編成思想は幕末まで変化することがなかった。
偏りすぎた兵種装備を行わせない──それが近世日本における用兵思想の原則となった。政宗の独自編成は、近世軍隊の反面教師となったのである。
この歴史を、泉下の政宗も笑って眺めていたであろう。