将軍(社長)に老中(役員)や大名(支社長)や旗本(部長)が仕える徳川幕府のシステムは日本型組織の元祖と言われる。経営史学者の菊地浩之さんは「家康は褒賞にケチで、三河以来の忠臣にも多い石高は与えなかった。しかし、秀吉と違って石高を下げることはせず、その安心設計の人事は、戦後に組織の力で成長した三菱財閥にも通じる」という――。
大阪城公園、豊国神社の豊臣秀吉像
撮影=プレジデントオンライン編集部
大阪城公園、豊國神社の豊臣秀吉像

ケチん坊な家康の少禄家臣団・石高ランキング

徳川家康はケチん坊で知られる。派手なことはキライで、節約節制。そのスタンスは家臣への褒賞にもあらわれ、譜代大名は少禄ばかりだった。たとえば、天正18(1590)年に家康が三河・遠江など5ヵ国(愛知県東部、静岡県、山梨県、長野県)から関八州(東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、群馬県)に移封された際、家臣の石高は下記のようだった。

【1】12.0万石 井伊直政 (30歳) 上野箕輪
【2】10.0万石 本多忠勝 (43歳) 上総大多喜
【2】10.0万石 榊原康政 (43歳) 上野館林
【4】 4.5万石 大久保忠世(59歳) 相模小田原
【5】 4.0万石 鳥居元忠 (52歳) 下総矢作
【6】 3.3万石 平岩親吉 (49歳) 上野厩橋
【7】 3.0万石 酒井家次 (27歳) 下総白井

井伊・本多・榊原のいわゆる「三人衆」は10万石以上だが、それ以下はガクンと5万石未満である。しかも「三人衆」を10万石以上にするように指示したのは、豊臣秀吉だったという。おそらく、秀吉が指示しなければ、「三人衆」も5万石くらいだったに違いない。

ド派手な秀吉の大盤振る舞い・家臣石高ランキング

ちなみに、その秀吉家臣団はというと、これが大盤振る舞いだ。

【1】25.0万石 加藤清正 (28歳) 肥後熊本 :天正15(1587)年
【2】24.0万石 加藤光泰 (53歳) 甲斐府中 :天正18(1590)年
【3】20.0万石 小西行長 (32歳) 肥後宇土 :天正15(1587)年
【4】17.3万石 蜂須賀家政(32歳) 阿波徳島 :天正13(1585)年
【5】17.2万石 生駒親正 (64歳) 讃岐高松:天正15(1587)年
【6】14.5万石 中村一氏 (年不詳)駿河府中:天正18(1590)年
【7】12.0万石 黒田官兵衛(44歳) 豊前中津 :天正15(1587)年
【7】12.0万石 堀尾可晴 (47歳) 遠江浜松 :天正18(1590)年
【9】11.3万石 福島正則 (29歳) 伊予今治 :天正15(1587)年
【10】5.8万石 池田輝政 (26歳) 三河岡崎 :天正18(1590)年
【11】5.7万石 前野長康 (62歳) 但馬出石 :天正13(1585)年
【12】5.0万石 仙石秀久 (38歳) 信濃小諸 :天正18(1590)年
【12】5.0万石 山内一豊 (44歳) 遠江掛川:天正18(1590)年
※主要大名の一覧。年齢は天正18(1590)年時点。右端の年次は石高の支給年

秀吉とすれば、「(豊臣政権三中老のひとりである)堀尾可晴ほりおよしはるに12万石与えるんで、徳川の家臣もそれくらい与えてはどうか?」くらいの感覚だったのかもしれない。秀吉が天下人だったから、その家臣が高禄であるのはわかるが、「堀尾可晴って誰」というのが普通で、彼我の差がありすぎる。

高報酬の一方で、世襲に対する秀吉のシビアな方針

では、高禄の代償はなかったかというと、それが――あったのだ。

たとえば、一覧で2番目に記されている加藤光泰みつやす。文禄2(1593)年に死去すると、24万石は収公しゅうこうされ(取り上げられ)、子の加藤貞泰さだやすが新たに与えられたのは4万石だった。

豊臣秀吉が丹羽長秀に123万石を与えながら、その死後、子の丹羽長重に難癖をつけて12万石に減封したことは有名である。これは長秀の子が凡庸であったのではなく、世襲に対する秀吉の方針であったようだ。他にも蒲生がもう氏郷うじさと91万石の死後、子の蒲生秀行は家中騒動を収められず、12万石に減封。軍師で有名な竹中半兵衛はんべえの遺児・竹中重門も6000石しかもらっていない。

つまり、秀吉は部下に気前よく高禄を与えるが、子どもの代になるとリセットしてしまう傾向があったのだ。これは私見であるが、秀吉は二世家臣の忠誠心を信じることができず、一から主従関係を構築し直して、働きに応じて家禄を上げようと考えたのではないか。そうなると、高禄を継承させずにいったん減封してから、引き上げた方が都合がいい。ところが、かれらの家禄を引き上げる前に、秀吉が死去してしまった。

また、仮に秀吉が長生きしたとしても、天下統一後には武将の出番(=家禄を引き上げるチャンス)がないので、みん・朝鮮に出兵して新たに戦場を創出しなければならない。秀吉モデルの人事政策だと、朝鮮出兵は不可避だったことがよく分かる。

静岡駅前の徳川家康像(=静岡県静岡市、2020年11月21日)
写真=時事通信フォト
静岡駅前の徳川家康像(=静岡県静岡市、2020年11月21日)

「なかなか家禄を上げないが、下げもしない」という家康の人事

これに対して、家康の人事政策は「家禄をなかなか上げないが、世襲による減封もしない」という安心設計である。

筆者の本業はソフトウエア技術者で、おそろしく活躍してボーナスが1年で40万円くらい上がったときがある。その頃の人事面談で上司が冒頭に漏らしたのが「(人事は)急には上げられないんだよね~」という一言である。これじゃあ、やる気もダダ下がりだが、正しい側面もある。昭和の人事モデルはなかなか上げない(昇進させない)代わりに、なかなか下げないのである(当時はもう平成だったが)。

三河家臣団の忠誠心は、安心設計の家康人事だからこそ生まれたのだろう。自分が死んでも子どもが報われるから頑張れるのである。大河ドラマ「どうする家康」で鳥居元忠とりいもとただ(音尾琢真)が伏見城で壮絶な討ち死にを遂げ、視聴者の感動を呼んだ。犬死にではないかという声もあったが、かれの死は無駄ではなかった。江戸時代に鳥居家の子孫は何度か不祥事を起こしたが、時の幕政担当者も鳥居家を改易することができず、現在まで続いているのだから。

戦前は秀吉流人事の三井が圧勝していた

「なかなか上がらないが、なかなか下げることもしない」家康人事は、昭和の人事モデルに似ている。ここで、「昭和の人事モデル」といっているのは、正確にいえば、「昭和のうちでも戦後の日本的経営における人事モデル」である。昭和でも戦前であれば、その様相は一変する。

戦前の財閥でいうと、三井は秀吉流のメリハリの利いた人事。三菱は家康流の安定的な人事だった。三井は商業、三菱は製造業が主体で、望まれる人物像が違ったからだ。

三井の代表的な企業は三井物産。今風に言えば、0から1を創るアイデア企業。団体戦より個人戦が得意。個人の才覚こそが企業発展のカギで、そんなものは教育してできるものではない。優秀な人材は育てるのではなく、見いだして抜擢するもの――そんな感じだ。

三井物産では各部・各支店が独立採算制を敷き、好業績の部署・人材には思い切ってボーナスを弾むことを惜しまなかった。信賞必罰で、5円(現在価値で約1万円)ぐらいの昇給が普通だったときに、成績を上げたものは一挙に50円(同、約10万円)も昇給したが、他方で不成績だと容赦ようしゃなく左遷させられた。

東京都中央区日本橋にある三井本館、明治時代に三井財閥の本拠地として建てられた
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都中央区日本橋にある三井本館、明治時代に三井財閥の本拠地として建てられた

戦後は家康流人事の三菱が団体戦で業績を上げた

一方、三菱の代表的な企業は三菱重工業。個人戦ではなく団体戦。一人のずば抜けた人材より、底上げされた層の厚い集団を必要とする。東大卒の優秀な技術者たちを社内教育で育てていく。技術力はおおむね経験値と比例するから年功序列だ。

三菱財閥は本社一括採用で、新入社員を各社に振り分けていたが、所属企業で差が付かないように配慮していたという。社長の「岩崎さんの考えでは、各部門に人を配分するときも、本社が任命して、お前は倉庫をやれ、お前は銀行をやれという具合にやったわけだから、実績は必ずしも本人だけの責任ではない。したがって儲からんから差別をつけるというのは道理に合わないことになる」(野田一夫『財閥』)と述懐している。

現在の三菱一号館美術館(明治時代に建てられた三菱一号館)、東京都中央区
写真=iStock.com/mizoula
現在の三菱一号館美術館(明治時代に建てられた三菱一号館)、東京都中央区

三菱は本社一括採用、年功序列で三井式を採り入れなかった

そうはいっても、三井が大々的に抜擢人事を行うと、三菱でもマネしようという声がおのずと生まれてくる。

1910年代に三井物産常務・山本条太郎が若手社員10名を抜擢し、5割の増給を実施した。三菱でもこのような思い切った社員抜擢による効果を狙うべきだと意見が出たが、三菱の社長はエラかった。「この三井の抜擢は山本氏あってこその優れた措置であるが、三菱に果たしてそれを査定する山本氏に匹敵する人物がいるであろうか。若し抜擢に的確性が欠ければ、効果どころか著しい弊害が起こるであろう」と指摘し、抜擢人事を行わなかったという(向井忠晴ただはる追想録編纂委員会編『追想録 向井忠晴』)。

戦前の日本で三井財閥が一番だったのは、その人事政策が奏功していたからだろう。ただし、戦後に日本経済が製造業主体で急発展していくと、三菱のやり方がフィットした。三菱グループが三井に代わって日本最強の企業集団になったのは、経営者や個々の従業員が優れていたことはげんたないが、むしろ適者生存の法則にのっとったものである。

高度成長期の戦後には家康ブームが到来したが…

戦前は秀吉流の三井財閥が一番だったが、戦後は家康流の三菱グループがナンバーワンに躍り出た。だから――というわけではないが、高度経済成長期(1950年代中盤~70年代中盤)には家康ブームが到来した。

菊地浩之『徳川家臣団の系図』(角川新書)
菊地浩之『徳川家臣団の系図』(角川新書)

明治維新後、江戸幕府を代表する家康は嫌われ、立身出世の代表選手・秀吉人気が爆発した。ところが、1950~67年に山岡荘八そうはちが新聞小説で『徳川家康』を発表すると、特に経営者層に莫大な人気を得た。経営者たちは、家康の政治手法が日本的経営に類似していることを直感的にぎ取ったのだろう。

かくして、経営者は成功者・家康に似せた日本的経営にますます自信を深めた。現在はその反動時期といえるかもしれない。では、秀吉流が復活するのかといえば、そうはいかないと思う。

1980年代に脚光を浴びたのは、TVゲーム『信長の野望』に代表される、織田信長、伊達政宗などのスタイリッシュな部将たちである。出世欲丸出しの秀吉はむしろ人気がない。

筆者は秀吉のようには出世欲がないので、たとい大出世できても信長のような苛烈な上司には関わりたくない。

カッコイイ信長が好きな若者たちもきっと同じであろう。結局、家康が理想の上司といえるのかもしれない。