不本意な状況や試練が訪れた時にはどうすればよいのか。名門女子校、ノートルダム清心中・高等学校の現校長の神垣しおり先生は「つい否定したくなる自分の弱さや脆さの中に力がある。自分自身の弱さを受け入れたときに、その人の力が発揮される。弱さが武器になる。そんな視点をもつことも大事」という――。

※本稿は、神垣しおり『逃げられる人になりなさい』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。

テーブルの上の聖書
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宗教の最終授業で生徒に必ず伝える言葉

私が現在担当している高校3年生の宗教の最終授業で、生徒たちに必ず伝える言葉があります。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

これはキリストが、「自分に与えられたとげを抜いてほしい」と願った弟子パウロへの返答として与えたものです。

このとげとは、具体的になんだったのでしょう。聖書にはなにも記されていません。

病気だったのかもしれないし、なんらかの試練が訪れていたのかもしれません。あるいは、自分の醜さや弱さ、不本意な状況、受け入れられないことのすべて。それをとげと表現したのかもしれません。

いずれにしても、パウロにとってそのとげがもたらす痛みは切実でした。彼は3回もキリストに懇願しています。しかしその願いは聞き入れられず、キリストは「すでに自分の恵みは十分に与えられている」と答えました。

“とげ”を抜いてほしかったパウロは、がっかりしたでしょうか。いいえ、この答えを聞いたパウロは、自分の弱さこそ恵みであったのだと気づきます。

そして、どのような自分も満足して受け入れると心に決め、キリストに「わたしは弱いときにこそ強い」と答えるのです。

たくさんのいばらの枝
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自分の弱さや脆さの中に力がある

キリストがいった「力は弱さの中でこそ発揮される」とは、どういうことでしょう。私はこう考えています。

もともと人間は弱い存在です。その弱さを変えることは、なかなかできません。

歳を重ねて経験を積み、気力や体力が落ちてくると、改めて自分の小ささや脆さに気づかされます。

しかし私たち全員に、必ずなんらかの形で力が与えられています。そしてその力は、強くありたいと願うよりも、弱い自分を受け入れてこそ出せるものなのです。

たとえば、弱い自分を誰かに助けてもらったときに感謝が湧いてきて、もう一度がんばれるということがあります。

また、人間関係で悩んだり仕事で失敗したりしても、グッと踏みとどまって再チャレンジする強さが湧いてくることがあります。

自分の能力のなさや愚かさを認めるからこそ、秘めた力が出せるということがあるのです。

しかし今、私たちはとかく強くあることを求められます。

「自己責任」という言葉もすっかり定着し、人に頼りづらい風潮が生まれました。また、常に成長が求められ、人より抜きん出ることがよしとされます。

ですから「強くありたい」と願う人は多いかもしれません。

でも、つい否定したくなる自分の弱さや脆さの中に力がある。自分自身の弱さを受け入れたときに、その人の力が発揮される。弱さが武器になる。そんな視点をもつことも大事なのではないでしょうか。

弱さの中の力とはなんだろう

キリストの言葉のように、恵みは十分に与えられています。そして、誰もが弱さの中でこれまで自分なりに努力し、力を発揮してきました。

その恵みに感謝しながら、ふと歩みを止めて、「弱さの中の力とはなんだろう」と振り返る余裕を大切にして生きていってほしい。

そういった思いを込めて、学び舎を旅立つ生徒にこの言葉を贈るのです。

宗教の授業では、さまざまな聖句を学びますが、あとで印象に残っている言葉を聞くと、この言葉を挙げる生徒が多くいます。自分自身と向き合いながら、受験生活を送ってきた心に響くのかもしれません。この言葉が、生徒だけでなく、読者の皆さんの力になることを祈るばかりです。

輝く十字架を手に持つ若い男性
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完璧でなくてもいいという優しさ

完璧でなくてもいいと自分自身にいってあげるのも、またひとつの優しさだと思います。私自身、そう自分にいい聞かせることで救われてきました。

もともと不器用な私は、あちこちにぶつかり、時には、周囲に迷惑をかけながらなんとか進んできました。とくに、育児中の失敗談には事欠きません。

母は私が23歳のときに病気で他界していたので、初産後は夫の実家で過ごし、家に戻って子どもと2人きりの生活がはじまると、いろいろな感情が湧いてきました。

子どもをかわいいと思う半面、早く仕事に復帰したいと願う気持ち。そして、「せっかく休みをもらって育児に専念できるのだから、しっかり母親業をしなければ」という思い。子どもとの幸せな時間を過ごしながらも、ジレンマを感じる日々でした。

仕事に復帰してからも家事をこなせず、苦痛が増えるばかり。

幸い、職員はどんなに忙しくても午後7時には退勤するのが学校の方針でしたから、保育園のお迎えはどうにかなりました。しかしその分、子どもを寝かしつけてからもち帰った仕事をこなすので、時間は常にありません。

うっかりレシートを入れたまま煮たシチューを夫が食べて、「なに、これ?」といわれたこともあれば、おでんを焦がしたこともありました。疲れ果てたときは夕食後の片づけもできず、朝起きてそのままの流し台にうんざり。猛スピードで家事を片づけて、子どもたちを保育園に送り、髪を振り乱して職員朝礼に遅刻して参加……といったこともありました。

完璧を目指すのは無理

また子育てをはじめてみると、自分には常識が足りないと気づくことも多く、落ち込むことも増えました。

たとえば、ひとり目の子どもの小学校入学式のこと。利き手によって右前、左前が選べるように、左右どちらにもついていた制服のボタンを、両方つけたまま登校したのです。近くのお母さんから「あら、これは右利き左利きかで、どちらかを取るんですよ」と教えられ、恥ずかしい思いをしながら、急いで片側のボタンを取ったものです。

学校でも、生徒との距離がうまくつかめず四苦八苦する毎日。おろそかになっていく家事。自己嫌悪、もっとがんばらねばという気持ち。しかし体力的には無理ができない体。

そんな状況で2人目、3人目と育てながら働き続け、とうとう家事のいいかげんさは、絶頂期。掃除にかまわなくなり、ふとしたときに後悔して、まとめて掃除。案の定、ぜんそくの発作が出て、掃除するんじゃなかったと後悔……のくり返しでした。

とうとう、どうあがいても完璧を目指すのは無理なのだとようやく気づき、いっこうに片づかない家事に目をつぶることを覚えました。

幸いといっていいのかわかりませんが、夫も子どもたちも、少しくらい家が散らかっていても気にしない人たちでしたから助かりました。

散らかったリビング
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ささやかなことに小さな工夫をする

完璧でなくていい。

そう気づくきっかけをくれたのが、今は亡き大切な友人の言葉でした。

いつも笑顔をやさなかった彼女は、「そうめんの錦糸卵をつくるのは手間がかかって大変」と、ふとこぼした私にこう教えてくれたのです。

「あら、わざわざ錦糸卵にしなくても、スクランブルドエッグで十分よ!」

「卵を薄焼きにして細く切って……」と思い込んでいた私には、目からウロコでした。それ以来、わが家のそうめんの具はスクランブルドエッグです。コロコロ丸まった卵をそうめんにのせる楽しみも味わっています。

神垣しおり『逃げられる人になりなさい』(飛鳥新社)
神垣しおり『逃げられる人になりなさい』(飛鳥新社)

そうめんの具の話ですから、ささいなことではあります。でも、人生は日常の小さなことの積み重ねです。

ささやかなことに小さな工夫をする。

すべてを完璧にしなければいけないと思わない。

すべてを完璧に行うことができないのであれば、優先順位を見極めてできる範囲で全力を尽くす。そして、完璧にできない自分を許し、少しでも挑戦したことをほめる。

そうやって進んでいくのも、さまざまな場面で無理をしてしまう私たちにとっては、とても大切なことだと思います。