※本稿は、新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
老中・田沼意次の時代、江戸中の有名人となった平賀源内
安永初年(1772年)、40代半ばに達した頃の源内先生といえば、江戸でも一、二を争う切れ者の本草学者(漢方薬などを扱う植物学者)。西に東にと飛び回る凄腕の山師。次々にベストセラーを出す人気戯作者、最新の西洋絵画を伝える気鋭の絵師、陶器から羅紗までを扱う産業技術家と、ハードルの低くなった昨今のマルチタレントなど吹っ飛ぶような大活躍だった。「近頃江戸に流行る者、猿之助、志道軒、源内先生」というわけである。
自他ともに認める天才で、自信家で、やけに鼻っ柱が強く、すぐに大風呂敷を広げる。『根南志具佐』、『風流志道軒伝』などの戯作では、聖職者、医者から学者、庶民の男女まで手当たり次第にこき下ろす。鼻持ちならない野郎のはずだが、その割に源内は人には嫌われなかった。
若い頃からその才気煥発と洒脱な生き方を愛され、江戸にも郷里にも、源内ファングループとも呼ぶべき支援者集団が形成されていった。不思議な人徳というべきだろう。
学者、文人との交わりも多彩だった。杉田玄白のほか、中川淳庵、鈴木春信、小田野直武、司馬江漢、平秩東作、南条山人、大田南畝、千賀道隆・道有親子、さらには時の老中・田沼意次まで。まさに華麗なる人脈である。彼らはこの鬼才が次になにをするか、その天衣無縫の先走りっぷりを、はらはら、わくわくしながら見守っていたのではあるまいか。
本草学者から突如、戯作者に転身した時も周囲からの批判は少なかったようだ。彼らはあきれるより、むしろまた源内が何かおもしろいことを始めたと興味津々だったのではないか。まさしく源内は田沼時代の文化的ヒーローだったのである。そこには、武家と町人があいまって沸騰した天明江戸文化の成熟も見られるだろう。
源内の殺人は江戸市中を震撼させる一大スキャンダルに
常に新奇なものを求めて、日本全国をかけめぐった時代の寵児を、天は畳の上で死なせてはくれなかった。
安永8年(1779年)夏、源内は神田大和町から神田橋本町に居を移した。そこは貸金業を営んでいた神山検校の旧宅だった。検校は悪事を働いたかどで追放されて野垂れ死にし、その子も屋敷の井戸に落ちて死んだといい、幽霊が出るとの噂があった。いわば凶宅。そんな薄気味悪い家をあえて住まいに選んだところに源内の運気の下降があらわれていただろう。
果たせるかな、転居して半年もたたないうちに極め付きの凶運が彼を襲った。その年の11月、源内は自ら奉行所に出頭すると、驚くべき申し立てを行った。酒の上の過ちから人を斬り殺したというのである。この頃の源内は、江戸で知らない者がいないほどの有名人。その名士が引き起こした殺人事件は、江戸市中を騒然とさせ、一大スキャンダルに発展した。今なら連日ワイドショーを賑わす大ニュースになっただろう。
殺した相手さえはっきりしない謎多き事件の顚末
しかし、その割に事件の詳細については不明な点が多い。動機はおろか、斬った相手さえはっきりしていないのだ。
木村黙老の『聞まゝの記』によれば、被害者はさる大名の庭に関する普請を請け負った町人だという。工事には莫大な費用がかかると知った大名は念のため源内に見積もりさせた。仕様書を見た源内は自分なら費用を大幅に節減できると豪語、仕事が源内の手に移りそうになったため、町人と関係役人との間で争いになった。その後、源内と町人が共同で請け負うことで和解が成立。その仲直りのため役人も交えて源内宅で酒宴がもうけられた。
源内の斬新な構想に役人も町人も感心し、宴は大いに盛り上がった。役人は途中で帰ったが、町人と源内は最後まで飲み明かし、泥酔して二人ともそのまま寝てしまった。翌朝起きて、設計や見積もりの書類がないのに気付いた源内は、町人が盗んだのではないかと疑って問い詰めた。町人は身に覚えがないと反論、口論の末、逆上した源内が刀で斬りかかった。町人は深手を負いながらかろうじて逃げ出したという。
相手を追ううちにふと我に返った源内は、あの深手ではおそらく助かるまい。自分は人殺しの罪は免れないから、自殺するしかない。そう思い定めて、身の回りの整理を始めた。するとなんと、盗まれたと思った書類が手文庫から出てきたではなか。「しまった!」と思ったところで、後の祭り。罪を悔いて切腹しようとしたが、駆けつけた門人たちに止められ、それで自首して出たのだという。
事件を起こした頃の源内は「乱心」していたのか
この殺傷事件の動機については、これまで源内の乱心によるとの説が主流だった。たしかに彼は晩年、乱心の言動があったと伝えられている。
そのひとつは弟子の森島中良を楽屋裏で血相変えて罵った事件である。凶宅に引っ越した頃、中良が合作した浄瑠璃が上演され、大当たりした。これに対し、源内の戯曲が不評だったため、弟子に嫉妬して八つ当たりしたのだと見られている。ほかにも弟子や知人に理不尽な怒りをぶつけることが度々あったという。こうした八つ当たりに近い怒りは、晩年の著作にも繰り返し現れている。
52歳で死ぬ前、源内は世間から理解されず憤っていた
もう一つの証拠とされているのが、源内が描いた奇妙な絵である。大田南畝(文人・狂歌師)が源内を訪ねて書を請うと、源内は最近得意の絵があるといって、すぐに描いてくれた。その絵柄は、一人の男が崖の上から小便をし、それを崖下の男が頭から浴びてありがた涙を流しているというなんとも判じがたいものだった。
そこからこの事件も乱心によるものと推測されているが、それ以上くわしいことはわかっていない。
しかし、ここで少し考えてみたい。こうした奇行を取りあげて乱心と即断してよいものか。彼はもともと怒りっぽいところがあり、晩年は特に感情が安定しなかったようだが、それだけで狂乱とまで言えるかどうか。
源内が晩年、周囲も驚くほど怒りっぽくなったのは、50歳に近づいたという歳のせいもあるだろう。だが、根本にあったのは国益にかける己の高い志を理解しようとせず、山師とそしる世間に対するものだったのではないか。
また、南畝に与えたへんてこな絵も、芳賀氏は「まったく意味不明」と断じているが、世の人間など、小便をかけられてありがたがっている程度のものだという彼一流の皮肉だったのではないか。たしかに諧謔が少しストレート過ぎる気はするが。
自首から1カ月後、伝馬町の牢屋で非業の死を遂げた
では、なにが江戸の寵児を無益な殺人劇に走らせたのか? 酒の酩酊による喧嘩の上か、乱心か。故意か、過ちか。ひょっとしたら凶宅の祟りか。肝心のところはやはりよくわかっていない。
自首から一月ほど後、源内は伝馬町の牢内で病死した。この死因についても不明な点が多い。黙老の『聞まゝの記』には牢内で患った破傷風による病死とあり、今のところこの説が有力だが、後悔と自責から絶食して餓死したとかの説もあって定まっていない。
当時の伝馬町牢の環境は劣悪で、病をえて獄死する者が後を絶たなかったというから、源内が病死したとしても不思議はなかった。いずれにしても、鬼面人を驚かす非常の人は、最後まで世間を驚かせ続けて世を去ったのだった。
葬儀は杉田玄白、千賀道隆・道有親子、平秩東作ら親しい縁者の手で行われた。
源内は才能を浪費した「早すぎた近代人」だったのか
筆者は源内の評価についてこのように記した。
「ある者は、山師といい、ある者はあまりの多才ゆえにまとまった業績を残せなかったと才能の浪費を惜しむ。ある者は早過ぎた近代人と呼び、また、偉大な万能人としてレオナルド・ダ・ヴィンチと、大発明家としてエジソンと並び称す。この評価の多様さがそのまま源内という人物の多才さと結びつく」
現代から見て源内の業績はどう評価されるだろうか。
まず科学の分野における業績だが、特筆すべきは大方の評価どおりやはり本草学に関するものである。上野益三氏も指摘するように、その関心は旧来の本草学にとどまらず、西洋の博物学や自然誌に向かって開かれており、近代の植物学や鉱物学にまで引き継がれるものだった。
一方、西洋近代科学の根本にある究理学(物理学)についてはどうだったか。これについては、コペルニクスの地動説やガリレオやニュートン力学への理解を示した記述は見当たらない。電気学についても、理論的・実験的に探究したという事実はなく、評価の対象にはならないだろう。
科学と国益を結びつけて考えた源内ならではの先進性
火浣布(石綿)、芒消、タルモメイトル(寒暖計)、歩数計、エレキテルなどを製作したからくり師、発明家としての業績はどうだろうか。これについては、乏しい情報だけで原理を見抜き、実作してしまう理解力と行動力は称賛に価するが、やはり西洋の受け売りだった点は否めない。レオナルド・ダ・ヴィンチやエジソン、ニコラ・テスラなどの独創性には、やはり一歩も二歩も譲るだろう。
むしろ彼の真骨頂は、本草学を産業と結びつけ、田沼意次の重商主義政策を具現化しようとしたこと、科学と国益を結びつけて考えたこと、さらに進んで科学・技術と産業を結びつけようとした点にあるだろう。
それによって源内は19世紀の産業技術社会をも先取りしたのである。この点に限れば日本のエジソンどころか、エジソンよりも先行していた。
ただし、エジソンは成功して産業界の寵児になったが、一方の源内の事業は大半が失敗に終わった。この原因は彼の移り気な性格にもあっただろうが、やはり時代や環境の違いが大きかっただろう。
イギリスで産業革命が起こった時期に日本で孤軍奮闘
源内が活躍したのは江戸中期、西暦でいえば1700年代の後半である。この時代は、西洋でもイギリスの産業革命が緒についたばかり。日本では殖産振興の気運はあっても、肝心の技術革新が起こっていなかった。西洋における産業技術社会の本格的到来は日本の幕末期であり、それが日本に輸入されるのは明治期に入ってからである。つまり源内は時代に約100年先駆けて、科学・技術と国益と産業振興を一本の線につなごうとして、ほとんど孤軍奮闘を余儀なくされたのだった。
そんな源内の生きざまについては、このような評価が行き渡っている。彼はあり余る才能に恵まれながら、それをいたずらに浪費した結果、すべての事業が中途半端に終わった。
一方、親友の杉田玄白は『解体新書』の翻訳という一事に専念し、歴史に残る大業を成し遂げた。源内も対象を一つに絞ってそれに集中していたなら、もっと大きな業績を挙げられたはずだ。そのことは彼自身も自覚していたに違いない。その証拠に晩年、「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」と自嘲の句を残しているではないか、と。
一方、逆に、源内をいわゆる理系と文系の壁を乗り越えたと賞賛する声もある。理系には一般に理学、工学、医学、農学など、文系には法学文学、社会学、経済学、教育学などの学問分野が含められるが、こうした分類に従えば、本草学(植物学・鉱物学)やからくり(技術)の探究は理系、戯作や俳句に勤しんだのは文系の仕事と分けられるだろう。
江戸の文化創造と活性化に貢献した「先走り」の人生だった
その意味では垣根を取り払ったとも言えるが、源内の時代にはそもそもそんな区別がなかった。そうした区分けが生まれたのは明治以降の日本で、理由は予算に絡む便宜的なものだったというのが定説だが、それが固定化して現代に残っているのである。本来アマチュアの彼らは理系だろうと文系だろうと興味の赴くまま自由に学び、研究し、創作していった。国学者として名を成した本居宣長は医学者でもあった。同じく国学の平田篤胤も医学者であり、自然科学にも深い関心を示した。その意味では源内だけが突出していたわけではない。
この点は同時代の西洋でも同じだった。
つまり、科学が偉大なアマチュアのものだった時代に、東洋の島国にも源内という飛び切りの異才がいたというにすぎない。
それやこれや含めて、源内が52年の生涯において、持ち前の好奇心と知的関心を十全に開花させ、科学から文芸にまたがる数々の分野で先駆的業績を上げたこと、それによって士族から町人にまで刺激を与え、江戸の文化創造と活性化に大きな役割を果たしたことは間違いない。それはまさに、彼にしか成しえない「先走り」の人生だったと言えるだろう。