大きな心配事を目の前に自分の無力さを感じた時はどうすればよいのか。元米国ファーストレディのミシェル・オバマさんは「さしあたり小さな勝利を求めよう。ささやかなかたちで生産的になってもかまわないし、大きな目標と大きな夢のそばにある何かに力を入れて取り組んでもかまわない。自分の意志でやり遂げられて没頭できることを、何かひとつ見つけてほしい」という――。

※本稿は、ミシェル・オバマ『心に、光を。 不確実な時代を生き抜く』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

未来の計画が保留になったパンデミック

パンデミックの最初の数カ月で、状況がすっかり変わった。毎日の枠組みが奪われた。

ずっと頼りにしていたリスト、スケジュール、戦略計画は、突然、キャンセル、延期、まったく予定が立たないことばかりになった。友だちが電話してくるのは、たいてい不安に思っていることを話すため。未来の計画にはすべて留保がつくようになった。未来そのものに留保がついているように感じた。何方向がわからなくなって、コントロールを失ったように感じた。まるで道路標識と道しるべが取り除かれた街にいるみたいに。右と左、どっちへ曲がるの? 繁華街はどっち? わたしは方向感覚を失った。それとともに鎧の一部も失った。

世界地図に広がるウイルスの3Dイラスト
写真=iStock.com/libre de droit
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不安と孤立でうしろ向きになっていたわたし

いまはわかる。激しい嵐に襲われたときに起こるのが、まさにこれだ。境界線が破られて、パイプが破裂する。建物がなぎ倒されて、いつも使っている幹線道路や小道が水に浸かる。道路標識が引きはがされて、風景もわたしたちもすっかり変わり、新しく前へすすむ道を見つけるしかない。

いまはこれがわかるけれど、しばらくは嵐しか見えなかった。

不安と孤立のせいで、わたしは内向きでうしろ向きになっていた。心の奥に隠しておいた未解決の問い、昔しまいこんでいた疑念が、またすべて目に入ってきた。一度引っぱりだすと、すぐにはしまいこめない。何もしっくりこない。何もやり終えた気がしない。ずっと味わっていた整然とした状態は、とり散らかった不安感に取って代わられた。疑問のなかには具体的なものもあれば――“ロースクールは学費のローンに見あう値打ちがあった?” “友だちとの複雑な関係から距離をとったのは、まちがいじゃなかった?”――、もっと大きくて重たいものもあった。バラク・オバマのあとにドナルド・トランプを選んだ、わたしたちの国の選択に立ち戻らずにいられなかった。“わたしたちは、そこから何を得ようとしていたの?”

ホワイトハウスに黒人一家が暮らすということ

バラクとわたしは、いつでも希望と努力を原則に動こうとしていた。いいことを優先させ、悪いことは見すごして、ほとんどの人が共通の目標を分かちあっていると信じていた。たとえ少しずつでも、時間とともに進歩できるし、その進捗を測ることもできると思っていた。たしかに希望でいっぱいのまじめくさった物語かもしれないけれど、わたしたちはそれに力を注いだ。それに人生を託した。そしてそのおかげで、希望でいっぱいのまじめくさった黒人一家が、はるばるホワイトハウスへたどり着いた。その道のりでは、同じように感じているであろう文字どおり何百万ものアメリカ人に出会った。

アメリカ人の生活に深く埋めこまれた偏見と先入観にもかかわらず――おそらくそれに公然と反抗すらして――、そこまでたどり着けたことをわかっていたから、八年のあいだわたしたちは、この原則をはっきりと口にしながら生きようとした。黒人であるわたしたちがホワイトハウスにいることは、人間に何ができるかを物語っているとわかっていた。だからいっそう希望を持ち、努力して、その可能性のなかに完全に身を置こうと努めた。

ホワイトハウス公式肖像画の除幕式で、ミシェル・オバマ前大統領夫人にキスをするバラク・オバマ前米大統領(中央左)。(=2022年9月7日、米ワシントンD.C)
写真=CNP/時事通信フォト
ホワイトハウス公式肖像画の除幕式で、ミシェル・オバマ前大統領夫人にキスをするバラク・オバマ前米大統領(中央左)。(=2022年9月7日、米ワシントンD.C)

夫のあとに大統領になった男の白人至上主義

二〇一六年の選挙がこういうことへの直接の非難だったのかはわからないけれど、結果はとてもつらかった。いまでもつらい。夫のあとに大統領になった男が、悪びれることなくあからさまに人種差別的な中傷発言をして、どういうわけか、わがままと憎しみを許容されるものにした。白人至上主義者を非難するのを拒んだり、人種間の平等を求めてデモをする人たちを支持するのを拒んだりした。わたしはそれに深く動揺した。ちがいを脅威であるかのように語るのを聞いて、ショックを受けた。それは単なる政治的な敗北よりも大きな何か、はるかに醜い何かのように感じた。

このすべての背後にあったのは、気が挫けるようなさまざまな考えだ。

“あれでは足りなかった”
“わたしたち自身、力不足だった”
“問題はあまりにも大きかった”
“穴は巨大で埋められなかった”

その選挙結果については、評論家や歴史家がこれからも引きつづき見解を示し、非難と評価をして、性格、経済、分裂したメディア、インターネットの荒らしとボット、レイシズム、ミソジニー、偽情報、幻滅、格差、歴史の振り子を分析するのだろう――そこへ行きついた大小さまざまな理由について。何が起こってそれはなぜだったのか、なんらかの大きな理屈を描きだそうとするのだろうし、おそらくこの先もずっと議論がつづくのだと思う。でも、二〇二〇年はじめの恐ろしい数カ月間、家に閉じこめられていたわたしには、そこにどんな理屈も見いだせなかった。わたしが目にしたのは、誠実さを欠いているせいで国内の死亡数を急増させている大統領だ。その大統領の支持率は、その時点でもまだそこそこ高かった。

初めての軽いうつ症状

わたしは、それまでやっていた仕事をつづけた――オンラインの有権者登録キャンペーンで話して、いい取り組みを支援し、人びとの痛みを受けとめた。でも内心では、自分のなかの希望に触れたり、自分が本当に変化を起こせると感じたりするのがむずかしくなっていた。八月なかばに開催される民主党全国大会で演説してほしいと党の首脳部から依頼されていたけれど、まだきちんと向きあえていなかった。それについて考えるたびに行き詰まって、自分自身の挫折感と、国としてすでに失ったものへの深い悲しみにとらわれた。何を話せばいいのか、想像もつかなかった。失望の膜に包まれていくように感じて、心はどんよりとしたところへ傾いていった。

それまでうつ病のようなものと闘ったことはなかったけれど、これは軽いうつ状態のように感じた。楽観的にものを見たり、未来のことを合理的に考えたりしにくくなった。さらに悪いことに、冷笑的な考えに陥りかけていた――自分は無力だと結論を下しそうになって、いまの大問題や大きな心配事については何もできないという考えに身を委ねそうだった。何にもまして、わたしが闘わなければならなかったのがその考えだ。何も解決できそうにないし、やり遂げられそうにない。“なのに、どうしてわざわざやろうとするの?”

部屋の中で孤独に落ち込む女性
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編み物との出合い

こんなふうに気持ちが沈んでいたとき、オンラインで買っていた初心者サイズの二本の編み針をようやく手にとった。絶望感――自分にはできないという感覚――と格闘していたとき、買っておいた太いグレーの編み糸を少し取りだして、初めてそれを針に巻きつけた。小さなスリップノットに針をひっかけて、ふたつ目の輪に取りかかる。

編み物の入門書も二冊買っていたけれど、それを見ても図を手の動きに移しかえるのがむずかしかった。そこでYouTubeをのぞいたら、大量の解説動画と、何時間分もの根気強い説明や気のきいた助言を提供する世界中の熱心な愛好者コミュニティが(案の定)見つかった。頭に不安をたくさん詰めこんだまま、自宅のソファにひとり座って、ほかの人が編み物をするのを見た。そして、まねをしはじめた。わたしの手が、その人たちの手のあとを追う。表編みをして裏編みをし、裏編みをして表編みをする。しばらくすると、興味深いことが起こりはじめた。焦点が絞られて、心がほんの少し楽になったのだ。

手の動きに委ねることが安心へ

忙しく過ごしていた数十年間は、頭がすべてを完全に管理していて、手の動きも指示しているのだとずっと思いこんでいた。その流れを逆転させるなんて、思いもよらなかった。でも、編み物をするのがまさにそれだ。かき乱されている頭を後部座席にシートベルトで固定し、しばらく手に運転させる。編み物は不安から気を逸らしてくれて、最低限の安心感を与えてくれる。針を手にとると、いつも役割が入れかわるのを感じる。指が仕事をして、頭があとについていく。

様々な色の毛糸と編み棒
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悲しみと挫折感の先にあるもの

不安よりも小さく、心配と怒りよりも小さくて、押しつぶされるような無力感よりも小さなものに、わたしは身を委ねた。小さく正確な動きのくり返し。その何かが、音を立てる針の穏やかなリズムが、わたしの頭を新しい方向へ動かした。わたしを確かな道へ連れていった。

その道は破壊された街を出て静かな山腹をのぼり、もっと眺めのいい場所へつながっていた。

道しるべのいくつかをまた見つけられる場所。わたしの美しい国が見える。隣人を助け、エッセンシャル・ワーカーの犠牲に感謝して、子どもの世話をする人たちの、親切と思いやりがある。黒人の死がこれ以上ひとつも見逃されないようにしようと固く決意し、街頭デモをする大勢の人がいる。たくさんの人が投票すれば、新しいリーダーが生まれるチャンスがある。

それに、わたしの希望もまた視界に戻ってきた。この静かな視点から、わたしは悲しみと挫折感の先にあるものを見て、失っていた確信を捜しあてることができた――適応し、変化を起こして、乗りこえる力がわたしたちにはあるという信念を。わたしの思考は、父へ、サウスサイドへ、ママへ、それより前の先祖たちへ向かっていった。長年のあいだにみんなが繕い、修理し、運ばなければならなかったものを考えた。

それぞれの信念は、子どもや孫の人生がもっとよくなると信じる気持ちから生まれていた。その格闘と犠牲を尊ばなければならないんじゃないの? アメリカ人の生活の中心にある不公平を、少しずつ崩しつづけるしかないんじゃない?

ドナルド・トランプは困難を乗りこえられる人物ではない

全国大会の演説を考えるのにしばらく行き詰まっていたけれど、ようやく自分が話したいことがわかった。考えをことばにして何度か推敲すいこうし、八月はじめのある日、小さなレンタルスペースに腰を落ちつけて演説を録音した。見守るのはたった数人。ビデオカメラの暗いレンズを見すえ、わたしの国にいちばん伝えたかったことを伝えた。わたしたちが失ったものと、まだ取り戻せるものについて、悲しみと情熱をこめて話した。

ドナルド・トランプは、この国と世界に降りかかっている困難を乗りこえられる人物ではない。それをできるかぎり率直に語った。他者への共感力エンパシーをもち、憎しみと不寛容に抵抗することが大切だと話して、みんな投票してほしいと呼びかけた。

ある意味ではシンプルなメッセージだ。でも同時に、それまでのわたしの演説のなかでいちばん激しいものにもなった。

聴衆が目の前にいない状態で大きな演説をするのも、初めての経験だった。ステージも、鳴り響く拍手も、天井から降る紙吹雪も、終わったあとに交わすハグもない。二〇二〇年にはいろいろなことがそうだったけど、何もかもが奇妙で、少しさみしかった。でもその夜、ベッドに入るときには、暗い場所をけだして、与えられた機会を活かすことができたと感じていた。

自分の存在の絶対的な中心から語るときの、すさまじいまでの明瞭めいりょうさ。それをこれまでになく経験したのだと思う。

演説するドナルド・トランプ
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編み物がなければここまでたどり着けなかった

たぶんこんなことを言うのはおかしいのだけど、じっとしていることを強いられた期間と、編み物に見いだした心の安定がなければ、そこまでたどり着けたかわからない。もう一度大きなことを考えるには、小さなことをしなければならなかった。起こっていることすべてのとてつもなさに動揺していたわたしには、よきこと、シンプルなこと、やり遂げられることを取り戻すために自分の手が必要だった。それには実際、大きな意義があった。

いまは編み物をしながら母と電話で話したり、オフィスにいるチームとZoom会議をしたり、夏の午後に友人たちと裏庭のテラスで話したりする。編み物のおかげで、夕方のニュースを見るストレスが少し減った。一日のなかの特定の時間帯があまりさみしくなくなって、将来のことをもっと合理的に考えられるようになった。

小さなものをあえてそばに置くことの意義

編み物がすべてを解決してくれると言いたいわけではない。レイシズムを終わらせることはないし、ウイルスをやっつけることも、うつ病を打ち負かすこともない。公平な社会をつくりだすこともなければ、気候変動をやわらげることもないし、破壊された大きなものを回復させることもない。そんなことをするには小さすぎる。

あまりにも小さくて、意味があるとは思えない。

そして、それがわたしの言いたいことでもある。

小さなものをあえてそばに置くことで、大きなことへ対処しやすくなることがある。それをわたしは理解できるようになった。すべてが大きく見え、恐ろしくて乗りこえがたいと感じはじめたとき。感じすぎ、考えすぎて、見すぎるようになったとき。そんなときには、小さなものを目指せばいいと学んだ。全国的な大惨事と悲運のほかは頭が何も理解できない日々、“わたしにはできない”という感覚のせいで身動きが取れずに心がかき乱される日々には、編み針を手にとり、両手に主導権を譲る。カチカチと静かに音を刻む両手に、つらい場所から抜けだす手助けをしてもらう。

毛糸で描かれたハートマーク
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“目を立てる”“目を止める”

編み物では、新しい作品に取りかかるときに“目を立てる”。作品が完成すると“目を止める”。このふたつの動きは、どちらも信じられないほどの満足感を与えてくれる――自分で制御できて終わりがあるものの最初と最後。いつでもずっと混沌としていて完成することがないように思える世界で、達成感を与えてくれる。

状況が手に負えないと感じはじめたら、反対の方向へすすんでみるといい――小さなもののほうへ。考えを整理しなおすのに役立つものや、しばらく専念して満足感を得られるちょっとしたものを探す。テレビの前に受け身で座っていたり、スマートフォンをスクロールしたりするのは、そこには入らない。能動的な何か、頭を使って身体も使う何かを見つけてほしい。プロセスに没頭してほしい。そして、嵐から一時的に逃げることを自分に許してほしい。

小さな勝利を求めよ

わたしと同じように、あなたも自分に厳しいかもしれない。すべての問題が差し迫っていると感じているかもしれない。人生で大きなことを成し遂げたい、大胆な目標に向かって前にすすみたいと思っていて、一秒たりとも無駄にしたくないかもしれない。どれもいいことだし、大きなことを目指したいと思うのはまちがっていない。でもときどき、小さな成果をあげるよろこびを自分に許してほしい。むずかしい問題やうんざりする考えから一歩離れて、頭を休ませる必要がある。むずかしい問題やうんざりする考えがなくなることはないし、おおむね片づくこともなくて、対処されないまま残るからだ。穴はいつだって大きく、答えはなかなか見つからない。

ミシェル・オバマ『心に、光を。 不確実な時代を生き抜く』(KADOKAWA)
ミシェル・オバマ『心に、光を。 不確実な時代を生き抜く』(KADOKAWA)

だから、さしあたり小さな勝利を求めよう。ささやかなかたちで生産的になってもかまわないし、大きな目標と大きな夢のそばにある何かに力を入れて取り組んでもかまわない。それをわかっていてほしい。自分の意志でやり遂げられて没頭できることを、何かひとつ見つけてほしい。自分にしか直接の利益がないことでもかまわない。午後に時間を割いて、バスルームの壁紙を貼り替えたり、パンを焼いたり、ネイルアートをしたり、アクセサリーをつくったり。二時間かけて、お母さんのレシピでフライドチキンを丹念につくってもいいし、一〇時間かけて、地下室でノートルダム大聖堂のミニチュアレプリカをつくってもいい。夢中になるという贈り物を自分に許してほしい。