武家社会において妻は夫に黙って従ったと思われがちだが、夫に忖度しなかった女性もいた。歴史学者の北川智子さんは「秀吉の正室ねねは、秀吉の無謀な朝鮮出兵に強く反対し、義理の息子に当たる天皇に勅旨を出してもらうということまでした。側室の茶々が秀頼を産み、秀吉晩年の夫婦関係には溝ができたが、それでも、ねねの地位は不変だった」という――。

※本稿は、北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

社会的地位や収入を得たねねにも苦難の時が訪れる

「人生山あり谷あり」という諺がありますが、ねねの人生にも、苦難が重なる時期があります。最高の官位を持っていても、北政所という立場があっても、それでも人生全てがうまくいくわけではありませんでした。

長期戦になった小田原攻めのあいだ、ねねは茶々の産んだ鶴松の世話をしていました。城には他にも同居していた養子がおり、この時期まで、ねねは妻としてだけではなく母としても多忙な暮らしをしていました。本拠地を大坂としながらも、京都の別邸である聚楽第にも足しげく通い、行動範囲を広げます。

『豊臣棄丸像』(写真=妙心寺寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『豊臣棄丸像』(写真=妙心寺寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ねねが京都に滞在中の1590(天正18)年8月、秀吉は手紙を送りました。

お姫の具合が少しよいと聞き、嬉しく思います。きっと良くなっているに違いないと思います。丁寧に看病してあげてください。また、若君は機嫌良くしていますか。手紙で返事をください。ここの状況が安定したら、すぐに京都に戻る予定にしています。

追伸 お姫は随分よくなっていますか。何度でも手紙で報告をください。油断はしていないとは思いますが、どうぞよく指示をだしてください。鶴松にも伝言を頼みます。
(原典は里見文書、『太閤書信』#74)

織田信雄からもらった養女と待望の男子を続けて亡くす

養女の1人、「お姫」が病気だったようです。回復に向かっていることを、喜ばしいと言いながらも、もっと手紙を送るよう催促しています。

彼女は、織田信雄の長女で1585年くらいに生まれています。すぐにねねと秀吉の養女になり、ねねのもとで他の養女とともに育てられていました。お姫はその後、徳川家康の後継ぎとなる秀忠と1590年に数え6歳で婚約しています。

織田の血を引き、豊臣の娘として育てられたお姫ですが、徳川に嫁ぐ頃になっても病気から回復せず、1591年、7歳で天折してしまいます。お姫は織田、豊臣、徳川の連立の要になるはずでした。お姫が生きていれば、歴史は確実に変わっていたでしょう。

さらに、お姫が亡くなってから1カ月も経たない8月2日、ねねが育てていたもう一人の子供で若君と呼ばれていた、秀吉と茶々の息子の鶴松が、病に冒されます。神社仏閣には病気からの回復を祈る祈祷のための寄進が送られ、即座に大規模な祈祷がなされました。しかし、その甲斐なく、3日後の8月5日に鶴松は息を引き取ります。数えで3つでした。

ねねはどうやって立ち直ったのでしょうか。大きな悲しみの中、跡取りと縁組を駆使した政治的な計らいも狂い、ねね、秀吉、ともに想定外のシナリオを進むことになります。

夫の朝鮮出兵に反対して天皇にも働きかけたねね

娘と息子を失った後、ねねと秀吉の夫婦の距離はだんだん広がっていきます。秀吉が、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねねはその計画に反対でした。しかし、秀吉はねねの諫言も聞き入れません。

九州の博多は、大唐(当時の中国の明朝)と、そのさらに西にある南蛮国(ヨーロッパ)の船が着くところでした。秀吉はその博多に城を建設する必要があると判断し、築城を始め、さらに、高麗国(当時の朝鮮)に軍を送ります。しかし、ねねは、断固として他国への侵入に反対でした。

ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけ合い、勅旨を出してもらいました。義理の息子というのも、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になり、「名家の公卿の息子」として関白になった経緯があります。その後、近衛前久の娘の前子がねねと秀吉の養女となっており、前子は即位が確定した後陽成天皇と結婚しました。この縁組と結婚により、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。

時の天皇、後陽成天皇は、秀吉に宸翰しんかん(天皇の筆跡)を送ります。

「高麗国へ向かうには、玄界灘の大波を越えていかなくてはならず、恐れ知らずです。どれくらい大勢の人間を派遣しても成功するとは思えないうえ、朝廷のためにも、天下のためにも、もう1度、考え直すべきではないか」と諭しています。「思いとどまって、案を考えるほうが、自分には喜ばしい」と、その思いを伝えるために勅使も派遣しました。

「霊屋内陣 高台院坐像」(桃山時代)
写真=高台寺所蔵
「霊屋内陣 高台院坐像」(桃山時代)

ねねと秀吉の距離のさらなる広がり

朝鮮に渡ろうというのは、どう考えても無謀なのです。

それでも、秀吉は、諦めませんでした。

秀吉は拠点として城を築いていた九州の名護屋(現・佐賀県唐津市)に茶々を呼びよせました。ねねは大坂に残って手紙を出し、返信を待つ日々が続きます。その中で、1592(文禄元)年6月20日、秀吉からの返信が届きました。

朝鮮半島への航行を翌年の3月に控え、海の波が落ち着く春まで待つので名護屋にて年越しをするという報告です。小田原の時も長丁場でしたが、今回は、6月の時点で次の春まで待つというのですから、相当長い期間ねねのもとを離れることになります。この時期、もはや一緒に暮らすことは、ねねと秀吉の生活の基本ではなくなっていました。

ねねと秀吉は離れたまま春が訪れ、朝鮮へ進軍した後、1593(文禄2)年5月20日にねね宛に手紙が来ました。いつものとおり、戦況の報告から入ります。

茶々の妊娠は喜ばしいが次はねねに育てさせないと書いた秀吉

明朝より謝りに勅使が名護屋へきたので、箇条書きにして渡しました。その事項に従い、存分に条件をのめば、そのまま許すことにし、明国、朝鮮、他国を任せ、凱陣する予定です。ただし、高麗に城の普請を指示しているので、今しばらく、時間がいります。7月か8月には必ずお目にかかる予定ですので、ご安心ください。

最近は、少し風邪気味でしたので手紙を書きませんでした。これが風邪から回復してから初の手紙です。また、二の丸殿が妊娠したと聞きました。喜ばしいことです。自分は子供が欲しくなかったので、ご了承ください。太閣の子には鶴松がいましたが、死んでしまいましたので、二の丸殿の子とだけしておけばよいのではないでしょうか。
(原典は『豊大閤真蹟集』#36)

追伸では、最近、手紙を送っていなかった理由を説明して許してもらいたいという雰囲気です。咳風邪で、その間は筆をとらなかったと。第2点は、二の丸、つまり、茶々が妊娠したことを聞き、めでたいと思うという内容なのですが、原文では「われわれは、子ほしく候はず候まゝ、その心得候べく候」という部分があり、自分は子供が欲しくなかったのだから、その点、了承してほしいというのです(ここにある古語の「われわれ」とは、我々ではなく、秀吉自身のことを指しています)。また、鶴松が他界したことを持ち出し、第1子の若君を亡くした悲しみを引きずっている様子も見せています。

淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

中国の明朝より謝罪があったので、朝鮮も一緒に許し、10月頃には必ず帰ると伝えています。しかし、この「詫び事」があったというのは、秀吉の誤解でした。朝鮮で大名たちが苦戦している中、秀吉には本当の戦況が伝えられていなかったのです。しかし、ねねには明朝より謝罪があったと報告されたので、明にも朝鮮にも勝ったように伝えられたのです。

秀吉の「ゆるゆる抱き合って話をしよう」と甘い言葉

1593(文禄2)年8月3日。九州の名護屋で戦況を眺めている秀吉から朝鮮出兵の状況が記された手紙がねねに届きました。

高麗の城の普請も出来つつあることを聞きました。兵糧も送るよう、さっそくしっかりと指示をしました。今月中には平定が整う予定ですので、9月10日頃に名護屋を発ちます。あなたのもとへは、25日か26日ごろには参ります。(26日には)早々と凱陣の準備をするので、安心していてください。あなたからの使いの者たちも8月10日頃に返します。また、二の丸殿(茶々)の妊娠もめでたいことです。やがて凱陣した時には、積もる話をしましょう。必ず9月中には凱陣します。

追伸 9月25日か26日には大坂へ参ります。どうぞお待ちください。ゆるゆる抱き合って、お話をしましょう。
(原典は『豊大閤真蹟集』#38)

茶々が産んだ二人目の男子・秀頼が豊臣家の運命を変える

「二の丸殿の妊娠もめでたいことです」とありますが、実は、この手紙が書かれた日に、茶々は男児を大坂城で産んでいます。その日のうちに、九州の名護屋まで情報が伝わるとは考えづらいので、茶々の出産はまだ知らされていないのでしょう。秀吉は、凱陣して9月25日か26日には、ねねと「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」と、甘い言葉を書き残しています。

しかし、男児が生まれたことを聞いた秀吉は、この手紙でねねに伝えている9月の凱陣の予定を早めることになります。

1593(文禄2)年8月9日、松浦重政が使者を送り、茶々が男児を出産したことを報告しています。伝達が速かったので、ねねから重政にお礼を言うようにと伝えています。男児の名前は「ひろい」となりました。棄子、拾い子はよく育っという諺から縁起をかついでいます。産んだのは茶々でも、その子供の命名はねねがするように伝えているのです。正妻としてのねねの立場は不変でした。

1597(慶長2)年、戦い続ける日本軍を朝鮮に残し、秀吉は朝鮮に渡航しないまま京都に隠居のための城を造り、9月に秀頼という名を得た息子ひろいとともに転居しました。この城は京都新城と呼ばれ、内裏の仙洞御所内に造られたものです。

『豊臣秀頼像』(写真=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『豊臣秀頼像』(写真=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の遺言によって一番多い遺産をもらったのは?

その翌年、1598年。ひろいは、数えで6歳になりますが、秀吉は病床に伏してしまいます。

ねねは病床の夫に伏見で付き添い、早期回復のために、神社仏閣に祈祷を依頼します。ねねの相談役の1人、孝蔵主が書いた手紙に、秀吉の病の回復を願うねねからの伝言があります。

この依頼を受け、本腰を入れて祈祷を行った醍醐寺の座主の義演には、その翌日、秀吉の具合が少しよいことが伝えられました。

それでもまた数日後、秀吉の病状は悪化します。

秀吉は遺言で、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家(八郎)、徳川家康を5大老として、まだ幼い秀頼が成長するまで、大坂城の天守閣を本拠地として5大老が協力して政権を維持するように、誓約書をしたためました。

死が近いことは秀吉自身にも、誰の目にも明らかなことでした。そこで1598年、秀吉の死の直前、次の分配で、ねね、茶々、豪が遺産を取るように指示しました。

ねねへの遺産は茶々や養女の豪より多かった

ー万貫文 政所(ねね)に与える
これは前もって渡す
七千貫文 茶々に与える
七千貫文 豪へ与える
合計二万四千貫文
(原典は『豊大閤真蹟集』井)

ねねへの分配が一番多く、茶々、豪と続きます。公用のお金が、3人の女性に分配されていくのです。この後、公家や門跡にも形見分けの金銀が送られています。また、諸大名には総計で黄金300枚を配っています(『義演准后日記』第1273頁)。
秀吉、人生最後の大盤振る舞いです。(編集部註:一万貫文=現在の約12億円)

北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)
北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)

これまで、日本での通説では、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持ったとされてきました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちの「母」として、財力のある「個人」として、「家」に属さない独立した唯一無二の存在として生きていました。

ねねは1624(寛永元)年に病死します。彼女が死去したという報を受けると、徳川秀忠はねねの甥に宛てて、江戸から京都にお悔やみの手紙を書き送っています。

ねねは生涯、人との繋がりを切ることがありませんでした。現実から目をそらさず自分で筆をとって手紙を書いて、離れて住む人たちとの交流を絶やさなかったのです。

天下統一という波乱の時代を、ねねはしっかりと生き抜きました。