天下統一を成し遂げても、その野望は留まるところを知らず、海の向こうにまで領土拡大を狙った豊臣秀吉。『家康クライシス』などの著書がある濱田浩一郎さんは「秀吉の2度にわたる朝鮮出兵で、家康は朝鮮に渡る九州までは赴いたが、領地が東国になっていたゆえに幸運にも兵を出さずに済んだ」という――。

小田原征伐のあと家康は秀吉の命令で関東へ移転

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐(後北条氏討伐)が行われ、後北条氏は滅亡します。それに伴い、北条氏の旧領の多くは、徳川家康に与えられることになりました(家康の関東転封)。三河・遠江国など家康が長年統治してきた国々には、豊臣系の諸大名が配置されることになったのでした。

家康としては、本当は東海地方から離れたくなかったかもしれませんが、秀吉の意向に背けば、どのようなしっぺ返しを食うか分かりません(秀吉の国替の意向に背いた織田信雄は改易)。家康は、江戸に入ることになります。豊臣政権の重鎮として、家康は、関東・奥羽の惣無事(和平)のため、尽力していくことになるのです。

さて、天下を統一した豊臣秀吉は、2度にわたる朝鮮出兵を行います。1度目は、文禄の役(1592〜1593年)、2度目は慶長の役(1597〜1598年)と呼ばれます。朝鮮出兵といっても、秀吉の真の狙いは、明国の征服にありました。文禄の役の際、秀吉は、16万の日本の兵力を9軍に編成して朝鮮に渡航させました。

「釜山鎮殉節図」
釜山鎮の戦い(1592年)。「釜山鎮殉節図」。文禄の役、釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

名だたる武将が朝鮮に渡るものの家康は国内に留まった

慶長の役の時は、14万の兵力を朝鮮に派兵します。朝鮮出兵においては、宇喜多秀家・小西行長・加藤清正・黒田長政・福島正則・長宗我部元親・毛利輝元・藤堂高虎・小早川秀秋・脇坂安治ほか名だたる武将・大名が朝鮮に渡海しています。

しかし、当時、豊臣重臣であった徳川家康は、朝鮮に渡り戦うことはありませんでした。これは、なぜなのでしょうか? そのことを見る前に、家康と朝鮮出兵にまつわる様々な逸話を先ず、見ていきましょう。ある時、家康が江戸城にいる時に、豊臣家の使者がやって来て、朝鮮征伐を行うということを伝えます。が、家康は、書院に座したまま、一言も発しなかったそうです。

家臣の問いに「箱根を誰に守らせるのか」と言った家康

家康の側近・謀臣として有名な本多正信は、主君のその様を見て、こう問いかけます。「(朝鮮に)ご渡海あるべきや、如何か」と。1度ならず、3度まで問いかけたとのこと。つまり、2度尋ねても、家康は口を開かなかったということです(それはなぜかは分かりません。家康は無口で知られていますが)。

3度問いかけてやっと家康は「それほど、うるさく聞くべきことか。箱根を誰に守らせるのか」と口を開きます。正信は家康の言葉を聞いて(かねてより、しっかりとお考えを定められていたのか)と思い、御前を退いたようです。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に収録された逸話ですが、それによると、家康は朝鮮に渡海することはないだろうと踏んでいたことが分かります。

日本側の渡海拠点は、肥前国名護屋(佐賀県唐津市)で、家康は朝鮮に渡ることはありませんでしたが、名護屋には赴いています。天正20年(1592)3月17日、家康は都をたち、名護屋に向かいます。1万5千もの軍勢を率いていました。江戸の留守居は、後継者の徳川秀忠でした。

豊臣軍は苦戦し秀吉は「日本のことは徳川殿に任せる」

朝鮮に出兵した日本軍は、最初こそ、快進撃し、首都(漢城)、平壌ピョンヤンを陥落させますが、明国から朝鮮への援軍や、朝鮮の義兵が決起すると、苦戦を強いられることになります。『徳川実紀』によると、戦況がはかばかしくないことを聞いた秀吉は、次のような構想をぶち上げたそうです。

月岡芳年作「正清三韓退治 晋州城合戦之図」
月岡芳年作「正清三韓退治 晋州城合戦之図」。文禄の役で加藤清正(佐藤正清)軍が苦戦する様子[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

「自ら30万の大軍を率いて、かの国に渡り、前田利家と蒲生氏郷を左右の大将として、3手に分かれて、朝鮮は言うに及ばず、明国にまで攻め入る。異域の者ども、ことごとく、皆殺しにしてくれよう」と。では、秀吉が朝鮮へ出陣した後の「日本」はどうなるのか。秀吉は「日本のことは、徳川殿(家康)がおられるので、心安い」と言ったそうです。

つまり、日本のことは、家康に任せるというのです。ちなみに、秀吉の言葉を聞いた利家と氏郷は「上意(秀吉のお考え)、かたじけなし(ありがたい)」と言上しました。両将を「左右の大将に」という秀吉の言葉に感謝の意を示したのでした。だが、このやり取りを聞いて、機嫌を損じた男がいました。

「自分も海を渡って戦う」と言った家康に秀吉は激怒

そう、家康です。家康は、利家と氏郷に向き合い、次のように言います。「それがし、弓馬の家(武家)に生まれ、戦を重ねて、人となった。年若き頃より、今に至るまで一度も不覚の名をとったことはない。今、戦が起こり、殿下(秀吉)のご渡海があろうというときに、それがし1人、諸将の跡に残り留まって、いたずらに、日本を守ることができようか。微勢なりといえども、手勢を引き連れ、先陣仕ろう。人々の推薦を仰ぐ」と。

この言葉を聞いて、秀吉は大いに喜ぶかと思いきや、そうではなく、怒って反論します。「日本国中において、この秀吉の言うことに背く者があろうか。背く者あらば、天下の政令も行うことはできないだろう」と。しかし、家康は「一般のことはともかく、きゅうせんの道(戦のこと)は後世に残ること。たとえ、殿下の仰せであっても、承ることはできません」と一歩も引かず。

月岡芳年作「朝鮮征伐大評定ノ図」
月岡芳年作「朝鮮征伐大評定ノ図」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康と秀吉の論戦に豊臣五奉行の浅野長政が割って入った

大物2人の論争に座が白けたそのとき、浅野長政が進み出て「徳川殿の仰せこそ、もっともだと思います。此度の戦では、中国地方、西国の若者どもが、かの地に渡っております。殿下がまた、北国や奥州の人々を引き連れて、渡海してしまえば、国中いよいよ人が少なくなってしまいます。その隙をうかがい、異国から軍勢が責め寄せるか、国中に一揆が起こったりした時、徳川殿1人残っていても、これを鎮めることができましょうか。よって、徳川殿は渡海すると仰ったのでしょう。長政も、徳川殿と同じ心構えです。殿下、最近のご様子はおかしなもの。野狐のぎつねなどが御心に入られたか」と爆弾発言、地雷を踏む発言をしてしまいます。

当然、秀吉は「長政、狐がいたとは何事ぞ」と烈火の如く、怒ります。だが、長政は恐れることなく「応仁の乱よりこのかた、乱れ果てたる世の中がようやくせいひつになったという時に、罪なき朝鮮を征伐され、国財を費やし、人民を苦しめるとは何事ぞ。こうまで思慮のない殿下ではないはず。それがなぜ、このようなことを。だから、狐が憑いたのだと申したのです」と堂々と反論。

秀吉は、腰刀に手をかけ、長政を討とうとします。それを織田信雄と前田利家などが必死に押さえ「長政、座を立て」と言うも、頑固な長政は座ったまま。ついに、家康が「徳永・有馬の両法印」に命じて、長政を引き立てて、次の間に行かせたことで、惨事は回避できたとのこと。秀吉も今回の言動を後悔したのか、自ら渡海することはやみとなりました。

東国に領地替えになっていたから後方支援になった家康

『徳川実紀』の逸話からは、家康は「自らは朝鮮に渡海することはないだろう」との目算は持ちつつも、いざとなれば「渡海して戦う」との気概・覚悟を持っていたことが垣間見えます。しかし、先述のように、家康が朝鮮に渡海して、戦うことはありませんでした。

それはなぜなのでしょうか。その「謎」を解く鍵は、朝鮮出兵の際の軍勢編成にあります。文禄の役の時、軍勢は全体で「九番」に編成されましたが「一番」は小西行長や宗義智らの軍勢。「二番」は加藤清正や鍋島直茂らの軍勢。「三番」は黒田長政、大友義統らの軍勢。「四番」は島津義弘らの軍勢。「五番」は福島正則・蜂須賀家政・長宗我部元親らの軍勢。「六番」は小早川隆景・毛利秀包らの軍勢。「七番」は毛利輝元の軍勢。「八番」は宇喜多秀家の軍勢。「九番」は羽柴秀勝や細川忠興らの軍勢でした。

家康が天下を取れた理由は幸運にも出兵を免れたからか

九州に領地を持つ大名、四国の大名、中国地方の大名がズラリと並んでいることが分かります。九州・四国・中国地方の大名が配置されているのです(主に、西日本の諸大名が朝鮮へ出征することになった)。家康や前田利家・伊達政宗・上杉景勝といった東国・北陸の大名は、後詰め(先陣に対する控えの軍隊)として、肥前名護屋に在陣することになったのでした。家康らは軍陣編成上の順番が後方であったために、文禄・慶長の役で朝鮮に渡海せずに済んだのです。

「歴史にもしも」はタブーといわれますが、もし、秀吉がもっと長生きして、朝鮮での戦が長引いていれば、徳川軍も渡海していた可能性も十分あるでしょう。軍陣編成上の序列が後方であったというのは、運が良いと言えます。無用の損失を避けることができたからです。

家康が天下を取れた理由の1つを「朝鮮への渡海を控えて戦力を温存した」ことと述べる人もいます。しかし、家康の意思で「渡海を控えた」というのではなく、西日本の大名を中心とした軍陣編成が、たまたま有利に作用したと言えましょう。よって、家康の所領が九州や四国にあったならば、徳川軍も海を渡った可能性が高いのです。

※主要参考文献一覧
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)