戦国時代、女性は夫の陰に隠れた無力な存在だったと思われがちだ。ハーバード大学で日本史の講義を開き、豊臣秀吉の妻ねねを「レディサムライ」のひとりとしてと紹介した歴史学者の北川智子さんは「ねねは、はっきり物を言う性格だったようだ。合戦や税の取り立てについても意見を言い、秀吉も単なる妻ではなく自分と同等の存在として尊重し、こまめに手紙で報告をしていた」という――。

※本稿は、北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

夫の関白就任と同時に北政所となり社会的地位を確立

小牧・長久手の戦いが終結した後、秀吉は天皇家の関白、つまり天皇を補佐した行政の権利を持つ官職につきます。秀吉は将軍職への着任は辞退したのですが、どうして征夷大将軍にならなかったのでしょうか。

理由はいくつかありそうですが、妻のねねにとっては夫が関白になることは、将軍になることよりも有難い選択でした。実は、秀吉が関白になることにより得をするのは、秀吉の妻ねねなのです。なぜならば、秀吉の関白就任とともにねねは「北政所」という摂関家の正室の呼称が与えられ、同時に、従3位という極めて高い官位を得ることができます。2人とも、もともとは低い身分で、由緒ある家系の出身ではありません。ところが秀吉が関白になると、ねねの社会的地位も公家となり目に見える形で確立されていくのです。

秀吉が関白になり、ねねが北政所の称号で知られるようになった1585(天正13)年、ねねは推定で、数え38歳、秀吉も数えで50歳くらいになっていました。

武士の頂点に立つのではなく朝廷の力を利用して統治者に

関白となった秀吉と北政所となったねねは、1587年には京都にも屋敷(聚楽第)を構え、独自の統治形態をいっそう強固なものにしました。京都には、天皇家や皇族、さらに、神社仏閣の住持が、天皇を中心とした旧体制を保ちながら暮らしています。ねねと秀吉は、将軍家として武士の頂点に立つことで統一を成し遂げるのではなく、日本に古くからある朝廷や皇族の権限をうまく利用しながら、統治者としての力を伸ばしていきました。

そして1590年頃までには、日本列島の大部分が豊臣の政略網の中に入ることになります。

ねねと秀吉は夫婦で1組のペアのように団結していながら、お互いにお互いへの影響力を持っていました。その一方で、ねねは個人として生きていける財力をつけていきました。夫がいるにもかかわらず彼女は経済的にも自立していくのです。

女性に収入があるのが一般的でないのであれば、ねねの領地の確保に際して反対や反発があったのでしょうが、実際のところ、この頃には女性の土地所有はある程度一般化していました。他にも、城主の妻や娘、城主家に仕える女性たち、天皇家や公家の女性にも収入がありました。ただ、ねねの場合、管理した土地の大きさが群を抜いていたのです。彼女の領地は1万石を超える広さでした。正確に合計すると1万1石7斗。ちょうど1万石を超えるように計算されたかのようです。

ねねの領地は天王寺や玉造などの最重要エリアだった

1592年に、ねねが収入を得ていた地域は、大坂城の周辺です。地図で見ると、ねねは大坂城下を包み込むように、天王寺、平野庄、国分、林寺、湯谷島と、かなり広い地域を所有していたことがわかります。大坂城の南のほう、お城近辺から南部へ向かって、かなりの地域がねね名義の土地として与えられていました。

高台寺所蔵 『高台院 (ねね)像』(パブリックドメイン、Wikimedia Commons)
高台寺所蔵『高台院(ねね)像』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

所領の中でも、大坂城の防衛の面から見ると、天王寺が極めて重要な場所でした。もうひとつ、玉造という村は、違った意味で重要でした。細川忠興、前田利家、浅野長政、さらに千利休といった豪勢な面々が住居を構えていた地域で、商業的な利益よりも人的な関わりという点で、この居城地の地主であることに意味があったのです。

新興商業地となっていた大坂は、この頃からますます発展していきます。大坂と京都の南のほうにある伏見に繋がる道、江戸方面へ向かう道、それぞれの方面へ物流網が張られていきました。大坂からの水陸の交通を要に、人も物も各地に往来していきます。その後、海運は日本海と太平洋に広がり、人々を日本の外の世界へ誘う、地の利を得ていました。

秀吉の跡継ぎを産んだ茶々ら側室と、ねねとの関係

側室と正室のねねの関係はどうだったのでしょうか。次の手紙が、その関係を知るのに適したものなので、長文ですが、現代語訳で一通り読んでみましょう。

1590(天正18)年4月13日に、秀吉が北条氏政、氏直を相手に小田原に詰めている間に、ねねに送ったものです。まずは、ねねが小田原へ使いの人を送っていることへの感謝から始まり、ねねに戦況を伝えます。

何度もこちらに人を送ってくださいました。とても嬉しく思います。小田原では、敵を2、3重に取り卷き、堀や塀を2重に作り、誰一人として逃さない方針です。特に、坂東人国(相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、上野、下野)の者達は籠城しているので、小田原を乾殺し(餓死)にすると、奥州までの地域を平定したことになりとても満足に思います。

日本の3分の1に価するものなので、この場面で、辛抱強く、長い時間がかかっても、しっかりと指令をすることで、この先末長く天下のためによいことをしょうとしているので、今回は剣を振るい、長丁場の戦に持ち込み、兵力も食料も金銀もつぎ込んで、名前が残るようにしてから、凱陣する予定ですので、ご安心ください。このことは、皆々へも伝えてください。

追伸 早々と敵を鳥籠に入れている状態なので、危ない目にはあっておリませんので、ご安心ください。若君が恋しいですが、行く末を見据え、天下を穏やかに平定すべきだと思います。会えない恋しさもありますが、どうかご安心ください。私は、灸も施し、養生しておリます。ご心配なさらないよう。各々へもこのことを伝え、大名たちに女房を呼ばせ、小田原に滞在するよう言いました。

「ねねの次に茶々が気に入っている」と書いた秀吉

ねねの心配を和らげるかのように「ご安心ください」という言葉を連発しています。そして、「淀の者」として茶々が出てくる次の部分で締めくくられています。

説明したようにここに長く陣取ることになりますので、そのため、淀の者を呼びたく思います。あなたより、しっかり指示をだして、前もって用意をさせてください。あなたの次に、淀の者が自分の気に入るように親切に扱ってくれますので、どうか安心して召し寄せてください。淀へも、あなたからの指示で、こちらに呼んでください。
我々は年をとりましたが、年内に1度は、そちらに参り、大政所にも若君にもお会いしょうと思っていますので、どうかご安心ください。
(原典は『豊大閤真蹟集』#24)

長期戦になるので、茶々を小田原に呼んでほしいというのです。ねねからもよく言い聞かせ、前もって準備をさせるように、と。ねねの次に茶々が気に入っているので「派遣してほしい」。ねねの指示で人を送るように、と。つまり使者、侍女などを陣中に送っていましたが、ねねは茶々を送っていなかったのです。この手紙で、秀吉は名指しで茶々を小田原に送るように言っていますが、ねねに気を遣ってあくまでも「ねね一番だよ」と書いてから茶々をよこすようお願いしています。

豊臣秀吉書状 おね宛『Google Arts & Culture』HPより
豊臣秀吉書状 おね宛(徳川美術館蔵)『Google Arts & Culture』より

さらに、自分も年をとったが、今年中に一度はねねのもとに戻り、実母と若君に会うようにするので、安心なさってくださいとねねに言っています。手紙は1590年4月13日のものなので、数え年でねねはおよそ43歳、秀吉は55歳の頃です。ちなみに、茶々は1569(永禄12)年誕生説にのっとると、数えで22歳でした。

茶々が最初に産んだ男子はねねの下で育てられていた

若君とは、茶々が産んだ秀吉の男児、鶴松のことです。1589(天正17)年5月27日生まれの鶴松はねねの管理下にありました。その証拠に、鶴松に宛てた手紙では、秀吉がねねと茶々を「両人の御かゝさま」と呼んでいます。茶々が遠くへ出かける時の面倒をみるだけではなく、正式には、鶴松は正室のねねの子供とされていたのです。

さて、小田原では、かなりの長期戦を見据えていたようで、4月の時点で「年のうちに1度はねねのもとに帰る」と言っています。一夫多妻制の戦国の世の中、人間関係・家族関係は、現代の常識とはかけ離れたところにあるようでいて、現代人が共感できる、普遍的なところもあったようです。心配するねねをなおざりにしない、優しい一面が残る夫婦のやりとりが見て取れます。

秀吉は小田原征伐についての詳細もねねに知らせていた

その手紙からおおよそ1カ月後、小田原攻めは長丁場になると言っていたとおり、秀吉からの報告によると、なかなか苦労をしている様子が窺えます。

丁寧なお手紙をいただきました。まるでお会いしているかのような心地で、隅々まで読み蔑した。小田原の状況ですが、堀際から一町のところに仕寄りを作る指示をしたことで、敵は一段と窮地に立ち、降参するに違いありませんでしたが、さらに干殺しを指示するよりほかは望まなかったので、取引をせず、早々と、出羽奥州の者まで、出仕させました。早速、城もたくさん取ったので、ご安心ください。若君、大政所、豪姫、金吾、そしてあなたが元気でいると聞き、嬉しく思います。いっそうご養生ください。

追伸 私のことはご安心ください。さっそく御座所の城も、石倉ができている次第で、台所もできているので、そのうち、広間と天守を建てるように指示します。いずれにしても、今年じゅうには平定を終える予定です。ご安心ください。必ず年内にそちらに参り、お目にかかリ、つもる話をしようと思います。どうぞ待っていてください。きっと、若君は一人で寝ていることと思います。
(原典は小山文書、『太閤書信』#70)

ねね宛ての手紙から読み取れる秀吉のまめな愛情表現

北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)
北川 智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)

「仕寄り」という言葉が出てきますが、これは戦の専門用語で、攻めている城に接近する行動のことで、そのために必要になる構造物のことも仕寄りといいます。小田原では城からの攻撃から自分たちの軍を守るため、仕寄りが作られました。かなりの攻防が続いていて、秀吉は和解に持ち込まず、攻めに攻め、兵糧攻めをもって、降参させる方針を打ち出していました。「御座所の城」とは一夜城として知られる石垣山城のことです。

実子の鶴松、実母の大政所、養女の豪姫、養子の金吾、それに正妻のねねが元気にしていることを嬉しく思うという部分は、ねねが送った手紙に、それぞれの近況が書いてあったことを示しています。ねねは、家族を守って、大坂にいました。秀吉も、ねねと家族を心配して、返し書き(追伸)には「必ず年内にそちらに参り、お目にかかり、つもる話をしようと思います。どうぞ待っていてください」と、前回と同様の約束をしました。