※本稿は、山本直人『聞いてはいけない スルーしていい職場言葉』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
「さん」で呼ぶことを推奨する会社
人の呼び方には、いろいろな意味や気持ちが込められています。親しい人どうしでは呼び捨てだったり、ニックネームだったりします。目上の人に対しては、敬称だったり、ビジネスでは役職名で呼んだりすることもあります。
最近になって目立つのは「さん付け」をしようとする動きです。会社の中で、目上の人を呼ぶのに役職名ではなく「さん」で呼ぶことを奨励する会社は増えているようです。
また、小中学校においても男女を問わず「さん」で呼ぶことが定着しているようです。これは、「ちゃん」「君(くん)」ではなく、性差を問わずに共通の呼び方にすることが理由ということです。
「さん付け」に対する賛否両論
また、企業によっては部下に対しても「さん」を付けることを奨励するケースもあると聞きます。男性どうしであれば部下を呼び捨てにすることもあると思いますが、それを改めることが狙いなのでしょう。
「さん」や「君」などの呼称詞は時代によっても使われ方が変化します。「君」はかつては敬称でしたが、現在は親しい間柄の男性に対して使われるようになりました。だからこそ、学校では性差を問わない「さん」が使われるようになったのでしょう。
気になるのは企業などで「さん付け」が広まることで、「上下の関係なく自由に意見を言える」とか「新人でも敬意を持たれる」という考え方があることです。
会社内での「さん付け」をめぐっては、ちょっとネットで検索しただけでも実にたくさんの取材記事や意見などを見つけることができます。中には、「さん付け」に反対して、役職で呼ぶべきと主張する人もいます。
しかし、そもそも呼称詞を組織内でルール化することで、何かいいことがあるのでしょうか? 少々疑問に思ってしまうこともあるのです。
「呼ばれ方」は人間関係を表す
人をどのように呼ぶか? というのはなかなかに興味深い話です。たとえば、かつての日本の武士はいくつかの名前を持っていました。幼名、諱、仮名、官位などがあり、立場によって「どの名で呼ぶべきか」が決まっていたといわれます。ドラマでも「信長さま!」のようなシーンがありますが、実際には異なると言われています。
そして、呼び方についてこだわるのは日本だけではありませんし、過去のことでもありません。最近の海外の小説を読んでいるとこんなセリフが目に入りました。
「これからどうするつもり、ハービンダー?」ナタルカが刑事をファーストネームで呼んでいるのがベネディクトには信じられない。昨夜本人がそう呼んでくれと言ったのだとしても。
(エリー・グリフィス著・上條ひろみ訳『窓辺の愛書家』創元推理文庫)
「ドナって呼んでもいいかい、ラブ?」
「ドナって呼んでもいいですけど、ラブとは呼ばないでください」
(リチャード・オスマン著・羽田詩津子訳『木曜殺人クラブ』早川書房)
ファーストネームをどう呼ぶか
両方ともイギリスの小説で原著が発行されたのは2020年です。どちらの小説にも、呼称について書かれた箇所は他にもありますが、すべて「ファーストネーム」に関わるシーンです。
そして、ファーストネームで呼ぶ許可を求めたり、逆に「呼んでください」と言ったりすることもあります。どちらにしてもファーストネームで呼び合うことは、親しさを表しているのです。
ちなみに「ラブ(loveまたはluv)」というのは「愛情を込めた呼びかけ」であることが英和辞典にも載っています。
海外においても「どう呼ぶか、どう呼ばれるか」が人間関係を表していることはあらためてわかっていただけたと思います。
では、会社で「さん付け」を奨励することは本当に組織にとってプラスになるのでしょうか。
「さん付け」で呼ぶことがプレッシャー
「さん付け」に関する話をいろいろ読んでいて面白かったのは、新入社員にとっては偉い人を「さん付け」で呼ぶこと自体がプレッシャーで、「やっと呼べた」とホッとしているような声もあったことです。
もともと、自由な雰囲気をつくろうとしているのに、それがプレッシャーになるというのもちょっと不思議な気がします。
風通しはよくなるのか
そして、「さん付け」に関する話題の中でよく聞かれるのが「風通しをよくする」という言葉です。しかし、この言葉もちょっと曲者だと思います。
大学生など社会に出る前の人は、このような表現をあまりしないのではないでしょうか。私は三〇歳になる頃に上司の言葉として聞いたのですが、いま一つ意味がわかりませんでした。
最近でもよく使われていますが、ほとんどの場合言い出すのは中高年の管理職です。「もっと風通しをよくしよう」というからには、現状が「風通しが悪い」ということでしょう。ただしあくまでも比喩ですから、オフィスの換気をしたいわけではありません。なんというか中高年社員特有のテクニカルタームのような気もします。
特に定義はないのですが、上下の分け隔てなくものが言い合えるフラットな職場、ということになるのでしょうか。たしかに「さん付け」が目指すものと一致するようです。
しかし、人によっては「じゃあ、みんなで飲み会でもしようか」ということになったりします。それで風通しがよくなるかといえば、むしろ逆になることも多いのではないでしょうか。職場の人間関係をそのまま持ち込んだような宴席に「風通し」が期待できるようには思えません。
「さん付け」をルール化するというのも、それに似たところはないでしょうか? もっと自由にするために、新しい規則を導入するというのは矛盾しているようにも思うのです。
「先生と呼ばないで」も強制力を生んでしまう
このモヤモヤした感じが引っかかっていた時に、とある哲学者のエッセイを読んで納得しました。三木那由他さんの『言葉の展望台』(講談社)に所収の「そういうわけなので、呼ばなくて構いません」という作品です。
三木さんは大学の先生ですが、「先生」という敬称で呼ばれることに抵抗を感じていることが綴られます。そして、「『先生』と呼ばないようにしてください」と言いたいものの、それをうまく伝える方法がわからないことで、いろいろと思索を巡らせます。
このエッセイでは、言語行為という観点から言葉のあり方を考えていき、そのプロセスが書かれていくのですが、やがてこのように述べられます。
私から学生に「『先生』呼びはやめてください」と言うとき、私はこれよりも大きな強制力をこの学生に及ぼしているように思える。私は、自分がそう言いさえすれば相手が基本的に断れないということを自覚している。そして、おそらくはその力を発揮しようとしている。これは依頼とは別の行為だ。
著者が学生との間の「不均衡な権力関係」を解消しようとしながら、むしろ新たな強制力を発揮しているのではないか? と自問する過程はいろいろなことを教えてくれます。
上下関係にこだわらずフラットにしたいとしても、それを上からの力で推し進めれば、結局はもとの上下関係をさらに強化するのではないでしょうか。本当に自由な空気であれば、呼称詞は問題にならないと思うのです。
大切なのは相手を尊ぶ風土
呼称の問題も含めて、本当に「風通しのよい組織」にしたいのであれば、経営層や管理職が余計なことをしないのが一番だと思います。
とある大企業で社長に就任した人が「もっとオープンにしよう」と言い出しました。何をするのかと思ったら、「社長室のドアは開けておく」という物理的なオープンをおこなったのです。
しかし、社長が関わることはそうそうオープンにできることばかりではありません。やがてドアを閉めることも増えたのですが、そうなれば「今日は何か聞かれたくないことがあるな」とみんな思いますし、根拠の無い噂も増えます。
そもそも、経営者の仕事は会社を正しい方向へ導くことなのですから、ドアの開け閉めなどは本質的な話ではありません。
また、「みんなが発言できるように」とミーティングを増やして、かつ必要もないのにコメントを強いるような人もいますが、メンバーの心理的な負担が増すだけです。結局は、いわゆるマイクロマネジメントになるのです。
ちなみに、micromanagementという英語をネットで調べれば、困った上司のやり方がたくさん出てきます。
「権限を委譲しない」はもちろんのこと、「常にハッスルを要求する」や「過剰にコミュニケーションする」、さらには「メールにやたらとccを入れる」といった特徴も出てきます。「風通しをよくしよう」として陥りがちな罠は洋の東西を問わないようです。
学生の時に何と呼ばれていた?
いっぽうで、大きく構えているマネージャーであれば自然に風通しはよくなります。ちなみにこんな口癖の管理職がいました。
「もっと、私にラクをさせてくれ」
一見無責任に聞こえますが、いざというときはしっかりと部下を守っていました。取引先に謝罪する時や、経営層を説得する時は矢面に立ちます。「ラクをさせてくれ」というのは、マイクロマネジメントをしないという宣言でもあります。実際に、とてもいいチームで業績を伸ばしていました。
なお呼称についていえば、先にも書いたようにルール化は新たな強制を生むので疑問があります。ただし、呼称が風土をつくることもたしかでしょう。
私が知っているとある企業では、新人が配属された時に「学生時代何と呼ばれていたか?」と訊ねて、みんなでそう呼ぶようにしています。苗字でも、ファーストネームでも、ニックネームでも構いません。新人にとっては、新しい環境になじみやすいですし、いろいろな呼び方が飛び交うので、自然と上下を意識しない空気になっています。
人を呼ぶ、という行為は相手との関係を規定するものですし、時には「畏れ」の感情を伴います。いろいろな工夫はあると思いますが、かえって息苦しくなることは避けるべきでしょう。