美少年の色小姓・森蘭丸は本当に存在したのか
織田信長(1534〜1582)の寵臣といえば、誰もが森蘭丸を思い浮かべよう。『絵本太閤記』には「蘭丸元来聡明英智の美童也けれバ信長公是を深く愛し給ひ」ということが書かれていて、これが一般的な蘭丸像になっていると思われる。
蘭丸(乱丸ともいわれる)については、須永朝彦氏が『美少年日本史』(国書刊行会)にて、次の指摘をしている。
これでほぼ言い尽くされているように思っている。
なおこれに補足するならば、そもそも森蘭丸(および森乱丸)を称する人物自体、戦国時代当時の史料上に見ることができていないことを付言しておきたい。
本能寺の変で討ち死にした森成利が蘭丸のモデルになった
蘭丸のモデルとされる「森成利」(1565〜1582)は、信長の家臣・森可成の息子であり、若くして美濃岩村城主となったが、本能寺の変で信長に殉死した人物である。
文書を見ると、「乱法師」の幼名を名乗ったことはあった[『増訂織田信長文書の研究』920、921、922、1093号文書。このうち年次が明確なのは、天正9年(1581)4月20日付の920号文書のみ]。しかし、「蘭丸」や「乱丸」を名乗ったことは確認されていない。中世には「○法師丸」という幼名を多く見かけるので、乱法師は幼名に思われる。
なお、成利本人が「森乱成利」と、実名の「成利」に「乱」の一字を冠して署名して、花押を付す同時代の文書が見えるのが、とても目を引く(4月21日付『金剛寺文書』329号文書)。「成利」の実名があり、花押を使っているので、すでに元服済みであることは疑いない。武士は元服したら、幼名を捨てて、仮名と実名を得るから、幼名と実名を同時に使うことはないのである。
するとこの「乱」は、幼名「乱法師」を略したものではなく、仮名を略したものと思われる。ここから成利の仮名は、「乱太郎」「乱左衛門」「乱兵衛尉」などといった「乱」の一字を冠したものと推定できる。ちなみに信長没年に作られた『惟任退治記』に「森蘭丸」と表記されているというが、研究者が確認する限り、最古本では「森乱」とあるとのこと。そういった研究を反映してか、大河ドラマ「どうする家康」では蘭丸ではなく「森乱」という名前になった。
美しき蘭丸が信長の性愛を受けたというのは空想の産物
だから成利の名前についていうと、「幼名=乱法師、仮名=乱○○、実名=成利」が正しい理解になるのではなかろうか。成利を名乗る時は元服しているわけだから、もう小姓ですらなかったはずだ。
ちなみに成利の元服時期だが、天正9年4月20日に「森乱法師」の表記文書が確認されているので、それ以降に元服したのだろう。
森成利(もと乱法師)はいても、「森蘭丸」はいなかった。
しいていうならば、「乱法師丸」が正式な幼名であったものを、略して「乱丸」と称したかもしれない。ただ、美しき小姓・蘭丸が信長の性愛を受けた──とするイメージは歴史物(漫画や小説など)の舞台でのみ許されることであって、後世に作られた空想の産物であると見るのが適切であるように思われる。
信長が若い頃の前田利家と一緒に寝ていたという疑惑
織田信長と後に加賀藩の礎を築いた前田利家(1538〜1599)の間に、男色の関係があったとする説がある。
信長との関係は『利家公御代之覚書』(別題『亜相公御夜話』『利家夜話』『菅利家卿物語』『陳善録』等)の「鶴の汁話」に見えるとされる。それはおよそ次の内容として紹介されている。
天正某年──。
信長の新たな居城が安土山に完成し、祝いとして家臣たちが招かれた。鶴の汁のほか、珍しい料理をたくさん揃え、引き出物まで用意した信長は、家老の柴田勝家に「みんなよく働いてくれた。おかげで畿内を静謐にでき、とても嬉しく思う」と述べ、家臣一人一人に言葉をかけ、年来の働きを労った。7〜80人ほどの家臣の末座には、前田利家もいた。
信長は利家に引き出物を手渡す時、「若いころ、お前は我がそばに寝かせ、秘蔵したものであったな」と冗談を言い、その髭を引っ張った。
これを見ていた信長の近習衆は「利家殿のご冥加に我らもあやかりたいものです」と羨ましがり、舞い上がった利家は鶴の汁をついつい食べ過ぎてしまった。おかげでそのあと腹痛になり、「鶴の汁」が苦手になってしまった。
利家は信長と添い寝する仲で、特に秘蔵されたというのであり、男色を暗示する逸話とされている。
信長が利家の髭を引っ張ったのは寵愛していたから?
この『利家公御代之覚書』は、利家の小姓だった村井長明が、利家から直接聞いた話を思い起こして書いたもので、加賀藩の重要史料のひとつとして大切にされている。写本も多い。二次史料とはいえ、成立と記主が明らかで、写本ごとに文章の違いがある点に注意しながら扱われている。
同書に見える逸話の多くは利家自身の口から語られたもので、信頼度は高い。だがこの逸話を、あけすけな男色話に読むのは適切なのだろうか。原本を確認するのは難しいが、翻刻された写本の原文は次のように書いてある。
若武者が主君の寝所にいても夜伽のためとは限らない
まず「利家様、若き時は、信長公傍に寝臥なされ」とあり、確かにここで信長が若き日の利家の側で眠ることもあったことを記している。少年利家は、信長の寝姿を間近で見ていた。ここから信長と利家に性的な関係があったと深読みする人がいるのだが、若武者が主君の寝所にいるのは不自然ではない。
戦国大名は、領主から集めた子息や親類を小姓として使っていたが、彼らは召し使いであり、旗本の構成員でもあった。利家も「赤母衣衆」として信長に直属する武辺者だったことで有名だ。信長は若い時から敵が多く、誘拐・暗殺・拉致には警戒しなければならなかった。
こうした背景を合わせてみると、若き日の利家は親衛隊の一人として、「宿直」の番を勤めていただけに思える。
続けて「御秘蔵にて候と、御戯言」とある。信長が利家に「(あの頃のお前は)わが御秘蔵の者であったな」と冗談めかして告げたので、ここから二人は男色の仲であったとする声がある。
ここで「御秘蔵」の言葉の意味を考えてみよう。「寝所で眠る大名の側に小姓がいた」という事実に「御秘蔵」の表現が重なると、調和的に結びつけたくなる誘惑は抑えがたいかもしれない。だが、ここでは別の可能性を考えてみよう。
信長と利家はやっぱりそういう仲だったのかとも読めるが…
傍証材料となるのは『甲陽軍鑑』である。
ここでは戦場から離脱する上杉謙信の軍勢が武田軍に追撃された時、上杉家臣の甘糟近江守がその撤退を悠々と支えたことで、「謙信秘蔵の侍大将の(中でも)甘糟近江守は、かしらなり」と称えられている。謙信秘蔵の侍筆頭だと記されているのである。
ここでの「秘蔵」は、「とっておきの」とか「いざと言う時まで大切にされた」と解釈すべきものである。秘蔵=特別な関係というのは、たまに使われなくもないと思うが、信長と利家の関係についていえば、しいて男色と結びつける必要はないように思われる。
最後の一文「御意には、利家其頃まで大髭にて御座候。髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃」とあるところを、二人の男色を是とする解釈では、信長が目の前にいる利家の髭を引っ張って、まるでじゃれているように説明するが、原文を見直してみると、違和感を覚えないだろうか。
それまで「利家様、若き時」の話をしていたのに、ここで突然「利家其頃まで大髭」と書かれるのである。信長は目の前の利家のヒゲを引っ張ってはいないのだ。普通に読むならば、高校生ぐらいの少年利家が大ヒゲだったということになる。こちらにしても、おかしい。
この違和感を無視して、次の「髭を御取り候て」だけを取り上げ、信長が利家の髭を引っ張って軽口を叩くシーンを想像すると、「やっぱり二人はそういう仲だったのか」ということになりそうになる。だが、釣られてはならない。
史料の文字は「ヒゲ」ではなく「髻(髪)」だった可能性
この「大髭にて」と「髭を御取り候て」に見える「髭」(ヒゲ)の字を、「髭」ではなく「髻」(「たぶさ」、あるいは「もとどり」と読む)と翻刻する資料もある(黒川真道編『日本歴史文庫〈10〉』集文館)。字面はよく似ているが、意味はまったく異なる。「髻」とは頭上で束ねた毛髪(いわゆるマゲ)を前に持っていく髪型のことをいう。
どうやら筆写の段階で間違えられた可能性が高い。「髭」と「髻(あるいは鬘、または髪)」のくずし字は酷似していて判読が難しい。ここに「髭」のままだとおかしかった文章が「髻」に読み替えることで、明瞭なイメージに置き換わる。
つまり利家は少年の頃、「おおたぶさ」だったのだが、16〜17歳でこれを「御取り」になり、月代を入れて元服した──というわけである。信長は、お前は少年だったころからよく我が身を守ってくれたと、その武辺ぶりを褒めたのである。
ここでは信長が「髭」を手に取ったのではなく、かつて利家が「髻」を取った話をしていると見るのが正しい解釈となるだろう。
信長が男色好みだったという俗説は見直されるべき
ここから先の記述は、弘治2年(1556)から勃発した信長の家督争いの話になり、10代の利家が武功を立て、信長が称賛する展開になっている。
つまりこの文章は文脈としては、利家の忠勇ぶりを紹介するものであって、二人の関係をニヤニヤ眺めて楽しむものではない。
信長は「お前は元服してからの武功が目覚ましいが、表立って活躍する前から俺の身辺警備を勤めた特別な家臣なのだ」と利家を持ち上げたのであって、「利家、若い頃はいつも俺と一緒に寝たものよな。うふふふ」と髭を引っ張ったのではない。
二人の関係に男色があった形跡は、ほかの史料にも見受けられない。史料の読み違えから生まれた信長と利家の間に男色関係があったという俗説は見直されるべきだろう。