※本稿は、田島木綿子『クジラの歌を聴け』(山と溪谷社)の一部を再編集したものです。
野生動物はいつ襲われてもおかしくない状況で交尾する
交尾する際の主導権と選択権は圧倒的にメスにあり、多くの生物のオスはメスの気を惹くために飽くなき作戦を企てている。
一方、メスはメスで、生存力の強い遺伝子を我が子に取り込む最適のオスを選択しようとこちらも必死である。
オスの努力がメスの思惑と一致し、やっと交尾できるチャンスを得ても、オスの試練はまだ続く。多くのオスにとって、交尾するときに最も重要なのは、自分の生殖器がメスのゴーサインと同時に、直ちに使える状態になり、交尾行動に移行できることである。
野生の環境下では、交尾できるチャンスはごく限られており、その限られたチャンスの中で、確実に繁殖行動を成功させなければならない。最大のプレッシャーがのしかかる。
さらに追い打ちをかけるように、いつ天敵が襲ってくるかもしれず、他のオスが横取りを企んでいるかもしれない。はたまた、急にメスの気持ちが変わってしまうことだってありうるのだ。
オスにかかる「限られたチャンスをものにせよ」という重圧
そこでオスたちは、確実に繁殖行動を成功させるために交尾の仕方、さらには生殖器の形や構造まで、さまざまな工夫を凝らして進化してきた。
魚類や一部の無脊椎動物のように、メスから放たれた卵に精子を振りかければ受精が終わるのとは違い、哺乳類の場合、受精するためにはオス自らがメスの体内に自分の生殖子(精子)を注入しなければならない。
さらに、そのためオスは生殖器と自分自身の体とをいかにうまく連携させるかということも重要になる。
解剖学的にいうと、たとえばヒトを含む哺乳類の外部生殖器である陰茎の根元は、必ず骨盤に付着している。これによって、体の動きと生殖器を連動させることができる。さらに、陰茎は骨盤周囲の筋肉と連動して射精の準備を瞬時に整える。
それはもう「心技一体」とでも呼びたくなるような、見事な連携プレーなのである。
犬の陰茎は挿入の瞬間、根元が膨らみ「亀頭球」を形成
陰茎という視点で見てみると、身近にいるイヌもウマや人間と同じ筋肉と血管が多い筋海綿体型で、性的に興奮すると海綿体に血液が流入し、陰茎が膨張・硬化(勃起状態)する。ただし、イヌの場合、我々にはない工夫が見られる。
陰茎が勃起状態になると根元がさらに膨らんで「亀頭球」と呼ばれるこぶ状のものが形成されるのだ。交尾が開始されると、この膨らんだ亀頭球によって、膣内で完全にロックがかかり、陰茎が容易には抜けなくなる。
いわゆるロックオンしてしまうのだ。これもすごい戦略である。
かりに交尾途中でメスが嫌がって逃げようとしても、一度膨張した陰茎はそう簡単には抜けない。その結果、交尾姿勢のままオスも一緒について行くことになり、交尾が1時間以上におよぶこともある。大学院生だった時、山陰地方の田んぼの真ん中で、たまたま野犬の交尾を目にしたことがある。そのときもメスは逃げようとしていたのだが、すでにロックオンされていたようで、メスが動くとオスも一緒になって移動せざるを得ない様子だった。
オスもオスで、もはや「逃さないぞ」というよりは、「あれっ、あれあれ。待って待って、抜けないよ」という表情をしていたのが忘れられない。オスにとっても、いざ交尾姿勢に入ってロックオンするとコントロールが効かず、かえって困ってしまうこともあるのかもしれない。
亀頭球は、ロックオン機能だけでなく、精液の逆流を防ぐ役割もある。イヌ以外では、タヌキやコヨーテなどのイヌ科動物も筋海綿体型で亀頭球の陰茎をもつ。
豚の陰茎はメスの子宮に寄り添った優しい形をしている
ブタの陰茎も、独特である。クジラと同じ鯨偶蹄目に属するブタは、基本的には線維質が多い弾性線維型であり、S字状になって体内に収まっている。だが、ブタの陰茎は自由部(陰茎の先端部)がらせん状に回転し、亀頭はない。そのため、「特殊型陰茎」として区別することもある。
なぜこんな形になっているのかというと、メスの子宮頸管が「頸沈」と呼ばれる粘膜のヒダによってらせん状になっていることから、オスの陰茎もこれに合わせた形状をしているのである。メスの子宮がらせん状になることで、精子が外に漏れ出るのを防ぐ効果がある。
豚の生殖器はネジとネジ穴の構造で受精の確率を高める
この粘膜のヒダは、子宮口から縦方向、螺旋方向、そして最後には平坦な横方向のヒダとなっている。さらに、子宮頸管自体は発情期には緊縮し、休止期になると弛緩するという。子宮側でも、陰茎が挿入しやすいよう準備をしていることになる。
このように複雑な膣の形状に合った陰茎を挿入できれば、オスにとっては交尾を成功させる確率を高めることができる。
ネジとネジ穴の構造と同じ原理である。
じつは、ブタというと、獣医業界では、豚丹毒(人畜共通感染症の一つで細菌による豚の重篤な感染症)や豚コレラ(家畜伝染病の一つで、ウイルスによるブタの感染症)といった具合に、もっぱら病気に関する話題が多くなりがちである。
そんなブタの生殖器に、こんなに驚くべきしくみや工夫が隠されているとは……。産業動物でこのタイプの陰茎と膣をもつのはブタだけである。メスに寄り添った優しい戦略である。
パンと手を叩く間の一瞬で終わるヤギの交尾を見逃すな
陸上の哺乳類の中にも、クジラと同じ「弾性線維型」の陰茎をもつ動物はたくさんいる。ヤギもその一種である。
ヤギは、ウシ科ヤギ属の動物で、クジラと同じ鯨偶蹄目に分類される。紀元前から家畜として飼育されていた歴史があり、とくに遊牧民の重要な産業動物として、食用の乳や肉、あるいは毛・皮の利用など、さまざまな用途に用いられてきた。
クジラ類とヤギは共通の祖先をもつことから、同じ陰茎型を有するのは想像に難くない。ヤギの他、ウシやヒツジ、ラクダなどの偶蹄類は、そのほとんどが草食動物であるため、野生下ではいつも外敵からの襲撃を警戒しなければならない。
とくに無防備になりがちな交尾中は要注意で、ロマンチックな気分に浸っている場合ではなく、なるべく短時間で交尾を終わらせる必要がある。そこで彼らが獲得した戦略が「一突き型交尾」である。じつはクジラ類は肉食性であるが、この一突き型交尾を選択した。
一突き型交尾では、パンと手を叩くくらい一瞬のうちに交尾が終わる。弾性線維型の陰茎は、前述したように腸から伸びる筋肉(陰茎後引筋)に引っ張られながら、普段は包皮の中に一定の大きさでS字状に折りたたまれた形で収まっている。
それがメスの発情を察知すると、陰茎後引筋が弛緩し、陰茎が瞬時に飛び出す。まさに“一突き”で交尾を終えるのである。これにより、天敵の奇襲も何のそので交尾を完了させることを可能とした。
ヤギのオスがメスにまたがった瞬間、交尾は終わっていた
獣医大学の学生時代、繁殖学の実習でヤギの交尾を観察したことがある。それがいかに一瞬のうちの出来事か、卒業して数十年が経った今でも、級友たちと思い出して話すことがあるくらい印象に残っている。
何度もいうが、本当に一瞬で終わる。事前に、担当の先生から「あっという間だから見逃すなよ」といわれ、目を見開いて観察していたところ、オスがメスにまたがったと思った瞬間、もう終わっていた。
交尾時間は、約1秒。なんともせっかちな交尾だなあという感想とともに、「これで本当に受精するのかな」と心配になるが、だからこそ、一瞬の交尾でも確実に受精するように、草食動物は弾性線維型の陰茎と一突き型交尾を身につけたのである。
ただし、その一瞬に陰茎がちゃんと膣に入らないことも、ある。男性の方なら想像しただけで悶絶しそうになるかもしれない。ヤギをはじめとする草食動物も、ちゃんと挿入できないと陰茎が曲がってしまったり、痛みのあまりオスが悲鳴をあげたりすることもある。
ヤギと同じルーツを持つクジラ類も「一突き型交尾」
一方、クジラ類は海洋での生活を選択した結果、重力から解放され、体を大きくすることで、陸上の草食動物ほど天敵に怯える必要はなくなった。しかし、お互い泳ぎながら交尾したり、定期的に海面に浮上して呼吸をしたりしなければならない。こうした不便さを補うためか、クジラ類もこの一突き型交尾を継承し、陰茎の形も弾性線維型でS字状に体内に収まっている。外側に陰茎や精巣があれば、遊泳のとき邪魔になるというものであろう。
さらに、すべての哺乳類では陰茎は基部で二股に分かれ(陰茎脚)、骨盤の坐骨部に付着し、安定性と身体との連動を担っている。我々人間も同様、骨盤は上半身と下半身を連結させ、移動手段である四肢(人間では後ろ足)を駆動させるのにも役立っている。
クジラ類は進化の過程で後肢を退化させ、尾ビレに推進力を託して水中生活へ適応進化を遂げたため、後肢と骨盤の関係は消失してしまい、骨盤は遺残的な形状(棒状や三角形で、脊椎との繋がりはない)に変化した。
しかし、哺乳類であり続けた結果、骨盤内臓と骨盤の関係は保持している。つまりオスに至っては、陰茎が遺残的な骨盤である「骨盤骨」に付着し、腸からの陰茎後引筋も存在している。じつは、この部分の肉眼解剖学的研究が私の東大時代の博士論文であり、クジラ類のオス・メスの生殖器と骨盤骨、周辺構造を解剖し、観察していた。
今になって多くの方に紹介できる機会に恵まれたことは、嬉しい限りである。