戦国時代の武田家で祖父・信虎、父・信玄の跡を継いだ勝頼は領土を最大に広げた。武田氏についての著作が多数ある歴史学者の平山優さんは「勝頼は信玄の四男で武田家を継ぐはずではなかった。既に母方の諏方氏を継いでいたが、兄の横死と父の急逝で図らずも武田家当主に。そんな勝頼の生涯には誕生時から暗い影がつきまとう」という――。

※本稿は、平山優『武田三代』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

山梨県甲府市、JR甲府駅前の武田信玄像
撮影=プレジデントオンライン編集部
山梨県甲府市、JR甲府駅前の武田信玄像

信玄が美貌で有名な姫を側室にして勝頼が生まれた

武田勝頼は、父信玄の遺言に従い、その死をひた隠しにし、信玄の病臥による隠居と自身の家督相続を内外に公表した。もし、武田信玄と嫡男太郎義信との間に、何事もなければ、武田勝頼は、諏方すわ四郎神勝頼(勝頼は諏方家の男子と位置づけられていたので、源氏ではなく諏方神氏を称した)として、高遠城主のまま、兄義信を支える武田御一門衆の一員として生涯を終えたことであろう。だが、兄の横死と父の急逝で、図らずも武田家当主に就任することとなったのである。

勝頼の生涯には、その誕生時から様々なしがらみによる暗い影がつきまとう。勝頼の生母は、諏方頼重の息女乾福寺殿(以下、諏方御料人)である。諏方御料人は、諏方頼重と側室麻績(小見)の方との間に誕生した。彼女の生年は、明らかではないが、『甲陽軍鑑』にその手がかりが記されている。若き信玄が、美貌で評判の諏方御料人を側室として迎えようとしたときの記述によると、当時、彼女は14歳であったという。そして翌年勝頼が誕生したとある。

勝頼の誕生をめぐっては、武田と諏方の緊張関係から血生臭い出来事が立て続けに起きていたらしい。信玄は、こうしたこともあって、勝頼をかつて敵対した高遠諏方頼継の養子とし、そのうえで諏方惣領家の名跡を相続させたと推定されている。かくて、諏方四郎神勝頼が誕生する運びとなった。

信玄の嫡男・義信がクーデターを企て勝頼の運命が一変

諏方勝頼は、永禄5(1562)年6月、信濃国伊那郡高遠城主に就任した。高遠諏方氏と諏方惣領家を継いだものの、勝頼は諏訪大社上社の神事を統括する諏方惣領としての業績を一切積んではいない。

こうしたことからも、勝頼は、諏方惣領家の当主としての影が極めて薄く、同盟国北条氏からも「伊奈四郎」と呼ばれるほどであった。

諏方勝頼の運命が一変したのは、永禄8年10月、異母兄義信が、父信玄と対立し、クーデターを決行しようとして失敗した義信事件がきっかけである。義信は廃嫡となり、永禄10年に死去すると、信玄は、四男勝頼を後継者に据えざるをえなくなった。次男龍宝は盲目であり、三男信之は早世していたため、適齢期の男子は勝頼しかなかったからである。

通説によると、勝頼は、元亀11年(1572年)頃、高遠城から甲府に呼び戻され、武田勝頼となり、信玄の後継者として処遇されるようになったというが、近年では、元亀元年には甲府に移り、武田勝頼として活動していると指摘されている。

信玄急逝による波乱の家督相続で勝頼は早くもピンチに

元亀4(1573)年4月、三方ヶ原合戦に勝ち、圧倒的優位にあった武田軍の不可解な撤退は、衆目を集めた。まもなく、「信玄が病死した」「信玄は重病だ」「信玄は重病とも死去したとも噂され、情報が錯綜さくそうしている」などの風聞が一挙に広まった。

勝頼は、父は病床にあり、隠居したことと、自らの家督相続を同盟国に伝達した。信玄が存命しているかのように、重臣層も「御屋形様は病臥しておられます」と、国衆に手紙で伝えたり、信玄書状の偽造までやってのけていた。

いっぽうで、当主となった勝頼と、重臣層との関係は、微妙なものがあったようだ。信玄死去からわずか11日後、勝頼は、重臣内藤修理亮昌秀(上野国箕輪城代)に三カ条に及ぶ起請文を与えた。

毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」には、 伝統武士の鎧を身にまとって、たくさんの人が参加している
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この起請文は大変有名なもので、内容から、勝頼と信玄登用の重臣層との対立が早くも表面化したことを示すといわれてきた。とりわけ、「侫人ねいじん」(口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)による讒言ざんげんに焦点が当てられていることから、起請文作成の背景には、勝頼の家臣らと、信玄以来の重臣層との軋轢があるとする説や、勝頼に粛清されることを怖れた内藤昌秀が、勝頼に忠節を誓うことを約束する誓詞を提出し、勝頼からも起請文の発給を望んだと推測する説などがある。起請文の文言から、家督相続以前の勝頼と不仲だった人々がいたことは間違いなく、内藤昌秀はその一人だったのだろう。

信玄登用の重臣に信頼されず勝頼の立場は弱かった

家督相続にあたって、勝頼と家臣らは、相互に起請文を取り交わし、関係修復を試みたようだ。戦国大名の当主が交替した際に、新当主と家臣の間で、起請文を交換することは、通例であり珍しいことではない。ただ、勝頼の起請文発給の契機に、「侫人」をめぐる諍いがあったとみられることは、やはり武田家中に内訌ないこうが生じていた可能性を窺わせる。いずれにせよ、勝頼の権力基盤の脆弱ぜいじゃく性を示してあまりあるといえるだろう。

信長・家康連合軍打倒を誓うが、信長の勢力は拡大

また、天正元(1573)年9月21日、勝頼は、甲斐国二宮美和神社に願文を納めた。願文には「勝利を重ね、武名を天下に轟かせ、領国の備えは盤石とし、麾下きかの武士達が勇猛果敢にして『怨敵おんてき』を撃破して、二宮明神の神風を行き渡らせることが出来るようにして欲しい」と記されている。

新当主勝頼の意気込みと、「怨敵」(織田信長、徳川家康)打倒の強い意志が示されているのだが、この願文にはもう一つの意味が込められているといわれる。勝頼の願文は、二宮美和神社だけに奉納されている。実は、この神社は、兄武田義信が篤く信仰し、保護したことで知られる。その神社に、あえて家督相続直後に願文を納めたのは、非業の死を遂げた兄義信への鎮魂と、加護を求めようとしたのではないかと推定されている。かくして勝頼は、家臣や亡兄義信に配慮しながら、当主として動き出したのである。

山梨県甲州市、JR甲斐大和駅前の武田勝頼像
撮影=プレジデントオンライン編集部
山梨県甲州市、JR甲斐大和駅前の武田勝頼像

織田信長は、元亀4年4月、武田軍が三河から撤退すると、ただちに京に出陣し、7月、将軍足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させた。さらには8月、越前朝倉義景、近江浅井長政を次々に滅ぼした。

同盟国であった浅井・朝倉が滅亡し追い詰められる勝頼

浅井・朝倉両氏の滅亡と時期を同じくして、飛騨国の姉小路自綱が武田方から離反し、美濃国郡上郡の両遠藤氏も、織田に攻められて降伏した。こうして、信玄の死を契機に、織田・徳川の反撃が開始され、武田氏の同盟国は相次いで滅亡し、さらに飛騨・美濃・三河の境目の国衆も、次々と敵に帰属してしまった。武田勝頼を取り巻く環境は激変し、父信玄在世時と一転して、厳しい政治・軍事情勢下に置かれたのである。

武田勝頼は、天正2(1574)年から積極的な攻勢に出る。これを、信玄の遺言を破ったと考える向きもあるが、実はよく調べてみると、織田・徳川の攻勢への反撃か、失地回復という側面が強く、領土拡大という意味合いは結果的なものだった可能性が高い。

天正2年1月、勝頼は、織田領国の東美濃に侵攻した。

当時、東美濃では、岩村城が武田方の手に落ちていたが、織田方は周囲に付城を築き始めていたという。それが、飯羽間城などの城砦であったといわれる(『武徳編年集成』)。勝頼は、織田の眼が越前に向けられている間隙を衝き、1月27日に東美濃岩村城に入り、明知城などを攻撃した。

織田・徳川軍を撃破した勝頼は天下人も狙える勢いに

信長は、2月5日岐阜を出陣し、6日神箆こうの(瑞浪市)に着陣、その後、大井、中津川まで陣を進めた。だが軍勢が揃わず、武田軍の陣所が険阻な山岳地帯だったこともあり、思うに任せなかった。その間にも、武田軍は、明知城を含む織田方の城砦十八城を攻略した。この結果、武田氏の勢力は、濃尾平野の手前に達し、岐阜を窺う情勢となり、さらに奥三河にも広がったため、徳川氏の本拠岡崎城も危うい事態になった。

勝頼は、織田・徳川の要請を受けた上杉謙信が、上野国沼田に出兵したことを知ると、甲斐に引き揚げた。折しも、降雪が激しくなったため、信長は武田軍の追撃を断念したという(『当代記』)。

東美濃と遠江に攻め入った勝頼の攻勢は凄まじく、信長・家康に脅威を与えた。信長は、信玄死去の噂を聞いた直後に記した、「甲州の信玄が病死した、その跡は続くまい」との認識をあらため、上杉謙信に宛てた書状で「四郎は若輩ながら信玄の掟を守り表裏を心得た油断ならぬ敵である。(謙信が)五畿内の防備を疎かにしてでも対処しなければ、武田勝頼の精鋭を防ぐことはできないというのはもっとものことだ」と述べるほどであった。謙信もまた、勝頼が只者ではないと考えていた。

信長は、武田勝頼を滅ぼさなくては天下の大事に繫がると考えたといい、家康も領国を武田に三方から包囲される苦しい情勢下に立たされたのである。

合戦を再現したお祭り
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長篠合戦の7年後、勝頼率いる武田氏は滅亡した

天正3年、長篠城攻防戦が勃発する。決戦直前の勝頼書状をみると、彼は自信に満ちあふれ、織田・徳川との決戦に一抹の不安も抱いていない。

平山優『武田三代』(PHP新書)
平山優『武田三代』(PHP新書)

勝頼は、信長、家康が顔を揃えた決戦で勝利すれば、武田家中での権威を確立できると考えていたとみられる。それほど、勝頼は一門、重臣層を束ねる権威に欠けていたのであろう。また、敵軍が意外に寡兵だったと誤認した可能性も指摘されている。多数の軍勢を設楽郷の窪地に隠した信長の作戦が奏功したのだろう。いっぽうの武田方は、索敵、諜報ちょうほう不足を露呈してしまったと考えられる。

そして、長篠の合戦で大敗した7年後、天正10(1582)年3月11日、戦国大名武田氏は田野で滅亡した。

殉死した家臣は、勝頼の高遠時代以来の家臣が多く、その他に諏方衆とみられる人物も見受けられ、武田譜代は土屋・秋山兄弟が目立ち、跡部・河村・安西氏と、小山田一族が散見される。しかし、山県・原・内藤・馬場・春日などの上級譜代の縁者は一人もいない。高遠城の奮戦といい、殉死者の構成といい、勝頼はやはり武田勝頼ではなく、どこまでも諏方勝頼としての運命を背負っていたとの印象が強い。