戦国武将に愛された小姓はシンデレラではない
室町末期から江戸初期にかけて流行した男色は、戦国時代には「武士の嗜み」として高く評価され、特に契りを交わした小姓は「絶対に裏切らない」という強い信頼から、要職に取り立てられたという見方がある。
ここで織田信長と森蘭丸、武田信玄と高坂昌信の事例を想起する方も多いであろう。蘭丸は美濃国金山城を与えられており、昌信も四名臣の一人に取り立てられ、最前線の海津城を預けられている。また、上杉謙信に見出され、牢人の身から一国規模を預かる領主に昇ったとされる河田長親も、史料的根拠はないが同種の関係を疑われている。
しかし戦国武将はシンデレラではない。主君の寵愛があったとして、本当にそれだけで立身出世できたわけではなかろう。普通の恋愛は一対一の関係であるのに対し、主君と家臣は一対複数の関係である以上、二人だけの私的な範囲に留まらず、周囲を含めた公的な関係となる。
こうした環境を無視してお気に入りの家臣と肉体的な結びつきを持ち、贔屓して権限を与えていけば、ゆくゆく恐ろしい運命が待ち受けていよう。
当人の能力のあるなしに関わらず、寵臣への嫉妬と主君への不信感が渦巻き、家中に多大な悪影響を及ぼすことは想像に難くない。武功と名誉が人命以上に重かった戦国の世であればなおさらに思われる。
家康は井伊直政や榊原小平太と男色関係だったのか
徳川家康は徳川四天王で知られる、井伊直政・酒井忠次・榊原康政・本多忠勝のうち、二人と関係していたという。出典は戦国時代の同時代史料であり武田家の旧臣が書いたとされる『甲陽軍鑑』である。
(『甲陽軍鑑』品第十七)
万千代(井伊直政)と云、遠州先方衆侍の子なるが、万千代近年家康の御座をなをす。
(同書品第五十九)
「御座をなす」とは、主君がわざわざ出向いたという意味で、夜伽を務める隠語としても使われた。
むろん事実確認は困難である。『甲陽軍鑑』の原著者は、信玄の寵を受けて取り立てられたため、周囲から反発されたが、これをバネに実力を見せ、信玄の人を見る目の正しさを証明できたと誇っている(品第五)。そうした経歴から「主君の寵を受けた者が出世して何が悪い」との思いがあって、こういう(傍目には)どうでもいい噂話をわざわざ書き記したのかもしれない。
美童で知られた井伊直政に横恋慕した家臣の逸話
ところでこの直政にはちょっと面白い伝承がある。安永2年(1774年)に編纂されたとされる『新東鑑』に紹介される逸話である。
ある時、家康の家臣である安藤直次(1554~1635年)は徳川頼宣(家康の十男で紀州徳川家の祖)の付家老に任じられたが、住み慣れた地を離れたくなかったものか命令を拒んだ。
すると家康は重臣の土井利勝を通して、「これまで二度切腹の罪を見逃してやったのを忘れたか。その恩を思えば、否とは言うものではないぞ。早くも忘れたと言うのか」と厳しく言い聞かせた。家康の口上を伝えた利勝は、二度の罪とやらが何であるかを知らなかったが、直次には思い当たることがあった。
もう40年ほども昔の話になろうが、過去、直次は「家康公の愛童・井伊万千代」に二度ばかり情を通じようとしたことがあったのだ。横恋慕である。
一度目は逢瀬を楽しんだあと、「寝道具の葛籠」に隠れて無事に帰宅した。二度目は室内で万千代といいムードで語りあっていたところ、家康の近づく気配が感じられた。万千代はあわてて室外に飛び出し、「今宵は障りがありますので、お入りにならないで下さい」と家康に伝え、戸を閉じた。家康は「なんじゃ、顔色がおかしいぞ」とこぼしてそのまま回れ右して帰って行った。
寵臣が寝取られるのを黙認した家康は器量が大きい⁉
以来、直次は事態の発覚をずっと恐れていたのだろう。だから二度の罪と言われて、すぐにこの事件を思い出せたのに違いない。それにしても、もし本当にこのことを言っていたとしたら、家康は寵臣が寝取られるのを黙って見ていたことになる。器量があるというべきか陰気というべきか。どちらにしても家康らしい逸話であるのかもしれない。
万千代こと直政は家康の忠臣として知られるが、これも家康に浮気の事実を難詰され、その反動で忠義第一となったのか、あるいは後ろめたさを抱えながら主君に心酔していたのか、この物語ではどういう存在だったのだろうか。少し気になるところである。
なお、直次はその後、頼宣の家老として精勤したようである。
もちろん作り話であるとは思うが、18世紀の徳川家臣団へのイメージがあまり堅苦しくなく、ゆるやかであった様子を窺い知れて面白く思う。史実かどうかは別として、井伊直政といえば美童という人物像も定番だったのだろう。
家康と築山殿の息子・信康にも男色エピソードあり
築山殿の子であり母親と運命を共にした家康の嫡男絡みでも有名な逸話がある。
三河の佐橋甚五郎は、徳川家康の長男である三郎信康(松平信康)に小姓として仕えていたところ、あるとき出奔して甲斐の武田勝頼に仕官した。
だが、今度は武田家臣の甘利三郎次郎を殺害して刀を奪い、徳川家に帰参を願い出た。しかしこうした「悪事」がばれてまた逐電したという(「佐橋家系図」)。
この甚五郎、別の記録を見てみると、その経歴は男色に彩られている。『参河後風土記』(巻十六)は、甚五郎が「美童にて信康卿(に)寵愛」されたとあり、さらには武田家で勝頼に寵愛され、元服後も奉仕し続けたという。
しかし勝頼の小姓である甘利二郎三郎なる「無双の美童」にしつこく言い寄って断られ続けたため、恨みのあまり遠征先の陣屋で寝首を掻いた。それだけでも重罪だが、甚五郎は甘利の刀がとても立派だったので自分のものと取り換えて、その首を持ち帰り、家康に献じてしまった。そういう性格の悪さが嫌われたという話となっている。この逸話も後世の創作であろうが、ちょっと異質な人物像が興味深い。
信康とも武田勝頼とも関係した佐橋甚五郎は実在したか
このように江戸時代成立の戦国時代を舞台とする編纂物には、物語に都合よく美童が現れて寵愛され、そして騒動を巻き起こす〔その役割を担わせるため、当時実在したかどうかわからない「渡り小姓(奉公先の国をころころと変える少年の侍)」のような役割設定まで作られている〕。そして彼らの逸話は、美談とは程遠い不道徳なものに仕立てられることが多い。大名と正室や側室には、子を作り、大名の家政を支える役割があるが、美童にはそれがない。組織の異物である。
ゆえに風当たりも強く、好色は身を滅ぼすから気をつけておけと言わんばかりの物語にされがちなのである。
徳川秀忠が2人の大名に申し付けた切腹も男色が原因か
寛永3年(1625)正月、徳川二代将軍・秀忠は、吉祥寺において成瀬豊後守と小山長門守に切腹を命じた。
その原因は「秀忠公御寵臣」の長門守と豊後守が「衆道知音(男色の関係)」したことにあった。
秀忠も初犯のときだけはこれを許した。両人に使者を二度遣わして、内々に注意したのだ。しかしその後も関係が続いたため、上意に背いた科で切腹させざるを得なくなった(『元寛正説』)。
もちろんこれも事実かどうかは不明である。
系図や史料によって切腹の原因が違っており、実否の確認が難しいのだ。男色は数ある原因のひとつに過ぎない。
過去、秀忠に供奉した際、抜け出して女院の侍女と酒宴を楽しんだことが発覚したと記すものもあれば、派閥争いに巻き込まれたとする現代人の解釈もある。
背後に何か政治的事情があったというのは、ありそうな話だが、江戸時代にそんなことを書くのは勇気がいる。
事件の裏を隠蔽するのに、男色はアリバイとして扱いやすかったことだろう。
後世の史料で男色は「傾国の物語」として誇張された
こうした理解の根拠とされる事例は、多くが二次史料を出典としており、確かな事実確認がされているわけではない。
二次史料とはのちの時代になって書かれた記録のことであり、主として江戸時代に入ってから作られた軍記や家譜、系図、由緒等がこれにあたる。戦国時代が終わって数十年ないしは数百年も経ってから書かれた記録を、そのまま史実と見なすことがどれだけ危ういかは説明するまでもないだろう。
しかも男色に関する二次史料を眺めると、主従の武家男色を肯定的に集まっているものは意外なほど少なく、多くは「傾国の物語」をにおわせる筋書きで、佞臣や無能者が功もなしに出世して、御家の前途を狂わせる設定にされている。後世の史料に見える男色は、書き手の思想や都合によって後付けされた創作の産物である疑いが強い。