会議が1日9本、ランチの時間も取れない激務
凛とした雰囲気の女性だった。堂々と着こなす、7センチはあるヒールの白パンプスに目が奪われる。こちらの視線に気づき、彼女は「これ、武装なんですよ」と柔らかく笑った。
岸井沙知子さん(50歳)は、誰もが名を知る大手企業で現在、「上級管理職の代理」を務めている。ランチを食べる時間もないほどの目まぐるしいスケジュールをこなしてきた。
「今日は、会議が9本。30分刻みがずっと入って、午後は1時間の会議が続いて……」
上級管理職は現場における最高責任者で、その下の「代理」である岸井さんは、さまざまな事案で意見を求められることが多い。コロナ前はもちろん、リモート主体になった今も分刻みの激務をこなしている。
プロとして生きるのか、マネジャーとして生きるのか
新卒で入社したのはベンチャー企業で経営企画部に配属されここで仕事のイロハを学んだ。
「経営企画だったので、大手企業の副社長を歴任された顧問監査役などと接点があり、いろいろな人生観や考えを教えてもらいました」
ここで岸井さんは今に至るキャリアを貫く、一つの問いを得た。入社3年目、上司である部長が岸井さんに伝えた言葉だ。
「プロフェッショナルで生きていくのか、マネジャー職で生きていくのか、考えてごらん」
当時はいくら考えても、その意味するところも答えもわからなかった。
入社して6年、岸井さんは28歳で同僚と結婚した。夫は岸井さんの心を和やかにしてくれる、穏やかな人だった。
その後、現在の会社に転職をした。
「この時も最終面接で役員の話を聞き、この方の下で働いたらまた成長できると思って、この会社に決めました」
入社してすぐ耳に入ってきたのは、20代の課長がいるということだった。
「えー、何? 20代の男性が課長? どういうこと? 悔しい、悔しい。どうやったら課長になれるんだろうって、ここでエンジンがかかりました。もっと上を目指すんだと」
育休で1年も休んだら、男性にもっと差を付けられる…
岸井さんは技術系の組織に配属となった。
「完全に、男社会でした。女性を昇進させる考えはなく、男性がどんどん上に上がって行くって感じでした」
この頃に妊娠が判明、3月10日が出産予定日だったが、2月19日まで働いた。
「こんなに仕事をしているのに、同じ仕事をしても男性が先に昇進していく。恵みの赤ちゃんでしたが、1年間も休んだら、男性にもっと差をつけられると思ったので、ギリギリまで働いたんです。そしたら、2月21日に生まれました。産休に入って2日後のことでした」
低出生体重児の赤ちゃんだった。厳しい管理の下で、体重を増やしていかないといけない。早めの職場復帰を目指していたが、母から「いい加減にしなさい。こんなに小さく産んで」と叱られ、医師からは「まだ働く気ですか」と諭され、結局、予定より延長し、それでも1年未満で復帰した。
「会社の人事評価にできる限り穴を開けたくなかったんです。それだけきつかったのだと思います、男性優位の職場で。ここで置いていかれたら、もう二度と這い上がれないと思いました」
理不尽に思える「昇進の条件」
転職以来、「なんで、こんな人が……」と思う男性が昇進していくのを何度も見てきた。一方、別の部署から異動してきた一回り以上年上の女性が、岸井さんより先に「課長代理」になったのも目の当たりにした。
「私はこの方のことを本当に慕っていて、恨みはないのですが、でも、なんでだろうって。仕事は私の方がやっていたので、年功序列だと思いました。そっか、若手の女性は上げてもらえないんだって」
この女性はまもなく会社を辞めた。岸井さんの職場復帰が遅れたことがしんどかったという言葉を残して。
代わって「課長代理」になったのは、やはり男性だった。
「女性は年齢、男性は知識と資格で昇進する。人柄は関係ないわけです。課長代理になった男性は言動が乱暴だったので、スタッフは慕うどころか嫌っていました」
そんな人物が自分を差し置いて、昇進していく。上昇志向の強い岸井さんは、理不尽な思いを抱えて仕事に打ち込むしかなかった。
結婚して出産後もフルで働く女性は、まれだった時代だ。岸井さんの背中を見ている後輩女性から、こんな声がかけられた。
「私たちの道にある“石”をどかして、進んで行ってください」
「それは自分でやりなさい」と言ったものの、岸井さんにとっても自分の道に置かれていた“石”と格闘せざるを得ない人生だった。
男性を先に部長に昇進させたとんでもない理由
一つ目の“石”が、「課長代理」、「課長」と昇進した岸井さんにとって、次のステップである「部長代理」に、なかなか上がれないという焦燥だった。
当時、難易度の高い仕事をこなしていた。見事な功績を上げ評価も高かったが、昇格の声は聞こえてこない。
「これで上がれないなら、何をしたら上がるんだろうって途方にくれました。男性だったら、絶対に上がっていると思います」
そして、もう一つの“石”もまた、その先に横たわっていた。「部長代理」から「部長」への昇進に関わる時のこと。
「部長代理になった時、部長に上がれる枠が2枠でした。その時、部長代理は3人いました。私以外は男性です。その男性2人が、部長に昇進していきました」
その時、上司から告げられた理由を岸井さんは今でも忘れない。
「岸井は来年でも、部長に上がれる仕事のネタを持ってるだろ」
「えっ? それが理由ですか?」
「男性2人は、来年だと上がれないから」
岸井さんはここでぐっと、心の叫びを呑み込んだ。
「来年には上がれないという人を部長にしていいんですか!」
この時ばかりは、家で荒れた。
「私はどうやってでも、部長になりたいんだ! 代理なんて、取り払いたいんだ!」
毒づく母を、娘がそっと見ていた。
「代理」という期間が心にアンバランスを起こす
「代理っていう期間が、心にアンバランスを起こすんです。脅迫されているようで。ちょっとでも失敗したら、下に落とすぞって。代理の期間は2年。あとは、上がるか下がるかしかない。だから、1年で上がりたい」
この時、部長に昇進した一人はさっさと退職した。部長という箔をつけて、有利に転職するために。もう一人は子会社への異動を希望した。子会社の方が昇格しやすいからだ。
こんな2人をわざわざ、部長にしたわけだ。岸井さんは2年間我慢して部長になったが、理不尽な処遇に、悔し涙を流す1年を送ることとなった。
そうまでして、岸井さんが昇進を目指すのにはどんな理由があるのだろう。
「見える景色が違うんですよね。入ってくる情報も違うし、同じ案を通すにしても一般職よりも課長が、課長より部長が通しやすいというのはやっぱり事実です。部長同士、組織の壁を越えて話すことで、仕事がしやすくなるという面白みもあります。上を目指す、高みを目指すということに、私は醍醐味を感じています。階段を上りたいって思うようになったのは事実ですね」
念願の部長になった岸井さんだが、その直後から思いもかけぬ災厄が降りかかる。自身の更年期という不調だった(後編に続く)。