※本稿は、ジェーン・スー『おつかれ、今日の私。』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。
取り返しのつかない昔の失言が頭をぐるぐるめぐる
気づくと、同じことばかり考えている。そういう日がもう何日も続いている。こういうときの「同じこと」はたいてい、えらくネガティブなことか、ありえないほどポジティブなこと。たとえば前者は取り返しのつかない仕事上の失敗や、誰かを傷つけてしまった失言、言い返せなかった昔の別れ話。後者なら、「もし私が○○だったら」系のシミュレーションや、ちょっといいなと思った人と距離を縮めていく妄想。今回は、残念ながら前者だった。
仕事上の大事な場面で、私がとんでもない失言をしたのはずいぶんと前のこと。なのに、近頃そればかり思い出し、日が経つのと反比例して記憶がどんどん鮮明になっていく。相手が着ていた服、私からは見えないはずの自分の表情、私が口を開いた瞬間に凍り付いた空気の色。慌てて取り繕い、かえって事態が悪化したこと。こんなに鮮やかに思い出せるなら、脳のなかで記憶の捏造が始まっている可能性は十分にある。日を追うごとに、細部がありありと浮かんでくるんだもの。そのたびにヒュッと息が止まり、私はギュッと目をつぶる。「あぅ……」と小さな声が漏れてしまうこともある。そして考える。どうしてあんなことを言っちゃったんだろう。しかも、得意げな顔で。
自分の浅はかさに幻滅
こうやって自分の浅はかさに幻滅したことは、一度や二度ではない。
ちゃんと正しく、ユーモアを持って寛大に生きたい。不用意に他者を傷つけることのない、思慮深い人になりたい。周りを見渡すと、私以外の大人はみなそれができているように思える。先の先を考え、相手を慮って行動しているように。どうして私はそれができないのだろう。どんどん気分が暗くなる。
とことん付き合うしかない
忘れられない失敗は、誰にだってあるものだ。気にしているのは当人だけで、その場にいた人たちは、もう忘れているに違いない。問題は失敗ではなくて、そのあとのリカバー。そこで人の真価が問われるってもの。ちゃんと謝ったし、もう大丈夫だよ。私は自分で自分の親友になりすまし、通りいっぺんの励ましの言葉を思い浮かべる。大丈夫、大丈夫。
いや、だめだ。今夜は全然効かない。すべての言葉に「でも……」で返したくなってしまうから。観れば必ずブチ上がる映画も、大好きな音楽もだめ。ちょっとした隙間――場面転換の間や次の曲へ移るコンマ数秒のブランク――の暗闇に、ネガティブ場面がぼわっと浮かんでくる。ヒュッと息が止まり、私はまたギュッと目をつぶる。
こうなったら、とことん付き合うしか手がないことを、私は知っている。いまベッドにもぐりこんだところで、眠りに落ちるまでヒュッとギュッの無限ループが続くに違いない。眠りに落ちることができればの話だけれど。
落ち込みをフラットに持ち込むための儀式
私は洗面所の棚から、誕生日にもらった美顔器を引っ張り出してきた。転んでもただでは起きぬのが信条。ネガティブを頭から追い出せないのなら、そのあいだに手を動かして顔の手入れをしてしまおう。私が美顔器で好きなモードは導入でもひきしめでもなく、クリアモード。普段の洗顔では取りきれない、肌に溜まった古い角質や毛穴の汚れを取り除く機能のことだ。ふき取り用化粧水をしみこませたコットンを、美顔器にセッティングする。どういう仕組みかよくわからないけれど、これで肌をやさしく撫でていると、うっすらコットンが汚れてくる。特にあご、眉間、おでこまわり。本来は洗顔後に行うものだけれど、今日は化粧もしていないし、このままやってしまおう。その分たっぷり汚れが取れるはずだ。
美顔器で顔の表面を撫でるなんて単純作業の極みだから、ネガティブ思考はどんどん加速する。手を動かしながら、頭と心で答えのない問いを繰り返す。繰り返すたびにコットンは汚れ、私の顔面から少しずつ不要なものがそぎ落とされていく。
落ち込んだときには掃除をするといいと聞いたことがある。単純作業を繰り返すうちに、目の前が綺麗になって気分が晴れるのだそうだ。私は億劫な上に欲が深いから、これを自分の顔でやる。汚れたコットンを見ると、心の芯にへばりついていたネガティブがはがれ落ちたような気分になる。二度三度と繰り返し、うんとやわらかくなった頰やおでこに手をあて、ホッと息を吐く。ああ、気持ちいい。
このあとビタミン導入なんかをやるともっといいのだろうけど、面倒なのでパシャパシャと化粧水を叩きこんで儀式は終了。前向きになれたとまでは言えないが、フラットにはなんとか持ち込めた。今夜はこれで十分。はい、おつかれさまでした。
落ち込むたびに顔が綺麗になるなんて、我ながら素晴らしいシステムを開発したと思うんだよね。
落ち込みと立ち直りのあいだ
関西ことばの「しんどい」が全国区で使われるようになってから、ずいぶんと時間が経った。私もよく使う。力尽きて思わず立ち止まってしまいたくなるような心の状態を、「つらい」や「キツい」より実感を込めて言い表せるし、なにより相手に与える印象が重すぎないのが良い。
私にとって「つらい」や「キツい」は、「助けてほしい」の意味をちょっと含んでいる。助けが必要なら迷わずそう言うけれど、そこまで切羽詰まっているわけでもなく、いや切羽詰まっていたとしても、いまは放っておいてもらえると助かるなあと思うとき、私には「しんどい」がしっくりくる。さしたる理由はないのに重力を過分に感じてしまうこと、どんより佇むしかないことって、誰にでもあるだろう。
口に放り込んだそばからとろけていくリンドールの甘いチョコレート、ビヨンセのライブ映像、夜眠れなくなることなんかお構いなしの昼寝。転んでは立ち上がりを繰り返すなかで、不足エネルギーをチャージする処方箋をいくつか手に入れることができた。けれど、しんどさど真ん中での急速エネチャージは、私をもっとしんどくさせることも知った。充電のまえには、ワンクッションが必要なのだ。言うなれば、しんどさの放電。それを省くと、心がパンクしてしまう。
自分がニヤニヤできるものを用意しておく
深く傷つくのとは一味違う、しんどい状態。落ち込みと立ち直りのあいだにある停留所。立ち直りステーション行きのバスが来るまでは、そこでやり過ごすしかないと、頭ではわかっている。けれど、待ちぼうけのあいだに少しでも重力を軽くすることができたらいいのに。ナマケモノのスピードで試行錯誤をしてみたところ、私の暫定的な結論は「ニヤニヤできるものを常備しておく」に着地した。
しんどいときに懐かしい写真を眺めたり、好きな音楽を聴いたりは私の心を軽くしてくれなかった。ニヤニヤ以外のセンチメンタルな感情が湧いてしまうから。もっと単純にニヤニヤできるものが効く。たとえば推しのカッコイイだけの写真や、可愛いだけの動物動画。ポイントは「だけ」なところ。なにより即物的なほうがいい。メッセージなどなにもいらない。だって受信機がぶっ壊れているんだもの。
さまざまな感情を呼び起こす多層的なエンターテイメントは、心が健やかなとき、もしくは立ち直る準備ができたときにしか効かない。だから、そういうものに心が動かされないときはかえって注意が必要なのだ。自分でも気づかないうちに、心が疲れているかもしれないのだから。
しんどくなったら、ニヤニヤしよう。無条件にニヤニヤできるものさえ準備できれば、あとはベッドに横たわり、それを眺めていればいい。気づけば声をあげて笑う自分がいて、しんどさも消えている。私は待ってましたと言わんばかりに、リンドールのチョコレートを口に含む。そろそろバスが来る頃だろう。