母親としての評価が気になってしまうときはどうしたらいいのか。高校生の双子を育てる翻訳家でエッセイストの村井理子さんは「義母は現在認知症で、完璧な主婦で、完璧な母で、完璧な妻だった自分を忘れているが、実にしあわせそうだ。私は自分自身のために、完璧に楽しい人生を送ることを目指す」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、村井理子『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』(CCCメディアハウス)の一部を再編集したものです。

暗い気持ちで外を見つめる女性
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誰かのための完璧ではなく

子どもの学校の先生の目が怖い。何が怖いって、放任主義の母親、甘いだけの母親、いい加減な母親、ダメな母親だと思われるのが怖い。先生はそんな目で見ていないのかもしれない。でも、子どもたちへの評価が、自分の母親としての評価に直結するように思えてしまい、その勝手な思い込みが子どもたちに余計なプレッシャーを与えているのかもしれない。

母親としての評価が、自分の主婦としての評価に繋がるように思える日もある。

家が汚れているから、料理が下手だから、洗濯が間に合わないから、子どもたちは学校でじゅうぶんな力を発揮できず、家族は仕事に没頭できないうえ、家計は苦しいのではないか。

私のように全力を否定する人間でも、こう考えてしまう時期は確かにあった。でもいまはもう、そうは思わない。完璧な母親、完璧な主婦なんて、目指しても意味はないと思うからだ。

完璧だった義母がくれた教訓

3年前から義理の母の介護をしている。

義母は完璧な主婦だったし、完璧な母だったし、完璧な妻だった。家のなかは常に磨き上げられていたし、息子は真面目な社会人に成長したし、夫は料理人として高い評価を得た人物で、博打などとは無縁のドがつく真面目な人だった。義母自身も、習いごとの教室を持ち、多くの生徒に囲まれ、しあわせそうに暮らしていた。

それなのに、義父が倒れたのをきっかけに認知症となり、彼女にとって黄金の日々と思われた時代の記憶は失われた。いまの彼女に強く残っているのは、10代の頃、故郷で過ごした日々の記憶だ。若かりし日の楽しい思い出を語る彼女からは、やり手の姑の面影は微塵みじんもない。それなのに、彼女は実にしあわせそうに、中学生時代のできごとを語り続ける。以前のように、どれだけ自分が完璧な主婦か、妻か、母かなんてアピールすることは、これっぽっちもない。

私の目から見た彼女の完璧な姿は、いまの彼女にはなんの意味もないようだ。80年を超える長い人生で、彼女がもっとも輝いていたのが10代の頃であったのなら、完璧な母、完璧な主婦の姿なんて、なんの意味も持たない。だから私は、誰かのために完璧を目指すのはやめた。

完璧な母、完璧な主婦なんて、もういいのだ。

私は自分自身のために、完璧に楽しい人生を送ることを目指す。

義母が私に与えてくれたもっとも重要な教訓は、こういうことだった。

自分が子どもの立場だったら

これがある程度できるようになったのは、40歳を過ぎたあたりだった。それまでは、他者の立場でものごとを考えるなんて到底できていなかった。いま現在も完璧とは言いがたいけれど、自分と他者の立場を入れ替えるという単純な作業をすれば、途端に見えてくるものがあることは理解するようになった。

きっかけは、子育てだった。子どもの成長により、体力勝負の育児ではなく、精神的な消耗戦をくり広げなければならない時期に差しかかり、常に考えるようになったのは、「自分が子どもの立場だったらどうか」という点だった。

子育ての精神的重圧はとてもタフだ。

答えが見つからない混沌とした世界で、必死に答えを探し出す時間の連続だ。多くの場合、母親(あるいは父親、養育者)にとって、たったひとりの内なる戦いになる。そもそも少なかった子育てに対する自信なんて、一切なくなってしまう。

子どもの頃の私にとって、親というのは完璧で誰よりも正しく、自信に満ち溢れた、絶対的なものだった。しかし自分が成長するにつれ、親も失敗をする「私と同じ普通の人だ」という、当然のことに気づく瞬間が訪れた。そこで初めて、自分のなかのロールモデルとしての親が消滅し、親から切り離された状態の自分が誕生したのだと思う。こうやって子どもは親を通して成長していくのかもしれない。

あの頃の両親も子育てで悩んでいたはず

そしていま、私はあの頃の両親を超える年齢の大人となり、ふたりの子どもを育てている。

子育てで悩み、なかなか眠れない夜、若かりし日の両親も毎夜、子育てで悩んでいたはずだと考える。その瞬間、心のなかに言いようのない安堵が広がっていく。誰よりも私を理解してくれ、頼りにできる援護者が現れたような気持ちになる。彼らもきっと私と同じように悩んでいたのだと思うだけで、孤独な道行きに光が差すように思えてくる。自分が経験した寂しい幼少期を思い出せば思い出すほど、両親の幼少期についても、思いを巡らせるようになった。そうすることで、ようやくすべてを納得できたのだ。あのふたりも、かつては子どもだったのだと。

こんな風に、心のなかで「相手の立場で考えてみる」という作業をくり返す。子育てをしながら親に思いを馳せるようになるとは想像もつかなかったけれど、いまの自分にとってはもっとも有意義な心のエクササイズであり、両親との数少ない思い出が、子育てというゴールの見えない旅路の羅針盤となっている。

砂浜
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なぜ子育てで傷つき痛みを感じるのか

子育てに悩んで、葛藤し、心のなかでようやく折り合いをつけられたとしても、腹が立つときは腹が立つものだし、ひどく傷ついてしまうこともある。痛みを伴う怒りほど苦しいものはない。

なぜ子育てで傷つくのか、痛みを感じるのか、いまだに理解できないでいる。だから迷うし、子どもとのすれ違いも起きる。親のこの状態を「毒」と呼ばれたら、返す言葉もないうえに為す術もない。親ガチャのハズレだと思われていたら、それこそ絶望だ。

怒りの脳内スイッチを切る

自分の心がゆっくりと、しかし確実にボロボロになっていっていると認識したら、脳内に大きなスイッチを想像して、このスイッチを完全にオフにしてしまう。そうすることで、子育ての悩みから一定の距離を置くことができると自分に言い聞かせている。

これには少し訓練が必要だけれど、どうしても怒りが湧いてくるとき、そしてその怒りが事態を悪化させるだけだと理解しているとき(ほとんどの場合、理解している)、急いでこの巨大脳内スイッチを切るのだ。切るというより、バシンと叩いて潰してしまう。あるいは足で、思い切り、バシン! と、スイッチを踏みつけてしまえ! 一時停止だ! いったん休憩だ! そして犬を連れて散歩に行くのが一連の作業だ。

「どんな問題でも回避させてしまう脳内のスイッチ」を持つことで、燃え上がる脳内火事の消火活動には毎回成功している。あきらめて投げ出した瞬間に、答えが見つかることは多々あるのだ。

子育てには距離と時間が大切だ。

食べてくれたらそれでいい

息子の弁当を作ることが多々あるのだが、以前のようにある程度凝ったメニューを考えることは、もうすでにあきらめている。小学生の頃は、子どもの周りにいるであろう同級生の目を若干意識して作っていたものの、高校生となったいま、そんなことはどうでもいい。食べてくれればそれでいい。

村井理子『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』(CCCメディアハウス)
村井理子『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』(CCCメディアハウス)

最近わが家で流行っている具材の組み合わせ(比較的楽しく作ることができる)のが、一風変わったおにぎりだ。以下がとても喜ばれるメニューだ。

焼いたソーセージと目玉焼き
ドライカレーと目玉焼き
焼き肉と野菜炒め
ツナと甘い卵焼き

おにぎりというよりも、一時期流行ったおにぎらずに近いかもしれない。ラップの上に海苔を置き、炊飯器から直接米を載せて、広げ、塩を振る。そこに具材を載せて半分に折りたたみ、それをラップで包むだけなのだが、見た目も楽しく、味もいいそうだ。

このメニューがあるというだけで、朝の弁当作りが重荷ではなくなった。具材の組み合わせで面白いものが浮かび上がると、ちょっとうれしい。この、ちょっとうれしいが料理の醍醐味で、それを忘れつつあった私も、最近は少し気持ちが楽になってきている。

たかが弁当作り、されど弁当作り。のしかかってくる「また弁当を作らなければならない」というプレッシャーをはねのけるには、戦略が必要なのだ。それでもだめなら……千円渡そう。子どもはそのほうがうれしいかもしれない。