※本稿は、名取芳彦監修『ぶれない心をつくる ポケット空海 道を照らす言葉』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
イラッとする経験が人の心を育てる
一切の衆生はみなこれわが親なり
――『教王経開題』
職場や地域、友人関係、親戚づきあいなど、私たちは、日々さまざまな人間関係に揉まれて生きています。その中には、気の合う人もいれば、何かにつけイラッとしたり、不快感を抱いたりしてしまう相手もいるものです。
そんな人と接する時は、誰でも感情に振り回されてしまうこともあるでしょう。
しかし空海は、「仏のような眼(恵眼)で物事を見れば、すべての人、すべての生き物が皆、自分の親である」と諭します。
「そういわれても、この腹立たしさはどうにもならないんだ!」といいたくなるかもしれません。そういう時は、「この人は反面教師だ」と思いましょう。
相手の言動を見て、「自分はこんな行動はしない」「こういった言葉は人を傷つけるから使わない」と学ぶのです。そうすれば、あなたという人格が磨かれ、成長していきます。嫌な相手が、まさに自分を育ててくれる「親」となるわけです。
心がざわつく時は、相手から学ぶ時
ちなみに、ここでいう「恵眼」とは、「知恵の眼」。物事の真理を見抜く目のことです。
仏教の目的は、「心穏やかに生きること」ですが、人の言動や日々の出来事に左右されることなく、平穏な心で生きるには、真理をしっかり見据える眼を持つことが大切です。
逆にいえば、真理を理解していれば、周囲にどんな雑音や荒波が立とうと、悠然と構えていられるのです。
もちろん、今すぐ真理を見通す眼を持てなくてもまったく問題ありません。本稿でひもとかれる空海の教えから、一歩ずつ学びを進めていってください。
まずは、心をざわつかせる言動に出会った時、「あのようにはなるまい」と考えてみましょう。あるいは、「この人には、そうせざるを得ないこの人なりの事情があるんだ」と思いを巡らせてみましょう。
最初は、その視点を持つだけでOKです。それだけで、恵眼をもって相手を観ているといえます。そしてその時、相手はあなたの心を磨き、成長させる「親」になっているのです。
さまざまな面から物事を捉えてみる
恵眼を持って、陶器の茶碗を見てみましょう。陶土でできた器だと見ることもできれば、いずれ割れるから、諸行無常の象徴だと捉えることもできます。あるいは、たんなる空っぽの入れ物だと見る人もいるでしょう。どの見方も間違いではなく、「真理」です。このように物事を多角的に捉えると、それまで気づかなかった本質が見えてきます。
自分の中にある輝きに目を向ける
――『吽字義』
自分自身を知らないこと以上に、貧しいことはない。
空海は、こう断言しています。人間にとって貧しい状態は、お金や物がないことでも、地位や権力がないことでもない。自分という存在の素晴らしさを知らないことだと。
では、その「自分」とは、どんな存在でしょう。
仏教では、人間は「仏性を持っている存在であると考えます。仏性とは、仏様と同じ性質です。仏様がそうであるように、悩みを解決する知恵も、願いを叶える力も、実は、私たちの中にあるのです。
幸せへと導く「青い鳥」は、どこか遠いところにあるのではなく、私たち自身の中にあるというわけです。
しかし、私たちはそれに気づかず、周りに翻弄され、自分の外側に幸せを見出そうと四苦八苦しています。それはなぜか。数々の煩悩で仏性の輝きが覆い尽くされているからです。
でも煩悩の曇りをとれば仏性が輝き出し、豊かさへと導いてくれます。その第一歩が、幸せになるための答えは自分の中にあると気づくことなのです。
困難の中にこそ、心を育てる栄養がある
――『般若心経秘鍵』
あなたは、自分の思い通りにならないことを、世の中や人のせいにしていませんか? 「自分が活躍できないのは○○のせいだ」「○○さえなければ、うまく行くのに」……。そうやって嘆くのは簡単です。しかし、空海はこのように説いています。
蓮は泥の中に育ちながらも、その色に染まらず美しい花を咲かせている。また、そのつぼみの中には、すでに実が存在している。このことを見れば、私たち人間も、環境に左右されない清らかな心を持ち、悟りへと至る可能性を持っていることがわかる、と。
蓮は、泥水の中でしか育ちません。澄んだ水の中では、あの可憐な花を咲かせることはできないのです。泥の中にこそ、蓮を成長させる栄養があるのでしょう。
長い人生の間には、トラブルに見舞われる時もあれば、努力してもなかなか報われない時もあります。そんな時は、泥が自分を育ててくれているのだと思いましょう。困難から学ぶことができる人は、必ず美しく咲くことができます。
世界の見え方は心のあり方で変わる
万法は心に従ってあり。
――『宗秘論』
すべての事象は、その人の心に従って変わります。舟が川を下るにつれて見える岸辺の景色が変わるように。歩くのに合わせて、雲の晴れ間から見える月が一緒に進んでいくように。
つまり、私たちから見える世界は、心のあり方次第で変わるのです。それは、その人の立場や考え方によって世界の見え方が異なるということです。
たとえば、Aさんが「お金がほしい」と思っていたとしたら、会う人すべて、世の中のすべてが金儲けの対象に見えるでしょう。また、物事の判断基準は、「損か、得か」でしかないはずです。
一方、「この世から貧困や格差をなくしたい」と思っているBさんにとって、人々は皆幸せになるべき存在であり、世界は解決すべき問題にあふれているでしょう。
このように、同じ景色を前にしても、どのような眼鏡をかけるかによって、AさんとBさんではまったく違う世界を見ることになります。
徹底してすべてを受け入れたとき、知恵が生まれる
どの眼鏡をかけて世界を見るかは、自分自身の持つ価値観によって決まります。別のいい方をすると、自分の価値観を通してしか、私たちは世の中を見られません。
では、空海はどのような視線で世界を見よといったでしょうか。
彼は、「仏の教えに従え」と説いています。そして、「そうすれば、すべての物事を肯定できる」と教えています。
仏教は基本的に、起こる出来事を受け入れていく考え方をとりますが、その中でも、特に密教は「大肯定」といっていいほど、徹底してすべてを受け入れていきます。
どういうことかというと、この宇宙すべて、生きとし生けるものすべて、また、起きることすべてを肯定していくのです。当然、どんな出来事が起きても、どんな感情が生まれても否定せず、いったん受け止めます。
そうやって、あらゆる出来事を「大肯定」すると、そこから物事をよくするための知恵が生まれます。そしてこの世は、実は「素晴らしき世界」であったと気づけます。空海は、その世界を皆に見てほしいと願ったのです。
身近な物事や自然を悟りの材料にする
お釈迦様は、ご自身が出会った経験や物事をすべて、悟りの材料としました。たとえば、人の優しさや裏切り、天体の運行、四季折々の自然や生き物の姿……。あらゆるものから学び、そこに真理を見出したのです。私たちもお釈迦様と同じように、さまざまな物事や自然の姿に囲まれています。つまり私たちも、日々の出来事をすべて成長の糧にできるのです。