「頭の中が真っ白になって、私、死ぬのかな……と」

希望がかなって異動した購買部。当時はビールやRTD(※)などの原料調達を任され、仕事が楽しかった。だが、原因不明の発熱と、胃痛も続いた。市販薬や粘膜強化のサプリメントで紛らせていたが、さしこむ痛みと食欲不振に悩まされるように。

玉山嵯里子さん
玉山嵯里子さん

「大好きなビールも飲めなくなって、懇親会の席でも口元にグラスをつけて唇を湿らせるのがやっと。よほど悪いのかと不安になり、生活習慣病健診で久しぶりに苦手なバリウムを飲みました。すると検査結果で『胃潰瘍の疑い』があり、すぐ近くの病院へ。胃カメラ検査で『胃がん』と診断され、治療できる病院を紹介されたのです。頭の中が真っ白になって、私、死ぬのかな……と」

職場の上司にまず報告し、周りに心配をかけたくないので内緒にしてほしいと頼む。数日後、消化器内科で再度胃カメラ検査を受けると「胃がん」とはっきり宣告され、診察室を出た途端に血の気が引いて倒れてしまう。45歳のときだった。

手術までの1カ月半がもっとも精神的につらかった、と玉山嵯里子さんは顧みる。休職中の仕事や手術費用、もとの生活に戻れるのか……と不安が募る。造影剤の副作用でじんましんが出たときは悪い予感が頭をよぎり、会社の医務室のベッドで1人泣いた。

「信頼できる主治医と出会えて、手術が怖くなくなりました。先生から根治のための治療をめざすと言われ、『5年後、元気に50歳を迎えましょう』と。私も命を預け、安心してお任せしようと思えました」

※RTD=Ready to Drink(缶酎ハイなど、開栓してすぐに飲める低アルコール飲料)

何でもない“ふつう”のことの大切さをかみしめて――

手術で胃の8割を切除したが、術後の経過は良く人間の治癒力に感動する。2週間の入院生活では自分とゆっくり向き合う時間を過ごせた。

玉山さんのワークライフストーリー

「目の前がパッと明るくなる瞬間があり、今がいちばん心も健康だと感じられました。自分にとって何が大切なのか、信頼できる人は誰かということも明確に見えてきた。だから早く復帰し、自分を支えてくれた人たちに恩返しをしたい。親や友人、会社の人など、誰かの役に立つ生き方をしようとあらためて思いました」

胃がんの病名を家族に伝えたとき、母親は泣かなかった。持病を抱えながら、毎日病院へ通ってくれた母への感謝の念も強かったのだ。早くに姉と兄を亡くし、両親やきょうだいと暮らす家を支えてきた玉山さんは、いっそう「生き抜く覚悟」を固めた。

職場復帰は、時短勤務からスタート。抗がん剤治療も始まり、人事部や産業医と相談しながら無理なく勤務時間を延ばしていく。

「自分の体調を正直に話すようにしました。休職前は誰かに迷惑をかけてしまうとか、自分の仕事を任せるのは申し訳ないと考えていたけれど、1人で頑張りすぎなくてもいいのかなと。周りの人に甘えることができるようになった気がします」

日々の生活も無理をせず、心地よい時間を楽しもうと決めた。実は闘病中に自宅の建て替えが重なり、退院して半年後に完成。玉山さんがプランニングした新居で両親と暮らし、一緒にお茶を飲んだりする何気ないひとときの大切さをかみしめている。

胃がんの手術から5年経ったとき、主治医から、「卒業おめでとう」と言われた。2019年3月、ちょうどこの頃スタートしたのが、がん経験者の社内コミュニティー「Can Stars(キャンスターズ)」の活動だ。

「やはり同じ痛みを分かち合った仲間だからこそ、笑って話し合えることもある。私もようやく自分の健康に少し自信が出てきたので、今後は支援する側になってみようかなと。皆さん、生きることに前向きな人ばかりで本当に明るいんですよ」

社外有志と一緒に、「生きている喜びを心から実感できるビール」をつくるプロジェクトを始動。玉山さんは社内で胃がん体験を講演することにも取り組んだ。そこで伝えたいことは、「自分の健康を過信しないで、体調の変化には敏感になってほしいのです。自分を守れないと家族を守れないし、健康であってこそいろんな人たちのために生きていけると思うから」。

玉山さんが働き続ける理由は家族を守りたいという思い。大好きな会社でやりがいのある仕事に就かせてもらえている感謝も大きい。26年に創業150周年を迎える日まで、さらなるチャレンジをめざしている。

玉山嵯里子(たまやま・さりこ)
1989年、短期大学卒業後、一般職としてサッポロビールに入社。本社勤務となる。宣伝室、広報室を経て、2009年、総合職へ転換。購買部勤務の14年1月に胃がんが見つかる。切除手術を経て、15年3月抗がん剤治療終了。サッポロホールディングス総務部に異動し、現在に至る。