※本稿は、KC・デイビス『家がぐちゃぐちゃでいつも余裕がないあなたでも片づく方法』(SBクリエイティブ)の一部を再編集したものです。
自分を救えなければ世界は救えない
自分を救うことができていないのに、世界を救うことはできません。自分が機能するために夕食に紙皿を使うことや、リサイクルできるものを捨てる必要があるなら、そうしてください。自分がちゃんと動くことができるようになったときに、世界にとって本当にいいことをする力を取り戻せます。それまでは、生き残ることに集中しようではありませんか。
現実的に考えてみれば、ちゃんと機能できるように努力しているとき、リサイクルするかしないか、選んでいるわけではないのです。あなたは段ボールのごみを廊下に積み上げて何もできないでいるか、段ボールのごみを捨てて前進するか、そのどちらかを選んでいるだけです。
いずれにせよ、リサイクルはその日のうちに終わりません。しかし、数週間分の段ボール(あるいは保存容器、紙、プラスチックごみ)を犠牲にすることができれば、機能する人間として、環境保護のような重要な活動に参加し、地球を変えることができるかもしれません。肉を食べたからサステナブルでないと恥を感じ、一日をどう過ごすか闘っているときにファストファッションの衣類を買ったからといって、何かをやり遂げる魔法のような能力が手に入る理由にはなりません。
羞恥心とは、恐ろしいほど長期間にわたって影響を及ぼす強いモチベーションです。あなたを機能させず、持続が難しい行為を繰り返させる可能性があります。
常に良いことばかりをするのは無理
私ができるかもしれない正しいことを考えるときは――環境保護、社会貢献、利他的な行為―─二つのレイヤーに分類することにしています。
一つ目は、自分の人生においていつ何時でも責任を負う義務があると考える基準のことです。誰でも私にその責任を持たせて良いレイヤーともいえます。私にとってこのレイヤーは、人種差別、性差別、階級差別、同性嫌悪、トランスフォビア、障害者差別をしないと確認するためのエリアです。他人を罵倒したり、いじめたり、搾取したりしないこと、常に正直にふるまうこと、誠実であることです。
二つ目のレイヤーは、道徳的に良いことのエリアです。絶対的とはいえませんが、可能な限り自分が参加するものです。小さな会社をサポートする、寄付をする、ボランティアをする、リサイクルをする、ファストファッションを避ける、ごみを減らす、倫理的な活動をする企業を優先する、などがこれに当たります。
私は自分の内面で、このレイヤーをどのように構成するのかという点に限って、責任を負っています。良いことばかりを常にすることは無理です。
抑圧的な完璧主義だけを設定するよう自分に期待しても、誰もそれに応えることはできません。不完全さが良い人生には求められるのです。
ガラスのボールはどれなのか
ヤングアダルト作家のジェニファー・リン・バーンズがこうツイートしました。
自分自身を機能させようともがいているとき、自分のガラスのボールがなんなのかを知るのは重要です。食べること、子どもや動物の世話をすること、薬を飲むこと、メンタルヘルスに取り組むことのすべてが、ガラスのボールです。これを落とすことは壊滅的な結果を残すこととなり、すべてのボールを落としかねません。
リサイクル、菜食主義、地元での買い物。これらはプラスチックのボールです。重要ですが、落としたとしても、ガラスのボールがそうなるように、あなたの人生が粉々になることはありません。プラスチックのボールは床に落ちて、そこから動きませんから、あとで拾い上げることができます。ガラスのボールだと、そうはいきません。
文字通りの説明をしてみましょう。やりたいことをすべてできないのなら、機能するためにどのケアタスクが必要なのかを知り、そしてもっとやることができる状態になったときのために優先順位をつけておきます。
リサイクルの分別vs.猫のトイレ掃除
例えば、もしあなたがとてもストレスのある時間を過ごしていたとして、猫のトイレ掃除やリサイクルの分別ができないという場合は、リサイクルの分別をやめて、猫のトイレ掃除をこまめにできるような習慣を見つけることにエネルギーを使うのです。一時リサイクルの分別をしなくても、世界に与える影響は大きくはありません。
でも、あなたの猫にとっては、面倒を見てもらえるかどうかは大きな問題なのです。
私の歯磨き粉付き歯ブラシのこと
私の実行機能の最も弱いところ。それは歯磨きです。学校に通っている時代、会社に通勤している時代にそれが問題になったことはありませんでした。洗面台の前に毎朝立ち、家を出るために準備を整える儀式と、私の吐く息で誰も気分を悪くしてほしくないというモチベーションが重なり、歯を磨くことはまったく苦になりませんでした。
長女を出産したとき、歯を磨くことができなくなりました。どこに行くわけでもなく、「起きて、出かける支度をする」という朝の儀式が「泣き叫ぶ赤ちゃんによって無理矢理起こされ、授乳するために全速力で走る」という儀式に変わったのです。
睡眠不足、家に閉じ込められること、そして新生児をケアするという抱え切れないほどの経験に集中することで、歯磨きは私の毎日のリズムにとって目的のないタスクとなってしまったわけです。
2番目の娘が生まれたのは、パンデミックによるロックダウンの最中でした。歯を磨かないという最悪の状況が、堂々と戻ってきました。そこに産後うつと(診断前の)ADHDが加わり、歯磨きはあっという間に不可能なリスト入りを果たしたというわけです。
自分を労ること、定着しないように思える適応可能なルーティンを18カ月繰り返した結果、私は自分に正直になり、歯磨き粉付き歯ブラシの144本入りの箱を注文しました。玄関にボウルを置き、そこに歯ブラシを入れ、キッチンに行くとき、あるいは裏口に行くときに必ず1本手に取るようにしました。使ったあとの歯ブラシは、リサイクルできる方法を思いつくまでメイソンジャーに突っ込んでおきましたが、こんな私でも使い捨てのプラスチックには罪悪感がありました。
「パンデミックのときにみんなが使っていたマスクだってプラスチック製じゃない」と、友人のイマーニ・バーバリンは言いました。
イマーニは障害者支援で活躍する女性ですが、障害者と環境保護主義の接点についてよく話します。健康な人が健康になるために必要な場合(マスク、グローブ、処方箋に使われる薬が入ったプラスチックの容器、スポーツ選手のテープなど。宅配のサプリメントさえ分包化されています)、プラスチックの使用は常に受け入れられるというのに、障害のある人がプラスチックを使用すると、途端に地球を破壊していると責める人がいるのだそうです。
「必要なものは、必要なのよ」
「必要なものは、必要なのよ」と、彼女は優しく、でも力強い声で言いました。彼女は正しいと思います。そして、より頻繁に歯を磨く方法を思いつかなかったとしたら、迫り来る歯科医での治療で10倍のプラスチックが必要になると思うのです。
何かを機能させるために使うのなら、それは無駄ではありません。スプリンクラーを毎日15分回すのは水の無駄です。なぜなら、芝生が必要とする以上の水の量だからです。食料品店やレストランは過剰に仕入れた新鮮な食料を毎日捨てていますが、それは食料の無駄です。お金があるのに水道の蛇口を直さないのは水を無駄にしていることです。
でも、何かを使うことは、何かを無駄にすることとは違います。やる気が出ないなら紙皿を使って食事をしてもいいのです。そうでもしなければ、食べることすらできないのですから。糖尿病の人は使い捨ての注射針を使っていいし、あなたがパックに入ったサラダを食べたって、そんなのいいに決まっているんです。
あなたがフルに機能しているときに世界に与えることができるインパクトは、一つの家庭が使うプラスチックや水が地球に与える悪影響をはるかに上回るのですから。
差し迫った物資の不足が原因で、地元の役人から資源の利用を制限するように言われることがあるかもしれません。そのときは、どうにか苦難を乗り越えるのです。でも、自分が機能することを優先し、環境保護に貢献できる別の方法を見つけることは間違いではありません。
環境保護活動は重要だけれど…
気候変動は現実です。環境保護活動はとても重要です。でも、メンタルヘルスやニューロダイバーシティーのニーズを持つ人々が機能するために必要な、それぞれにとって適応可能なルーティンをおろそかにすることで、地球を修復しようとは思いません。
そのエネルギーは国会に持っていきましょう。うつ病やADHDを持つ人が環境に最適な行動ができないと腹を立てる人は、深刻な妄想を抱いているのでしょう。
保健専門職の主な信条のひとつに、ハームリダクション(危害削減:健康に被害をもたらすこと、自分に危険をもたらす行動をやめることができない場合、その行動によって発生する危害をできるだけ少なくすることを目的とする指針や政策のこと)があります。誰も一夜にして機能できるようにはできていませんし、障壁を持ち続ける人もいるでしょう。そのときのゴールは危害を減らすステップを踏むことです。まずは自分、それから周りの人たち。最後にコミュニティーです。
まず、個人の危害の削減(自分自身の健康に害を及ぼす行為を自分でやめることができないとき、それに伴う害を極力減らすこと)に取り組む前に、コミュニティーの危害の削減にいきなり飛び込むことはできません。
だから、夫を亡くしたばかりの女性が食事を取ることに苦労したとしても、少くとも環境に配慮した食事を選ぶ義務からは解放されるのです。なぜなら、倫理的に食事を取ることは重要ではなくて、現実の世界では、誰かが何かを毎日食べている、あるいは食べていない場合も含めて、食べることの選択自体が常に倫理的だからです。
食べることができるものを食べるよう促すことは、倫理的選択です。危害の削減は、いつ何時でも倫理的なのです。