※本稿は、大空幸星『「死んでもいいけど、死んじゃだめ」と僕が言い続ける理由 あなたのいばしょは必ずあるから』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
学校へ行きたくないと思ったらどうするか
「あなたのいばしょ」の相談件数は、新学期前にも大きく跳ね上がります。とても残念で悲しいことですが、子どもの自殺件数が急増するのもこのタイミングです。
相談の内容はほとんどが「学校へ行きたくない」「学校がつらい」というものです。
その理由は、大きくふたつに分けられます。ひとつは「友達や先生と顔を合わせたくない」というもの、もうひとつが「学校に行っても楽しいことがないから家にいたい」というものです。
こんなふうに言葉にすると、それほど深刻な悩みではないと感じる人もいるかもしれません。しかし、学校がしんどい人にとっては切実な問題です。気楽に過ごせた休みが終わり、学校でストレスの多い生活が始まるのかと思うと絶望にも似た気持ちが生まれるのです。
こんなときに役立つのは、事実と妄想を分けて考えること、そして、一番の原因をつき止めることです。
特に、友達や先生と会うのが嫌で学校へ行きたくない場合は、あれこれ想像して苦しくなっているケースも多いので、起きている事実をきちんと見極めると具体策が見えてきます。
できるところから工夫する
学校はつまらないし、居場所がない。だから、落ち着ける家にいたいと思う場合は、なぜ家が落ち着くのかを考えてみるといいでしょう。すると、いろいろな理由が出てくるはずです。
家にいれば話を聞いてくれる家族がいる。気兼ねなく好きなことができる。安心感がある。人に気を使わなくていい……。
その理由が見えてきたら、学校生活でその要素を少しでもつくれないかと考えてみます。たとえば、話を聞いてくれる友達を探す、休み時間や放課後に好きなことをしてみる、学校で落ち着ける場所はどこだろうと考えてみるなど、小さな工夫ができるはずです。大げさなことでなくてもいいのです。
それを、一日ひとつでいいからやってみようと考えて実行してみると、学校生活が少し楽になるのではないかと思います。
「あなたのいばしょ」でも、そうやって話をしながら相談者と一緒に考えていきます。すると、「そういえば、こんなことができそう」と気づいて、新学期への不安やしんどさが消えていく人も多いのです。
「いまできること」が見えてくる
朝も、悩みや葛藤が大きくなる時間です。
学校へ行かなければと思っているのに行けないとき、本当は行きたくないけれど無理に登校するとき。どちらもハードですが、いままで紹介した方法で自分の気持ちや状況を整理してください。
特に、登校できず家にいるときには、自分だけが周囲から遅れてしまうと不安や焦りを感じてしまうかもしれません。そこで、マイナスな気持ちだけにフォーカスしてしまうと、負のループに入ってしまいます。
しかし、事実をきちんと分析すれば「いまできること」が見えてくるはずです。焦らず、そしてあきらめず、ひとつずつそれをやっていけば、必ず少しずつ状況を変えていけます。
「苦しみの出口」を自分でつくる
もしあなたがいま苦しくてたまらない状況だとしたら、僕の言葉が心にすんなり入ってこない部分もあったかもしれません。しかし、たった一行でもいいので、つらいときの支えにしてもらえたら嬉しいです。
苦しみがずっと続くことはありません。つらい時間は、必ず終わります。
でも、いつ「そのとき」が訪れるかは誰にもわかりません。だから、自分自身で「苦しみの出口」をつくっておくことが大切だと僕は考えています。自分なりの方法でいいので、こう考えれば楽になれるという「ゴール」を自分自身で設定しておくのです。
僕の例をお話しすると、「なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか」と苦しくて仕方がないとき、こんなふうに考えていました。
人生で感じる悲しみの量は「コップ1杯分」と決まっている。悲しみが満杯になると自動的にコップのフタが閉まり、それ以上の悲しみはやってこない。たまたま僕は、人より早く一生分の悲しみがやってきただけだ。コップが満たされたらフタが閉まる。次は楽しいことや幸せがやってくるだけだ、と。
つまり、人それぞれに一生の間で悲しみや楽しさ、幸せなどを同じ量だけ感じるけれど、それらがやってくるスピードは人によって違う。自分には、悲しみが先にたくさんやってきただけだと考えたのです。
「親ガチャ」という言葉に救われた
もうひとつ「親ガチャ」という言葉も、理不尽な苦しみや絶望から救い出してくれました。
いまこの言葉は、他人と自分を比較するときに、親の経済状態や家庭環境は選べないといった軽いニュアンスで使われています。
しかし、もともとこの言葉は、虐待や育児放棄など、自分が悪いわけではないのに不条理にもたまたま過酷な環境に生まれた僕のような子どもたちにとって、救いの言葉でした。
そうか、ガチャなら仕方ない
子どもは親を選べない。どんな親のもとに生まれるかは偶然によって決まる。
親ガチャという言葉はその理不尽さをゲームのガチャにたとえて、端的でわかりやすく表現していました。4、5年前にこの言葉を初めて聞いたとき、僕は気持ちが楽になりました。そして、自分の置かれている境遇を少しだけ受け入れることができたのです。
その裏には、「そうか、ガチャなら仕方ない」とつき放して見ることでしか、自分の環境を肯定できない苦しさがありました。それでも、この言葉によって気持ちの落としどころが見つかり、しんどさが減ったことは事実です。
ほかにも、いろいろな考え方や工夫をして、いままでどうにか過ごしてきました。
逆に言えば、そのようにして、自分で苦しみの「出口」をつくり出すしかなかったのですが、あなたも自分なりに、自分を励ます言葉やつらさを乗り越える方法を見つけていってください。
悲観的だと思うかもしれませんが、悩みや問題が消えてなくなることはありません。でも人とつながり、誰かに頼りながら、自分でも心が楽になる考え方を見出していけば、きっとどんなことも受け止め進んでいけるはずです。
生き続けていくために「出口」を残しておきたい
僕が「死んでもいいけど、死んじゃだめ」と言うのは、死を思うほど苦しい人がそれでも生き続けていくために、「出口」を残しておきたいからです。
「死んでもいいなんて、けしからん」と怒る人がいますが、そういう人は、死を選びたくなるほどの苦しみを経験したことがないのだと思います。
毎日が真っ暗闇なトンネルのなかにいるようでどうしていいのかわからないとき、人の脳裏には、「究極の出口」として、自殺という言葉が浮かぶことがあります。
生きているのがあまりにもしんどいから、死んで楽になりたいという思いが芽生える。つまり苦しみから逃れるために、命を絶つという「出口」を自分でつくってしまうのです。
そんなとき「死んではいけない」と言われることほど、苦しいことはありません。
最後に残された出口まで奪われてしまうからです。実際、「死ぬのだけは許さない」と父に言われ続けた小学6年生の僕には、絶望しかありませんでした。
「最後の出口」が生き続けるための救いになる
もちろん、決して自殺を肯定しているわけではありません。
しかし、みずから命を絶つことが「最後の出口」として残されていることが、その人が生き続けるための救いになる。出口が存在するからこそ、もう一日生きてみようと思える。そんな状況があるのです。
その一方で、世のなかには「人には死ぬ権利があるはずだ」「自殺は死ぬ権利を行使することだ」と反論し、自殺を正当化する人がいます。
しかし、それは間違った捉え方です。自殺は「生きる権利」を行使できなくなった結果、起きるものです。
生きる権利というと難しく感じるかもしれませんが、単に、自分が毎日普通の暮らしを続けていくこと。それが、僕たちが生きる権利を行使し続けるということです。
ところが大きな困難に見舞われたとき、人は孤独に苛まれ、自分が当たり前に使っているその権利を使えなくなり、死を選びたくなってしまうのです。生きることができないから死を選ぶしかないのに、「死ぬな」と言われると、袋小路に入って途方に暮れるしかありません。
そんな人を一人でも減らしたくて、僕はずっと「死んでもいいけど、死んじゃだめ」と言い続けてきたのです。
僕たち相談窓口の役割は、追い詰められた状況にある人から出口を奪うことなく、そこに近づこうとしているその人に寄り添って、生きる方向へと進路を変えること。必ず存在する別の出口にその人が気づけるよう勇気づけ、話を聴くことです。