※本稿は、大空幸星『「死んでもいいけど、死んじゃだめ」と僕が言い続ける理由 あなたのいばしょは必ずあるから』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
アルバイトのかけもち、母との壮絶な争い
持病が悪化していた母は、働くことができない状態になっていました。憎いと思っていた母ですが見捨てるわけにもいきません。生活費を稼ぐために僕はすぐアルバイトを始め、コンビニやレストラン、ホテルの配膳などのほか、ときには工場の日雇いアルバイトなどもかけもちしました。
慣れないバイトをして家に帰ると、情緒不安定だった母は小さなことですぐ感情が高ぶり、何かにつけて僕を責め立てます。
僕のほうには、子どもの頃に母が出ていったせいで自分の苦しみが始まったという思いがありました。だから、母に対して溢れてくる怒りや憎しみをそのままぶつけ返しました。やがて、僕と母は毎日激しく罵倒し合うようになりました。
特に、母から「産んでやったことに感謝しろ」と言われると、言葉にならない怒りが湧いてきました。母と僕の口論はとどまるところを知らず、ときには母が包丁を持ち出すこともありました。「お前を刺して自分も死ぬ」と言う母に、僕は「頼むから死んでくれ」と言い返しました。
学校で演じた「普通」の生活
そういった状況でも、学校に行けば僕は「普通」を演じました。
アルバイトのせいで授業を休みがちになったり、名字が母の旧姓に変わったりしたことで、同級生たちも僕に家庭の事情があることは気づいていました。僕も、ある程度は伝えていましたが、心にある苦しみを打ち明けることはありませんでした。
学校では気丈に振る舞っても、家に帰れば壊れかけた母がいて、きついアルバイトもしなければならない。そんな生活は、僕の心を次第にむしばんでいきました。
生活費を稼ぐこと自体は仕方がないと受け入れられましたが、つらくてどうしようもなかったのは、「普通の高校生」を演じている自分と本当の生活とのギャップです。
僕の通っていた学校は、比較的恵まれた家庭の生徒が多く、おおらかで自由な校風でした。昼間はそんな環境で「普通」に過ごし、学校を一歩出ると僕を罵倒する母とアルバイトが待っている。本当は毎日苦しくて誰かに助けて欲しいのに、頼れる人も相談できる相手もいない。それでも明日学校へ行けば、何事もないように過ごさなければならない。
心を押し殺し、自分に嘘をついている生活。17歳の僕には、そんな生活が苦しくてたまりませんでした。そして、生きるのがこんなにつらいのなら死んでしまいたいと思うようになりました。その思いを抑えられなくなり、実際にリストカットしたこともあります。
「もう死にたい、逃げ出したい」
同時に湧いてきたのが、学校を辞めてどこかへ行ってしまいたいという思いです。
人間はとことん追い詰められると、自分が何に悩んでいるのかもわからないほど混乱してしまいます。
心のなかには絶望しかなく、どうしようもなく苦しいという現実だけが目の前にある。それでもバイトへ行き、学校へ向かい、生活は続けていかなければならない。そんな日々は、小6の頃に自殺を考えたときとは比べものにならないくらいつらいものでした。
バイトから帰ったある夜、僕は限界を迎えました。もう死にたい、逃げ出したいという思いを止められなくなったのです。
しかし、このまま黙って学校を辞めれば迷惑をかけてしまうと考えて、F先生にメールを書くことにしました。1年生のときからずっと担任で僕を気にかけてくれていたF先生に迷惑がかかるのだけは避けなければいけない。そんな思いからです。高校3年生になる直前のことでした。
先生に送った長いメール
頭のなかはまったく整理できていませんでした。でも、ありのままの気持ちを書きました。とても長いメールです。その一部を抜粋します。それでも長文ですが、当時の僕の気持ちがそのまま書かれているので、あえて掲載しようと思います。
幸せな環境を壊した母や父
自分を追い込みすぎて、もう限界かもしれない
自分と向き合う時間がほしい
大空 幸星
自分でも自分自身がよくわからないけれど、孤独で苦しい。だから自分と向き合う時間が欲しい。でも心配はかけたくない。そんな気持ちをすべて正直に書きました。F先生であれば、もしかすると信頼できるかもしれないという思いがうっすらとあったのかもしれません。でも一番にあったのは、迷惑をかけてはいけない、とりあえず、いまの状況だけは報告しておかなければという気持ちでした。
書き終わったときには、深夜3時を過ぎていました。バイトで疲れ果てていた僕は、そのまま気絶するように眠りに落ちました。
初めて出会った「信頼できる大人」
次の日、電話の音で目が覚めました。寝ぼけながら出てみると、F先生からでした。
「お前、いまどこにいるんだ?」と聞かれ、ぼんやりした頭で「家で寝ています」と答えると「マンションの下まで降りてこられるか」と先生は言いました。「はい」と答えて携帯電話を見てみると、先生から何十件もの着信が入っていました。
言われた通り、マンションの入り口まで降りると、そこにF先生が立っていました。
本来であれば、授業が行われている時間です。先生は自分の授業を調整して駆けつけてくれていたのです。
僕の姿を見て、こわばっていたF先生の顔は心の底からホッとした表情に変わりました。その様子を見たとき、僕は生まれて初めて「この人は信頼できるかもしれない」と思いました。
それまでの僕は、信頼できると思える大人に出会ったことはありませんでした。表面的な慰めや無責任な助言を受けた経験はあっても、心を開いて自分の悩みや苦しみを相談できると思える大人は一人もいなかったのです。
だから最初は、本当にF先生に頼っていいのかどうか戸惑いましたが、先生は、そんな僕に根気よくつきあってくださいました。教師としてではなく、一人の人間として向き合ってくださる先生に、僕は少しずつ自分の気持ちを吐き出し、胸のなかにある苦しさを打ち明けていきました。
「よく来たな」と笑顔で迎えてくれた
あとになって聞いたのですが、先生はその日の朝、メールを見てすぐに僕の家に向かってくれたそうです。
ところが、母は実際とは違う住所を学校の書類に書いていました。そのため、先生は前に僕がしていた話を頼りに住んでいる場所の見当をつけ、近所の人に聞いて回りながらマンションを探し当ててくれたのでした。
先生は、その後も何かと相談に乗ってくれましたが、僕の事情を知って無理に学校へ来るようにとは言いませんでした。その代わり、アルバイトを終えた僕が5時間目から登校すると「よく来たな」と笑顔で褒めてくれました。そうやって信頼できる人に見守ってもらえることが、僕にとっては大きな安心につながりました。
アルバイトと学校の両立も何とかできるようになり、物理的に一緒にいる時間を減らしたことで、母とのイザコザも減っていきました。その結果、経済的、時間的には苦しいものの、精神的には少しずつ落ち着きを取り戻していきました。
過去を悲観するより、どう生きたいのかを考える
間違いなく言えるのは、F先生がいなかったら僕は生きていないし進学もしていない。いまの活動もしていないということです。
先生は社会人を経て教職に就いた人で起業経験があり、そこで得た生き方や考え方などを僕に語ってくれました。
先生の言葉で、いまも大切にしているのが「過去に悲観的になるのではなく、これからの人生を自分がどう生きたいのかを考えなさい」という言葉です。
それまでの僕は、今日を生きるのに精一杯で、将来について考えたこともありませんでした。だから、最初そう言われたときは、正直どうやって考えればいいのかよくわかりませんでした。でも先生は、授業でも僕個人に対しても、ことあるごとにそう話すのです。
「自分はいったい何がしたいのだろう」と考えたとき、頭に浮かんだのがバイト先で出会った人たちです。
一緒に働いていた人のなかには、親に虐待されている高校生もいれば、家の事情で出生届を出してもらえず戸籍のない人もいました。大学進学の学費のために働いている20代の人もいました。みなそれぞれに深刻な悩みや問題を抱え、必死で生きている人たちでした。
彼らと出会ったことで、苦しいのは自分だけではないと初めて知りました。また、そんな彼らとともに過ごすことで自分自身を肯定できたような気がしました。そして、社会が抱える問題を初めて意識したのです。
私立の高校へ通い、さらに留学までできた僕は、彼らから見ればとても恵まれた存在でした。
頼れる人が少ない一人親家庭
僕も含めて彼らに共通しているのは、ほとんどが一人親だということでした。
一人親家庭は経済的にも厳しく、何より、子どもが頼れる人の数が圧倒的に少ないという共通点があります。
どういうことかというと、僕がそうだったように、一緒に暮らす親とうまくいかなくなったら頼れる人が誰もいなくなるのです(一人親家庭には、頼れる祖父母もいないというケースが多く見られます)。
また、そもそも親が働いているので、頼れる人と過ごせる時間自体が少ないのです。
僕は、一人親家庭の子どもを支援する制度について調べてみました。するとそこには、さまざまな問題がありました。特に心の問題については、相談窓口が存在はするものの、きちんと機能しているとはとても言えない状態でした。
理不尽な状況を変えたい
僕自身はたまたまF先生と奇跡的に出会い、助けられました。
しかし社会には、なんの落ち度もないのに、一人親というだけで経済的にも精神的にも苦しみを強いられている子どもたちが大勢いる。彼らは誰にも悩みを相談できず、孤独を感じ、一人で問題を抱えている。
こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。僕は憤りを感じました。
そしてこれからの人生で自分に何ができるのか、何をしたいのかと考えたときに、この状況をなくすために活動したいという思いが湧いてきたのです。
僕は、これからの人生を自分と同じような一人親家庭で育った人のために使いたいと決意し、そのために大学に進学しようと決めました。僕が望む状況を社会で実現するには、どうしても進学して勉強することが必要だったからです。