※本稿は、村上靖彦『「ヤングケアラー」とは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立』(朝日選書)の一部を再編集したものです。
ろう者の母は聞こえる私より聞こえない兄と仲良し…
【Eさん】ちょっと話変わるんですけど、私よりも、兄と母のほうが多分、会話量、めちゃくちゃ多くて。前、母と別々に暮らしてたときでも、久々に会ったとしても、私と母の会話量が普通やったとしたら、兄は倍以上、すごいスピードで手話で、めっちゃしゃべるんですよ。〔……〕内容によったら言う言わないとかはあるんでしょうけど、はたから見ると私よりも兄のほうがすっごい仲よさそうに見えます。めちゃめちゃしゃべってます、あの2人。「そんなしゃべることある?」っていうぐらい、ほんまにしゃべってて。すごいです。いつも兄嫁と、私と兄嫁はしゃべれるからずっとしゃべってるんですけど、「あの二人、まだしゃべってんな」とかって言ってて。兄嫁も、違和感、感じるくらい、二人、めちゃくちゃ仲よく手話で話してます。
ろう者と健聴者のコミュニティはくっきり区別される
聴こえない母と兄は「めっちゃしゃべる」。聴こえるEさんと兄嫁も「ずっとしゃべってる」。聴こえない者同士、聴こえる者同士でまとまるのだ。Eさんがろう者の母と兄の会話から疎外されると同時に、母と兄のあいだでは対等で自発的なコミュニケーションが成立している。逆に言うと、ろう者同士のコミュニケーションの場が限られているということも暗示している。多くの健聴者は日本手話を学ぶ機会を持たない。そしてろう者は音声の会話には参入することができない。この両面の壁があるために、ろう者のコミュニティと健聴者のコミュニティはくっきりと区別される(そしてろう者のコミュニティは狭いと言われる)。2つの文化のはざまにいるコーダ(コーダ、CODA:Children of Deaf Adultsと呼ばれる。ろう者のもとに生まれた子供)のもとで、この区別は際立って意識される。コーダがヤングケアラーであるということの背景には、このようなコミュニティの切断がある。ヤングケアラーとしてのコーダはこの切断を架橋する役割を持つのだ。
この切断をEさんは「2つの世界」と呼ぶ。
声だけでしゃべることへの罪悪感
【Eさん】私の祖父、祖母も聴こえなかったので、実家とか、おじいちゃんの家とかに集まるときは、私と叔父さんが聴こえるんですけど、母の弟。もちろん手話ができて。叔父さんの奥さんは聴こえるけど簡単な手話しかできなくて、会話ってなると、手話、できなくて。お正月に集まったときの感じだと、その奥さんが孤立していて、なかなかない、逆転のことが、今、なぜか、ぽっと出てきました。
叔母さんは、私にすごくよくしてくださったけど、やっぱり祖母と、叔母さんは、100パーセントのコミュニケーションができないから、うまくいかなくて。正月のときとかお盆とかのときは、ほんまに2つの世界があったなっていう印象。今はもう祖父も祖母もいないので、あんまり集まるってことないんですけど、どうしても、声だけでしゃべるとすごく罪悪感を感じる。家庭のなかでも。
コーダが感じる孤立と手話への強制
ろう者が多かった家族のなかで、健聴者である叔母は孤立していた。と同時に、「声だけでしゃべるとすごく罪悪感を感じる」という手話への強制力も受ける。コーダとは、〈手話への強制力と手話を使わないことへの罪悪感を感じるヤングケアラー〉だ、と定義できるかのようだ。健聴者の孤立と手話への強制、という表裏一体の状態は原体験となる。
「叔母さんは、私にすごくよくしてくださった」と、ろう家族のなかで聴こえる者同士、聴こえない者同士がまとまる。おそらくろう者コミュニティは自然と苦労を共有するピアグループとなり、ろう者のコミュニティのなかにいる少数の健聴者同士もまた(ろう者が健聴者の世界で抱えるコミュニケーションの難しさを反復するがゆえに)ピアの関係になる。言葉をめぐるあいまいさ、コーダ同士のあいまいさとは対比される、明瞭で親密なコミュニティだ。
小さい頃は手話ができることが自信となっていた
ところが、実はコーダという言葉は、Eさんにとって手話と日本語のバイリンガルであるというアイデンティティとしてよりも、母親の通訳を行ってきた経験と結びつけられている。
【村上】もしよかったら、小さい頃のこととか、どんな。コーダとして小さい頃というか、だから、大人になる前。
【Eさん】なぜか分からないですけど、よく聞く話で「手話を見られるのが嫌」とか、そういうのは聞くかもしれないですけど、私、全くなかったと思うんです。逆に、「見て!」、みたいな。人と変わったことがきっと好きだったので。「手でお話ししてるの」とか、「手話できるんやろ、できるのがすごいね」とか、そういう自信はなぜかあったんですよね。聴こえないっていうことに対しても別に劣等感は感じてなかった、母とか兄が。
だけど、あるときから、やっぱり文章とかが苦手で、母が。ちょっと変というか、ろう者的な日本語文とかになったりするんですけど、そういうのをいろんな所で見て、感じ始めたときに、『私が直してあげないといけない』。また、『してあげる』とか、そういうところに結びついてきて。(無言)
ちっさいとき。やっぱりコーダだから、コーダとしての思い入れとか聞かれると、話すと、嫌な思い出ばっかり、なぜか。手話やから、コーダやから、『こんなすてきなことがあった』とかは、そんなにない。そんなにっていうか、今、思い出せるものがない。
「~してあげないといけない」がコーダとしての重荷になった
幼少期は手話に対してよい思い出を持っている。「手話できる」という力として感じている。「劣等感は感じてなかった」という言葉からは、周囲からろう者を差別されたという意識がなかったことが分かる。このことが、手話が好きというコーダとしてのアイデンティティとつながっていそうだ。
ところが母親が負っているハンディキャップを意識し始めたときに、それが「私が直してあげないといけない」「してあげる」という「おせっかい」することへの強制になる。そこから「嫌な思い出ばっかり」と価値づけが反転する。この場面では具体的に嫌な思い出の内容は語られなかったのだが、文脈からはヤングケアラーとして「〜してあげないといけない」という強制力のことだと考えられる。手話は好きだが、コーダとしての重荷は嫌なのだ。
Eさんとのインタビュー後半は、こめっこの話題とヤングケアラーとしてのコーダの経験を交互に語りながら進んだ。Eさんは地域で手話通訳を担うこともあった。しかし、「設置通訳にはなりたくない」とも語っている。手話を専業にすることへの抵抗感も、コーダとしてヤングケアラーだったこととつながっている。もともとこのインタビューはヤングケアラー調査のためのものではなかったのにもかかわらず、自ずとヤングケアラー役割が語られたというところに意味があるだろう。