片付けの習慣化をサポートするHomeportの西崎彩智さんは、24歳で結婚してから20年間、専業主婦だった。夫のリストラをきっかけに45歳で始めたのは時給800円の仕事。離婚を決意し、起業を考えるまでには「吐き気がするほど家に帰りたくない」日々があった――。

専業主婦歴20年、48歳で起業

家の片付けができない女性たちに話を聞くと、「いつも時間に追われている」「片付かないのは子どもや夫のせい」「自分は頑張っているのに……」と、さまざまな悩みを抱えている。いかに片付けのノウハウを知っていても、結局は「心の状態が部屋に表れていく」のだという。

そんな人たちのモヤモヤする気持ちをも整理しながら、片付けの習慣をトレーニングすることで自分の人生を切り開く力を鍛えるサポートをするのが西崎彩智さん。専業主婦歴20年、48歳にして起業を思い立ったのは、自身にも家庭で苦しんだ経験があったからだ。

Homeport 代表 西崎彩智さん
撮影=市来朋久
Homeport 代表 西崎彩智さん

「本当にやりたいことは何だろうと考えたとき、自分が帰りたい家をつくりたいと思いました。私も結婚生活がつらかった頃は家に帰りたくないと思っていたので。家を片付けるには空間を整えるだけでなく、家族とのコミュニケーションや夫婦のパートナーシップを見直すことが大事。どんな暮らし方をしたいかということを引き出し、自分が帰りたい家をつくることを目指したいと考えたのです」

2歳の頃から片付けのしつけを受けた

もともと「専業主婦になりたい」という気持ちが強かった、と顧みる西崎さん。その原点は幼少の頃へとさかのぼる。

産まれたときは体重1700グラムの未熟児で、両親は成長もゆっくりで奥手な娘を案じていた。ことに父には「女の子は結婚して主婦になれば、幸せになれる」という考えがあり、片付けなどを厳しくしつけられた。

「まだ2歳くらいの頃、『おもちゃが出ているから、片付けなさい』と夜中に起こされた記憶があります。4歳上の姉はいろいろ褒められることが多かったけれど、私はあまり上手にできることがなくて、父に褒められたい一心で片付けをがんばるような子でした」

看護師だった母は娘が幼稚園に入った頃から復職し、家で寂しかった記憶もある。小学校へ入ると、住宅会社に勤める父は休みの日によく建築現場へ連れて行ってくれた。簡単な設計図の描き方を教えてもらい、自宅にある住宅雑誌を見ては、「こんなステキなおうちで暮らせたら」と夢もふくらんだ。

父親に建築の道を進むことを反対される

やがて建築を学びたいと思うが、父には「男社会だから」と反対されてしまう。高校の頃から人の悩みごとを聞くのも好きだったので、大学では心理学を専攻。それでも住宅に携わる仕事を諦めきれず、父に相談すると「インテリアコーディネーター」という職業があると勧められた。父も地元の岡山で住宅会社を起業しており、そこで研修を積むと、百貨店のハウジング部門へ就職。当時はまさにバブル全盛期、高額なシステムキッチンや増改築のオーダーがどんどん入る時代でもあった。

専業主婦時代について「家事も育児も楽しんでいたが、自己肯定感は少しずつ下がっていった」と話す。
専業主婦時代について「家事も育児も楽しんでいたが、自己肯定感は少しずつ下がっていった」と話す。(撮影=市来朋久)

「ショールームでお客さまとお話ししていると、どんな生活をしているのだろうと想像します。当時はまだ『収納』という概念がなく、大型収納の設計を任されることも多かったのです。けれど、そのうち漠然とした疑問が湧いてきました。この人はここに何を入れるのだろう、何でも大きければいいんだろうかという違和感があって……」

西崎さんには理想の暮らし方があった。よく遊びに行っていた叔父の家があり、転勤族で引越が多かったので、叔母はモノを増やさずにすっきりと暮らすすべを身につけていた。

そんな暮らしに憧れていた西崎さんは、24歳の時に友人の紹介で知り合った6歳年上の男性と結婚。大手外資系企業に勤める彼も転勤が多く、家庭に入って専業主婦になった。

結婚後まもなく金沢へ、そこで二人の子どもを授かった。育児は同じ転勤族のママたちと助け合い、自宅にもよく招いていた。いつもすっきりと片付いた家は、ママ友から「心地いいね」と褒められる。

家事も育児も楽しんでいたが、西崎さんの中では自己肯定感が少しずつ薄れていったという。

夫婦関係に亀裂が入った! “ある事件”

「私の父は母をすごく大事にしていて、娘たちにはいつも『パパが働けるのはママのおかげ』と話していました。私も夫婦とはそういうものだろうと思っていたのですが」

夫は家庭環境がまるで違い、昔ながらの男尊女卑が根づく旧家で育った。男兄弟の次男として育った彼は家事もいっさいせず、気に入らないことがあれば「誰が食わせてやっているんだ」と言うのが口癖の人。そんな夫婦関係に大きな亀裂が入る事件が起きた。

2011年の2月、夫は28年勤めた会社をリストラされたのだ。リーマンショックで経営不振になった社内で早期退職となり、失業の身に。さらに東日本大震災が重なって、再雇用してくれる職場も見つからなかった。

当時は福岡で暮らしていて、その春、私立高校へ進んだ長女は1年間のオーストラリア留学が決まっていた。息子は地元の中学へ入学。学費もかかる時期だが、夫は転職活動をしようとしない。不安と焦りがつのるなか、西崎さんは彼の机の上で証券会社から届いた封書を見つける。気になって開けた瞬間、血の気が引くような思いがした。

「前の年収ほどの金額がマイナスになっている株の取引明細で、これで退職金の大部分が一気に飛んだのだと気づきました。それまでは生活費しかもらっていなくて、退職金の金額も知らなかった。そのうえ夫は株のことも黙っていたのです。私はもうこんな生活はイヤだと思い、離婚を考えるようになって……」

夫の暴言、暴力におびえて暮らす日々

自信を失くした夫は不機嫌になると暴言を吐いたり、手をあげたりすることもあり、おびえながら暮らす日々。それでも子どものことを思うと、すぐには踏み切れなかった。

「私一人で生活を支えられるかという自信はなかったし、やっぱり世間体も気になってしまう。本当に苦しいことはママ友にも言えないので、必死で隠そうとしました。それまでは息子の友達もよく家へ来ていたけれど、夫が家にいることを知られたくなくて、「もう友達は呼ばないで!」と言っていたんです」

家の中が荒んでいくなか、西崎さんは生活のために働こうと決意。20年も専業主婦をしていたので正社員で雇ってくれるところはなく、やっと決まったのは時給800円のアルバイト。ヨガスタジオの受付という仕事だった。月50時間のパート代に貯金を崩し、実家の親からも助けを得てどうにか家計を支えた。

正社員になった妻に、失業中の夫は「いい気になるなよ」

「私にとっては仕事で外へ出ると気が楽だったし、重苦しい空気の家から逃れるいい口実でもあったのです。仕事では結果も出るから、自分を認められるのが嬉しくて。半年ほどで社長から正社員になって店長をやらないかと声をかけられたのですが、夫は『いい気になるなよ!』と。あの頃は仕事を終えて戻ると、マンションの部屋に電気がついているのを見るだけで吐きそうになるほど、家へ帰るのが嫌でしたね」

仕事が遅くなる日は、中学生の息子が洗濯物を畳んでくれたり、食後の食器を洗っておいてくれたり、疲れている母を気遣ってくれた。夫が怒鳴るとかばってくれ、それに対してまた夫が怒る。親子げんかがエスカレートしないよう、毎日ひそかに包丁を隠して仕事に出ていたのだと西崎さんは漏らす。

娘からの国際電話で離婚を決意

そんなある日の早朝、オーストラリアに留学していた娘から国際電話があった。西崎さんが友人と撮った写真を送ったところ、すぐに連絡してきたのだ。

娘や息子からの言葉に背中を押されることは多かった。
娘や息子からの言葉に背中を押されることは多かった。(撮影=市来朋久)

「娘は泣きながら、『ママ、離婚して!』と言うのです。『なんで?』と聞くと、『ママがめっちゃ瘦せとった。ご飯は食べてる? ちゃんと寝てないでしょう』と。私が送った写真を見て心配になり、彼女も寝られずにかけてきたのでしょう。ママは大人だから外へ出ていくことができても、弟は中学生だから家と学校と塾しか居場所がない。ママが帰るまで家でおびえながら待っている弟を思うと、自分はオーストラリアで楽しく過ごしているのが申し訳ないと言う。私はもうこの生活を続けるのは無理だと心を決めました」

夫に「離婚したい」と伝えると、「おまえが出ていけ!」と言い出す。すると息子が「俺も行く」と言い、口論になるばかりだった。やむなく家賃の安いアパートを探したが、高校受験を控える息子の環境を変えることも案じられた。

悩み抜いても答えが出ないまま、一年半ほど時が経ってしまう。とりあえず家のローンを引き継いでここで暮らしたいと、夫に話してみた。すると激怒した夫と大げんかになった。

息子が初めてこぼした本音

その後、両家の親と仲人を交えての話し合いがもたれた。夫は「おまえには20年間専業主婦で3食昼寝付きの生活をさせてやったのに、最後にこの仕打ちはどういうことだ!」と反論するが、それが捨てぜりふに。2013年4月、20年間の結婚生活が終わる。西崎さんが46歳のときだった。

その当日、西崎さんは息子が通う中学まで迎えに行った。離婚したことを伝えたときの彼の言葉が深く心に刻まれているという。

「息子は号泣して、『俺はあの家が嫌いやった』と初めて本音を漏らしました。ママとパパはいつも自分だけが大変なのだと相手の悪口しか言わないと。それまで絶対に涙も見せなかった息子がその場で泣いたのです。私がひたすら謝ると、『もういいよ、謝らんでも。終わった、終わった』と逆に慰められて……」

養育費ゼロ、持ち物を売ってやりくり

息子にとっても「帰りたくない家」だったのだと、胸が絞めつけられる。西崎さんは決してつらい思いをさせまいと覚悟を決め、家族3人の新生活をスタートした。まずは貯めていたお金や保険の貸付などで資金をかき集め、マンションのローンを完済する。離婚は成立したものの失業中の前夫からは養育費の支払いはなく、ヨガスタジオの店長職でも手取りは十数万円ほど。自分の持ち物を売るなどして、生活費はなんとかやりくりしていた。

その先に気がかりなのは子どもたちの学費だ。母子家庭の申請をすると児童扶養手当や授業料の免除を受けられ、大学進学には奨学金の借り入れもあったが、先行きの不安は尽きない。このままヨガスタジオの仕事を続けることを悩み始めた頃、たまたま目にしたのが「起業塾」の広告だった。

地下のゴミ捨て場から人生が動き出した

「福岡には女性の自立を支援するフリーペーパーがあって、スタジオの休憩室にも置いてあったんです。その中に起業塾についての記事があって、30代の女性が夢のような収入を上げていると紹介されていました。お昼ごはんを食べながら読んでは、『なんてうさんくさい!』と思って閉じる。次の日また見ては、『やっぱりうさんくさい』と(笑)。それでもあんまり気になるから、私はこんなものに惑わされてはいけないと思い、ゴミ箱に一度捨てたんですね」

すると捨てた後にますます気になり始め、もしかしたらまずいことをしたかも……と休憩室へ。だが、ゴミ箱の中身はすでに空っぽで、「やばい‼」と慌てて地下のゴミ捨て場へ駆けつける。そこから人生の歯車が大きく動き出すことになった。(後編へ続く)