日本の男女平等指数は153カ国中120位。ヨーロッパなどの先進国と比べ、日本のジェンダーフリーが進まないのはなぜなのか。人気エッセイストであり、ハーフでもあるサンドラ・ヘフェリンさんは「日本の古風な生き方を多様性の一部と認めることがジェンダーフリーを妨げている」という――。

※本稿は、サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)の一部を再編集したものです。

疲れた主婦のあくびの手カバー開いた口
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「女子力が高い」は本当に褒め言葉なのか

少し前まで「女子力」という言葉をよく聞きました。「女子力が高いね」というのは料理上手やおしゃれ上手といった意味で使われており、いわゆる褒ほめ言葉でした。

でも、「女子力が高い」と言われて素直に喜んでよいものなのか――そんな疑問をいつも感じていました。ドイツ語や英語には「女子力が高い」という褒ほめ方はありません。「女子力が高いという言葉の裏側にあるものは何なのだろう?」とやっぱり気になっていたのです。

「女子力が高い」が褒ほめ言葉として使われているのは確かですが、その裏に女性に対する思い込み、期待、決めつけがあることが少なくありません。

「女子力」は男性の願望から作られる

男性側から見て「女性にはこうあってほしい」という期待、たとえば「女性にはきれいであってほしい」「家の中の家事を全部きちんとこなしてほしい」「仕事ではやっぱり女性の職員にお茶出しをしてほしい」といった願望や期待が、今なお一部の男性の中に残っています。

それに応える形で女性が身なりに気を配ったり、職場で古風なふるまいをすることで「女子力が高い」とほめられるわけです。でも2021年の日本の男女平等指数は153カ国中120位ということを考えると、「女子力を磨く」よりも大切なことがあるのではないかと思うのです。

私は女性が仕事を持ち、自立して生きていけることこそが女子力だと考えているのですが、残念なことにあまり共感してくれる人はいません。

年配の人や、古風な価値観の人と話していると「女性ならでは」という言い回しをよく聞きます。「女性ならではのきめ細やかさ」「女性ならではの気遣い」「女性ならではの感性」などなど。でもこの「女性ならでは」にも結局は女性に対する期待ばかりが強調されているように感じます。

ヨーロッパでジェンダーニュートラルな玩具が選ばれる理由

最近のヨーロッパでは、子供になるべくジェンダーフリーの玩具を与えようという動きがあります。「男の子はブルー」「女の子はピンク」という昔ながらの価値観から離れ、ホワイト、グレー、ベージュなどの色を中心にしたニュートラルなコンセプトの玩具が数多く販売されています。

木製おもちゃ
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まず子供たちにジェンダーニュートラルな玩具を与え、そのうえで、もし女の子がピンクのものをほしがったり、男の子がブルーのものをほしがる場合、それはまわりの大人によって否定されるべきではない――最近のドイツではこのように考えられています。

ジェンダーニュートラルな玩具を与えてきたのに、女の子がお人形さんで遊ぶことを好んだり、男の子が自動車の玩具を好んでも、大人はそれを見守るべきだとしています。

玩具を与えるときに、最初から「女の子にはお人形さんを」「女の子はピンクのものを」「男の子には自動車の玩具を」「男の子にはブルーのものを」としてしまうと、子供たちの中に「女の子はこうでなければいけない」「男の子はこうでなければいけない」という価値観が固定化されてしまいます。

せめて最初に親や教育関係者が用意する玩具はジェンダーニュートラルなものにして、そのあとは子供に自由に選ばせるという柔軟な教育をしている家庭が多いのです。

「シンデレラは仕事を頑張ったから王子様と結婚できた」

女の子に対して、「男の子に選んでもらう」ようになるのではなく「自主性を持ってもらう」ために、最近のヨーロッパでは昔ながらの童話をアレンジして子供に語る親もいます。

知人のチューリッヒ在住のスイス人夫婦は『シンデレラ』を読み聞かせる際、「シンデレラの足のサイズが靴とピッタリ合ったから、シンデレラは王子様と結婚できました」の部分を親の判断で変え、娘にこう読み聞かせています。

「シンデレラは仕事をがんばりました。そして、仕事を通じて知り合った王子様と仲良くなり結婚しました」

スイス人夫婦いわく、「靴がピッタリ合うことで王子様に見そめられるというストーリー展開は、女の子の教育上よくない。娘には活動的であってほしいし、高い自己肯定感を持ってほしい」とのことでした。

このスイス人夫婦に対して、「そこまでするのか」と思う日本人もいるでしょう。

でも、子供時代の刷り込みは意外と人生を左右するものです。4~5歳の女の子が「お花屋さんになりたい」と言うとまわりの大人は喜び、「弁護士になりたい」「宇宙飛行士になりたい」と言うと「それじゃ結婚できないよ」などと反論するようでは、固定した価値観が子供に刷り込まれてしまい、成長したときに無意識のうちに“古風な道”を選んでしまうかもしれません。

「お花屋さんになるには経済学を学ぶといいね」

ドイツの親の中には娘が「お花屋さんになりたい」と言うと、「お花屋さんを経営するのはいいね。大学で経済学を勉強したら、お花屋さんが経営できるし、お花に囲まれた生活ができるよ」と話します。

これも「やりすぎ」と言えばそれまでですが、現実的な話をすると、ドイツでも日本でも「お花屋さんでパートで働く」だけでは給料が低すぎて、自立した生活はできないわけですから、ドイツの親にも一理あるわけです。

基本的にヨーロッパでは、仕事を通して自分の力で生活をできる人、かいつまんで言うと「自分で家賃を払い、生活できる人」を育てるのが親の役割だとされていますので、そこに「女の子らしさ」だとか「最終的に経済的なことは男性に頼ればよい」という考えはありません。

日本の女子大生に将来の夢を聞くと、一部に専業主婦という回答があります。これはドイツを含むヨーロッパの女子大生には見られない現象です。性別に関係なく自分の足で立つことを優先した教育で育ったためです。専業主婦はいわばその逆を行くわけですから、なりたいと考える人が少ないのです。

日本とドイツの「多様性」の違い

ところで、同じ多様性について話をしていても、日本とドイツ(ヨーロッパ)では解釈がずいぶんと違うなと感じることがあります。

コロナ禍において、日本では「女性の貧困」が問題になっています。その背景には、働く女性の多くが非正規雇用であり、安定した働き方ではないことが深く関係しています。

そういったことを考えると、私自身は、女性の生き方として専業主婦を選ぶのはリスクがあるのではないかと考えています。ところが、それを口にすると「生き方は人それぞれなのだから、専業主婦も多様な生き方の一つ」と反論されることがあります。

「古風な生き方」を多様性と認めると、本当の多様性を妨害する

ヨーロッパでいう「多様性を認めること」は、LGBTQへの理解を深めたり、これまで女性が就いてこなかった職業に女性が就きやすくなったり、今までしてこなかったものを積極的に進めることを指します。

サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)
サンドラ・ヘフェリン『ほんとうの多様性についての話をしよう』(旬報社)

これに対して日本には「昔ながらのシステムのもと、古風な生き方をする女性も多様性の一部」という考え方があります。これが日本とヨーロッパの圧倒的な違いだと私は感じます。

日本では多様性は大事としながらも、「力仕事が男性にしかできないように、産むことは女性にしかできない」「女性は女らしさを、男性は男らしさを大切にするべき」という旨の発言をよく聞きます。

でも、従来の古風な生き方を多様な生き方の一つと見なしてしまうと、結局は、多くの人が保守的な生き方を守ることに固執してしまい、多様性のある社会への変化を妨げることになるのではないでしょうか。