人の暮らしを良くしたい
カリフォルニアの自然豊かな山沿いの地で夫と4人の子どもたちと暮らし、惜しみない愛情を注ぐ松岡さん。犬とミニ豚、3頭の馬もまじえて、にぎやかな日々を送っている。
仕事では、GoogleXの設立を経て、スタートアップ企業のNestへ移り、スマートサーモスタットはじめ家庭内で利用するIoTプロダクトを開発。その後、自分で会社を作り、翌年にはAppleに入ってヘルスケア製品の開発に携わった。さらにGoogleに買収されたNestへ戻り、Google副社長を歴任。キャリアアップの歩みはパワフルだが、胸に抱く思いはずっと変わっていない。
「もともと大学の研究者だったのがなぜ企業で働くようになったかというと、人の暮らしを良くしたいという気持ちがすごく強かったからです。学術研究をしている限りはどうしても30年後など将来に向けたものになってしまう。私はもっと消費者に密接したプロダクトに関わりたくて企業へ入りました。だから、どこの会社で働くかというよりは、それを本当に実現できるところで一生懸命働いてきたのです。私のミッションとしては、家庭の中で自分のように子育てで苦労している人や親の介護を抱える人たちを助けられるものを作りたかったので、一緒にできる会社を探していました」
洗濯機ひとつあれば楽になるわけではない
そんな矢先、パナソニックから誘いの声がかかった。アメリカ在住の松岡さんには思いもよらない話だったが、来日して社長や経営層のメンバーらに会ったときに感激したという。パナソニックの社風には創業者松下幸之助のDNAがしっかり受け継がれている。人間のくらしを良くしていきたい、心と身体を健やかにしていきたいという会社のミッションは、自分のやりたいことに合致した。この会社で働こうと決め、2019年10月にパナソニックへ入社。その後、執行役員に就任したのである。
アメリカで最先端テクノロジーを駆使してきた松岡さんは、日本の老舗電機メーカーでどんな事業を実現しようとしているのだろうか。
「プロダクトの一つひとつは素晴らしいものでも、ソフトウェアとつなげたらもっと人の生活を改善できるのではと考えました。例えば洗濯といっても、洗濯機ひとつあれば楽になるわけじゃないですよね。洋服を洗ったら、干して畳んで……と機械だけではできないことがいろいろあります。数10年先にはロボットが全部やっているかもしれないけれど、まだそこまでたどり着かないから、サービスという形で手助けできるものを提供したいと思いました。昔は大家族で助け合いながら暮らしていましたが、時代が変わって家庭がバラバラになった今は核家族の中で家事も子育てもしなければなりません。私はそうした家族のために、テクノロジーを使ってサポートシステムを作りたいと思ったのです」
専属アシスタントが頼み事に応えてくれる
松岡さんが率いるパナソニックの子会社Yohana.LLCでは、「Yohana Membership」という新たなサービスを打ち出した。まずはシアトルにエリアを限定し、忙しい家族のため、人がテクノロジーの力を活用して、さまざまな用事を担うサービスだ。
月額149ドルを払えば、件数制限なしで利用できる。具体的には、アプリのチャットを通して専属アシスタントに連絡をとり、頼み事を相談する。その人が様々なエキスパートや専任リサーチャー、地域のネットワークを駆使して、用事の手配や課題の解決方法の提案をしてくれるというシステムになっている。
家の修理や改装、カーペットのクリーニング、子どもの習い事や課外活動の相談、家族旅行の企画、美容室の予約など。例えば、「叔父さんの誕生日プレゼント」を相談したら、本人の趣味や色の好み、予算などを伝えることで幾つかのアイデアが提案され、誕生日に届くように手配してもらえる。
誕生日会の企画を依頼
松岡さんもトライアルで使ったときは、よく贈り物の手配をお願いしたそうだ。しばらく会っていない友人の誕生日やお世話になった人にプレゼントを贈ることで、感謝の気持ちを伝えることができたという。
「子どもたちにも、“いいママ”でいられることが嬉しかったですね。今までは子どもの誕生日会も、仕事が忙しくて最低限のものしか用意できなくて。一週間前になってどうしようと焦り、お友だちをあまり呼べなかったり、プレゼントが間に合わなかったり、母親としてちゃんと出来ていなかったんです。けれどアプリで相談したら、NYで人気のケーキを頼み、泊りに来る子どもたちにはお揃いのパジャマを用意してくれて、ちゃんと気の利いた誕生日会をしてあげられました。誕生日会というと親はたいてい走り回っているけれど、全部サポートしてもらえるので、子どもたちと一緒に座ってエンジョイできます。うちの娘は友だちから『このお誕生日会は誰が計画したの?』と聞かれ、『私のママ』と。すると、『すばらしいね!』と褒められていて、私も何だか涙が出ちゃいました(笑)」
不安定でも何とかバランスをとりながら頑張る
サービスが本格的にスタートしたのは、2021年9月。「Yohana」という社名には、さまざまな思いが込められている。日本の言葉を入れたくて「hana(花)」が浮かび、感謝の気持ちをあらわした。そして「ohana」という言葉はハワイ語で「家族」を意味する。さらにロゴマークは、石を重ねてバランスをとるイメージをデザインした。それは松岡さん自身も仕事と子育てを両立する中で心がけてきたことでもある。
「毎日忙しい人たちは不安定でも何とかバランスをとりながら頑張っています。でも、それがぐしゃっと壊れてバランスをとれなくなったら、『ヘルプ!』と誰かに助けを求めることが大切。そんなときは私たちが駆けつけてサポートしたいし、もう一つ石を重ねることでバランスを保つ方法を一緒に探してあげることができればという願いもありました」
そのバランスが大きく揺らいだのが、コロナ禍だった。親も子どもたちも自宅で過ごす毎日になり、生活のコントロールがいっそう大変になったからだ。
松岡さんの家庭でも、4人の子どもたちはオンラインで授業を受け、夫と自分もリモートワークが続く。するとインターネットの不調が頻繁に起き、その度に子どもから「ママ!」と呼ばれる。母親が家にいると子どもたちは甘えて、ミーティングの間も机の下に座りこんで終わるのを待っている。何かしゃべりたそうな顔をしているので、しかたなく席を外して声をかけると、「ちょっと暇なんだけど、何したらいいの?」と言われて、拍子抜けすることも……。
アメリカの女性たちは次々に仕事を辞めていった
「今までは職場へ行ったら仕事のことだけを考え、家に帰ってきたら、なるべく家族の世話をしていたけれど、それがだんだん混ざり合ってバランスをとるのが難しくなってしまう。自分のウェルビーイングも満たされなくなって、ものすごくフラストレーションがたまりました」
アメリカでは女性たちが凄まじい勢いで仕事を辞めたという。家族の世話や家事の負担が増して、多大なストレスを抱えて働く意欲も失われていく。コロナ禍で家庭の在り方を見つめ直す人たちも多かったのだ。
まさにその渦中でスタートしたYohanaのサービスは、利用者から大いに歓迎された。いい母親になれたという声、自分の生活に余裕ができたという声も聞く。さらにこのサービスはテクノロジーだけに頼らないことが特徴だ。実際に対応するのはアシスタントの人であり、利用者と人間関係を築く中でサービスが提供される。利用者には自分を知り、助けてくれる人への信頼が生まれることも喜ばれた。
「AIが人の求めることを全部やろうとしても、人間のようなきめ細かいサービスはできないし、そこへたどり着くにはかなり時間がかかるでしょう。AIを搭載したバーチャルアシスタントも、まだそれほど有益ではありません。私はAIの限界もよく知っているから、テクノロジーと人間を上手につなぐサービスを作ることがすごく重要だと思っています」
かつてプロテニスプレイヤーを目指していた少女時代。その夢は断念したけれど、そこからAIやロボットの研究を続けてきた松岡さんにとって、「テクノロジーを使って、人の生活をより良くしたい」という願いは一貫して変わらない。そのためのサポートに力を尽くすから、女性たちには自分がやりたいことを頑張ってほしい――。松岡さんは温かな笑顔で私たちの背を押してくれている。